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宣教の目的

2018年09月30日
川崎 献一師
マルコによる福音書6:6b~13

先週のテキストの続きですが、イエス様は帰郷されても家族、親族はイエス様に対して不信仰でした。それで、付近の村を巡り歩かれるイエス様が、弟子たちを各地に遣わすことにされたのです。この2人組の方法は何故でしょう。1人では心細くなる弱さを配慮して、2人いれば祈り合って迫害などの困難も乗り切れるからとも言えます。

まだ、初代教会が出来る前の人間イエス様がおられる時代。僅か12人、2人1組ということで6ヶ所に派遣されました。当時、多くの人々の切実な課題としての病の問題、病とは汚れた霊が取り付いているからという考えです。イエス様のように病を癒す力、それは神の権威によって成されることから「権能」と表現されています。ホーリネス系の教会では「神癒」とも呼びます。その賜物の他に、イエス様は弟子達に条件を付けられました。必要最小限の持ち物で充分であり、後は神が弟子達の必要は備えられていると信じるのです。その姿勢こそイエス様の弟子に相応しいのです。

ユダヤ教の社会の中での宣教です。迫害も伴います。迫害から逃れるためには身軽な状態でもあるべきでしょう。12弟子の中にはペトロのように家族持ちの人もいましたが、家族は家に置いて遣わされていくのです。所持金も食べ物も持ちません。今の私達ならはたじろぐことでしょう。宣教のために見知らぬ家を訪ねることもあるのです。そこで、お世話になるという考えは人にお金を使わせることです。厚かましくも思えますが、イエス様の福音を伝える価値は、多額のお金よりも価値があります。究極の福音である永遠の命より、価値があるものはこの世にはありません。私達も、その価値観に実感がないと福音を小さく見積もってしまうもあるでしょう。有名なアスリートの選手たちは、年収何億、中には何十億円も稼ぐ人もいますが、どんなにお金を積んでも永遠の命を買うことは出来ません。だから、弟子達にとっては派遣されて宣教して、病まで癒す謝礼として生活が保障されるのは当然の権利です。

10節 最初に弟子達を受け入れた家に留まることも命じられています。これは、他にもっと厚待遇で受け入れる家があることを知っても、最初の家の人の好意を無にするなということです。人間的な条件で比べてしまう誘惑も弟子達にはあるかも知れません。 11節のように神の御心が分からない人、真の価値がある御言葉を聞かない人には「足の裏の埃を払う」という行為を示すようにとのこと。これは当時のユダヤ社会での拒絶の表現です。これは、せっかく福音を持ってきたのに、自分の意志で拒むとは神の前で愚かなことという証しです。言い換えれば、罪を悔い改めない人々も多くいるだろうというイエス様の予告です。

このようにイエス様は、弟子達を各地へ宣教させて迫害を乗り越える訓練をさせておられます。本来の派遣は、イエス様の昇天後、聖霊の力を受けて働く使徒言行録からですが、弟子達の準備としては必要なことです。現代では、牧師や伝道者になる前の神学生が訓練を受けることにも通じます。ここでの宣教の目的は、あくまで罪の悔い改めです。病の癒しは付加価値としては必要でしょうが、目的ではなく手段です。当時はオリーブ油などを患部に塗って癒したようですが、油といえば現代では聖霊のことです。「聖霊の油注ぎ」とも言います。当時もイエス様が来られたこと自体が福音ですが、まだ、イエス様の十字架の時は来ていませんでした。その福音の成就は、十字架と復活の出来事を信じて救いの恵みを知るのです。今の私達は、十字架の時を待つことはなく、約2000年前に既に起きた真実として信じます。正しい信仰には罪の悔い改めが伴います。

世の中には信仰なく、様々なことを目的として生きている人々が多くいます。また、目的もない人々もいます。いずれも的外れです。神の前での自分の罪に気付いていません。罪の赦しの喜びを知らされた私達は宣教、それも聖書の中心を知らせる福音伝道に励んでいきます。皆様、教会へ行きましょう。/p>

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