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エッファタ

2018年12月30日
川崎 献一師
マルコによる福音書7:31~37

本日のテーマは、口語訳聖書では「エパタ」と訳されています。「エッファタ」とはアラム語で「開け」という意味、更に「解放されよ」という意味深な言葉です。当時の病気や障害者は、悪霊に縛られていると思われ、悪霊からの解放が望まれていました。イエス様は、数々の癒しの御業をなさってきましたが、患者の体に手を置くだけ、中にはイエス様の服の裾に触れるだけでも病気が治るということもありました。その噂を聞いて、今回もイエス様の手当てを願った人々に対し、少し時間をかけます。穿った見方をすると、手を置いただけで癒せるイエス様が「勿体ぶった方法」で癒しをなさるようにも見えます。耳と舌に二重の障害がある人に対し、イエス様は憐まれました。この人が、今までの生活でどんなに苦しんできたか、そしてイエス様以外に頼る人はいないという信仰は私達も見倣うべきことです。

只、信仰とは神と自分の一対一の関係になる必要があります。本日のテキストでは、神癒の力の素晴らしさが印象的でしょう。当時の周りにいた人々もイエス様を賛美しています。人間らしい見方です。でも、イエス様の御心は人の思いとは違います。これを霊性とか霊的と呼ぶのでしょうが、神癒の素晴らしさ自体を人々に見せて神を証しするなら、群衆の前で行うべきだったのではないでしょうか?33節の「この人だけを群衆から連れ出し」という言葉を見落としてはなりません。つまり、患者を群衆からは見えない場所に連れて行かれたのです。この障害者は、目は見えていた筈ですから、イエス様と1対1になった時のイエス様の行動は見ています。イエス様を信頼しているので、されるがままだったのでしょう。それは両耳にイエス様の手の指が入れられました。また清い方の唾ですから汚くはありません。舌に触れられたことも受け入れたのです。更に天を仰ぐというのは、天の父への信頼です。深呼吸をして本日のテーマです。この癒しの御業に医学的な根拠はありません。35節の出来事は奇跡です。

この素晴らしい結果は、神は生きて働かれているという意味で証しすべきことでしょうが、イエス様は、口止めをされました。何故か?それは、癒し自体を喜ぶ信仰で終わる人々が、いかに多いかをイエス様は察知されています。本日、癒された人はイエス様に従いませんでした。口止めされているのに、人々に話したからです。「話して悪い筈がない」という自分なりの信仰、つまり神の奇跡を御利益信仰として話してしまう姿勢です。勿論、癒しの事実には素直に神に感謝すべきですが、その神の御心を知ることが本来の信仰なのです。

神は、信仰の「きっかけ」として癒しをなさいます。勿論、本日の癒された人も信仰を持ってイエス様の元に連れて行かれましたが、まずは肉体の癒しに関わる御利益信仰でしょう。御利益信仰=罪ではないので、これからも私達も願いを正直に神に祈りましょう。でも、究極の癒しは、肉体的なことでも精神的なことでもありません。魂の救いを指す霊的な事柄、つまり罪の赦しです。聖書が示す罪の問題が解らないのは、霊性がないからです。洗礼を受けた人々は、神御自身に心が向けられ、イエス様の十字架による罪の贖いを神の宣言として受け入れた筈です。

先週のクリスマス集会には、予想を越える人数が上町教会に集いました。教会に出入りすることは自由ですが、出入りという軽い気持ちから始まっても、真摯に神を求めて、主日礼拝に出席してみることに導きがあります。他の教会では、普段から敷居が高いのか出入りする人々も少ない現実があります。上町教会は、みふみ認定こども園との連携もあって恵まれた環境です。神に感謝して祈って、究極の神癒である罪の赦しの唯一の道が教会を通して既に開かれています。「心を神に開け」(エッファタ)という意味も込めて、イエス様の福音を新年も伝えていきます。

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