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聖なる契約

2018年12月16日
川崎 献一師
ルカによる福音書1:67~80

本日のテーマは、72節の後半に書かれていますが、広い意味では聖書そのものを指しています。聖書は、神と人類の契約の書です。神は聖なる方です。この「聖」という言葉を私達人類は、どう捉えているでしょう?クリスチャンは「聖」という言葉を聞く機会が多いでしょうが、一般人でも神道の禊や清めなど、心の汚れを取り除く儀式を行います。また「聖子」という名の女性もいます。子どもたちには「心が清い人」と言っても分かりにくいので「心が綺麗な人」と話したりもします。人は無意識にも「聖なるものへの憧れ」があるようです。

このテキストはイエス様より半年前に産まれた後の洗礼者ヨハネの誕生の喜びを通して、父ザカリヤが神を賛美しています。神の御計画では、イエス様より先にヨハネが預言者として(76節)イスラエルに遣わされる必要があったのです。ヨハネは成長して、聖なる神の前での自分の罪を悔い改める必要を説いて多くの人に洗礼を授けました。更に悔い改めた者が罪か赦され魂が救われるためにはイエス様の十字架が必要です。ヨハネの使命は、イエス様の到来を指し示すことだったのです。

本日のテーマは、遡れば旧約聖書に出てくるユダヤ民族の長アブラハムに神が約束されたことから始まっています。アブラハムに改名する前のアブラムの時代に、神は一方的に彼に現れ、宣告されました。大いなる国民とはイスラエルです。先に選ばれた神の民ですが、罪を犯す歴史を繰り返してきたので異邦人にも救いが及ぶようにという聖なる契約です。ザカリヤの時代から約2000年前、現代の私達からは約4000年前の契約です。その知識がザカリヤにはあっても、まさか高齢者の自分に子どもが生まれ、その子が洗礼者ヨハネとしてイエス様より先に備えの時を告げる偉大な神の器になるとは想定外の話です。でも、神の御業を体験して本日の預言が聖書にしっかりと記されています。御言葉を聞いても、信仰体験がなければ、心からアーメンとは言えない弱さが私達にはあります。

神は、私達に「聖なる契約」を立てておられます。本日の場面では、救い主イエスの到来と、その前の預言者ヨハネが遣わされることが契約の内容ですが、それは一方的なものでした。現代の日本でも欧米文化の影響で契約社会の構造になっています。欧米は聖書を基盤とした背景があるので、契約を交わすことにより確実に仕事などの物事を進めます。只、契約を交わして書類に捺印しても人間同士の場合は絶対ではなく、契約不履行も有り得ます。勿論、そうなったら相手からの信用はなくなります。相互の人間関係は信頼の上に成り立つからです。

神は私達が、神を裏切っても愛しておられます。それは一方的に神が私達を造られたための無条件の愛です。人類も罪さえ犯さなければ、神を愛することが出来ました。しかし、罪の事実が致命的で神から離れ易くなりました。私達は、神を愛していると言えるでしょうか?クリスチャンは、神の愛を知らされた者です。主日礼拝という公の場でイエス様を救い主と信じ、洗礼を受けて聖なる契約を交わしています。只、その後、罪を犯さずに本日のテーマ、つまり聖なる契約に相応しく生かされているでしょうか?神は憐み深い方ですので、罪を悔い改めるごとに赦して下さいます。ザカリヤも語った通り、78、79節の言葉には励まされます。

ホーリネス信仰を目指す人は、「神の前で優等生になりたいの?」と問う人がいます。「私は清めより憐みの方が親しみがあっていい。救われただけで充分、劣等生である私をも愛して下さる神を信じていきたい」と話します。ホーリネスという言葉は誤解されやすいものです。自力で清くなれる筈がありません。神との交わりを第一とすれば、聖霊という清い神の力によってイエス様のような清い人格を身につけられる筈です。また、自分を「神の前で優等生」と思った時点で、霊的傲慢です。イエス様ではなく、福音書によく登場するファリサイ派の姿勢に似ています。その人は清くないでしょう。イエス様は御父なる神の前で、常に謙虚でした。救われる、清められる、人は神に対して受け身です。神の意志によってイエス様も洗礼者ヨハネも神から遣わされたのです。80節、このヨハネもイエス様同様、神の時が来るまで人々の前には出てきませんでした。荒れ野という神と交わるための場所にいました。そして、神に召し出されて聖なる任務を行ったのです。

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