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殉教

2018年10月07日
川崎 献一師
マルコによる福音書6:14~29

毎年、10月第一主日は「世界宣教の日」そして「世界聖餐日」です。イスラエルで発生したキリスト教ですが、初代教会の伝道者が神に用いられて、まず周辺の国々へ福音が伝わっていきます。イエス様の12弟子で一番、遠い国へ遣わされたのはトマスです。インドで殉教しています。殉教とは狭い意味では、福音伝道をしていたら迫害を受けて殺されることです。何よりも十字架で死なれたイエス様の似姿として霊的には光栄なことです。イエス様の血は、全世界、全時代、全人類のために流されました。それで、年に一度同じ日に世界共通の聖餐日が設定されたのです。広い意味では別に誰かに殺されなくても殉教は有り得ます。今の日本では、信教の自由が保証されキリスト教への迫害もありませんから、最期まで信仰を貫いて神を証し、死ぬことを召天 として受け入れるならば それも殉教でしょう。

本日の聖書で、殉教した人は洗礼者ヨハネです。ヨハネは人間イエスの親戚であり、イエス様に洗礼を授けた神の器です。弟子も多くいたことでしょうが、イエス様こそ「来るべき救い主」と信じていました。その道備えとして「罪の悔い改め」を人々に呼び掛けていました。このヨハネは、ヘロデ王の命令によって殺されていました。ヘロデは、イエス様の噂を聞いてイエス様のことを自分が首をはねたヨハネが生き返ったことにしました。イエス様への評価は、ユダヤ社会では各々ありました。他にもヨハネの生き返りとする者もいたり、旧約聖書のエリヤは竜巻に乗って天に引き上げられた真実からエリヤの再来、また具体的な名前は出ていませんが預言者だと、いずれもイエス様が神の権威を持って働いておられた故の評判です。ヘロデは、ヨハネ殺害を正当化したかったようです。ヨハネは殺されても生き返って、イエスという名で働いている、だから一度殺されても、死に勝利できる人物なんだから構わないだろうという理屈です。人間は、自分の都合がいいように聖書をも解釈することが出来ます。

<17節以下に「なぜ、ヨハネは殺されてしまったか」が記されています。ヘロデは律法違反をしていました。へロディアはヘロデ大王の孫娘でした。このヘロデ大王は、イエス様が産まれた頃の王でした。それから約30年が経ち、世代交代が起きています。本日のヘロデ王は二代目で正確にはヘロデ・アンティパスです。へロディアは、ヘロデの兄弟フィリポ、つまり自分の伯父と先に結婚していました。それをヘロデが奪って結婚していたのです。王である者がユダヤ教の律法を破っていることを指摘したのがヨハネです。多くの人が「余計なこと言わなければ捕まらなかった」と思っても、ヨハネの妥協を許さない信仰こそ、神の御心に適っていました。/p>

ヘロデは、権力の乱用からヨハネを捕まえました。以前からヨハネには興味があったのか、独占してヨハネの教えを聴けるようになりました。自己中心のヘロデなので、聖なるヨハネの話しを聴いて当惑することは当然ですが、喜んでいることには矛盾を覚える人も多いでしょう。実は、私達にもヘロデのような面がないか問われています。一般的な読み方なら、「残忍なヘロデは許せない」とか「独裁政治があってはならない」または「ヨハネは可哀想」更に「世渡り下手なヨハネを反面教師にする」等、それは感想です。でも、聖書は人の罪を裁くためにあるのではなく、むしろ自分の心に潜んでいる罪に気付かせ、更に悔い改めさせるためにあるメッセージです。

ヨハネの教えは、ヘロデにとっては聖書を学ぶ意味では、律法学者たちの教えより分かりやすく、更に深い真理をヨハネから聞けたことが喜びとなっていたでしょう。これが中々、自分の罪の悔い改めには繋がらないことが人間の本質でしょう。私達も「ヘロデとは違う。一緒にするな」と言い切れるでしょうか?勿論、私達には人の首を刎ねる権力などはありませんし、殺人を実行する者は稀でしょう。只、神の前ではヘロデ同様に罪人であるという謙虚さが必要です。ヘロデも心を痛めるのなら「それは無理だ。ヨハネは私にとって必要な教師だ」と言うべきですが、客の前で誓っていることなど自分のメンツを優先しました。人の命より、自分の立場を守る保身の姿勢が上回ったのです。ヘロデとしては、自分の見聞を広める意味では利用価値としてヨハネを生かしておきたかったのでしょうが、殺人命令を部下に出しておきながら「惜しい人を亡くした」位にしか思えなかったかも知れません。これは自分の意志ではない、少女の要望に応えたまでだという言い訳もあり、更にイエス様をヨハネの生き返りとしてしまおうと悪知恵を働かせたのです。

イエス様も十字架上で死なれましたが、殉教とは言われません。贖罪死と表現されます。イエス様は罪がなかったので殉教の必要もなかったからです。他の人はヨハネであろうが、旧約時代のモーセなどの預言者もイエス様の弟子達もみんな罪人です。その殉教者たちの血が流される歴史を経て、キリスト教は世界宗教となっていきました。殉教を受け入れる程の信仰の原点は、イエス様の献身愛です。地上での死への恐れを乗り越えたら、世の終わりの時には死からの復活の希望が約束されています。

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