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ペトロから学ぶ

2019年01月27日
川崎 献一師
マルコによる福音書8:27~9:1

イエス様は、御自分を人々がどう思っているか気にされました。これは一般の人が自分をどう思っているか気にする次元とは違うでしょう。一般の人は、神の前では五十歩百歩です。全てが神からの賜物なのに、「自分には才能がある」とか「努力したから人とは違う」と誇るのは愚かなことです。神からの恵みの賜物と知らされた人は、自ずと謙虚にさせられます。イエス様は特別な方です。それも単なる預言者ではありません。周りの人々はイエス様のことを預言者として認めているに過ぎません。洗礼者ヨハネは、首を刎ねられて殺されましたが、イエス様に洗礼を授けた唯一の人ではあります。また、エリヤは旧約聖書の預言者で竜巻諸共、天に上げられた事実が神格化されていました。イエス様は、それらの意見を否定はされませんでしたが、敢えて弟子たちに問われました。そこで12弟子の代表であるペトロが答えました。「私も、偉大な預言者と思います」ではありません。預言者というのは惜しい答えかも知れませんが、正解ではありません。ペトロは正解を答えました。メシアとは神に油注がれた者、それも唯一無比の存在、救い主です。イエス様は、ここでも口止めをなさいました。救い主への人々の誤解を防ぐためです。誤解が生じるということは、神の御心と人の思いにはギャップがあります。多くの人々が思い描くメシアとは、植民地のユダヤ社会がローマの圧政から解放されることです。でも、神は政治的なことは表面的な現象であり、個人個人にある神の前での罪の問題を解決することこそ、メシア・イエスの最大の使命と思っておられます。

本日のテーマは、このペトロと後半のペトロとの対比です。実はイエス様は、カミングアウトをされました。メシア到来の目的を語られたのです。この発言への反応からペトロのことを学びます。ペトロは、イエス様をいさめたとありますが、イエス様とユダヤ社会のためを思ってのことです。メシアが迫害されて殺されるなんて有り得ないという考えです。イエス様は、その後に死から復活されることも言われています。死で終わらないのだから大丈夫という意味を、ペトロは聞き流したのでしょうか?

イエス様は、ペトロを叱りましたが、これはペトロに対してだけではないということで他の弟子たちを見ながらと書かれています。そして、イエス様はペトロをサタン呼ばわりされました。勿論、ペトロ=サタンではありませんが、サタンの思いがペトロの心に入っていることをイエス様は霊的に見抜いておられました。「人間のことを思う」こと自体は悪くありませんが、神の御心を無視して「人間のことを思う」は的外れ「罪」なのです。悪気なく発言したペトロに同情するを人々は「いくら何でも、サタンはないだろう。イエスの言い方は酷い」も的外れなのです。  漢字を使う民族は日本人と中国人でしょうが、漢字の全てではないにせよ、漢字には聖書的な意味があると信じる学者がいます。「偽り」という漢字も意味深です。「偽り」は人偏に「為」という漢字の合成「人のため」となります。本日のイエス様の御言葉からペトロは「人のため」を思った言葉が神の御心からは逸れた「偽り」だったのです。よく世間では「世のため、人のため」とは言いますが「神の栄光のため」とは言いません。私達は「神の栄光のために」神を礼拝、賛美した上で神に造られた隣人を愛していきます。その結果「世のため、人のため」にもなることを信じて奉仕をしていくのです。

ここまではイエス様と12弟子の交わりです。12弟子にはイエス様がメシアということを告げられましたが、まだ内密です。そして、弟子たちも含め群衆への御言葉です。命令はなさっても、強制はされていません。人の自由意志も重んじられるからです。それが「私の後に従いたい者」また「自分の命を救いたい者」という言葉で、言い換えれば「私に従いたくないなら、十字架を背負うこともない。但し、そのままでは自分の命を失うよ」という警告です。実は聖書では命という言葉には二重性があります。普通は命といえば今、地上で生きていることでしょうが、それは地上の命です。その命も無駄にしてはなりませんが、イエス様のためまた福音という神に与えられた良き知らせのために命を失うこともあります。その先駆けがイエス様ご自身が迫害され十字架に付けられることです。十字架というのは、当時のローマの死刑の方法としてよくありました。それをイエス様が人類の罪からの救いのために引き受十字架に付かれたのはイエス様ご自身です。そのイエス様の道に従う人は「イエス様のように直接、十字架に掛けられる」ことはなくても、各人の苦難を神から与えられた十字架として担えという意味になります。人によって十字架の内容も違います。重病人、障害者、人間関係の悩み、貧困者等、それぞれです。以前、乙武洋匡さんという人が「五体不満足」という本を出しました。彼は105才で召天された日野原重明さんと対談したこともあります。その中で「私は無宗教」と言っていました。もし、彼がクリスチャンになって身体障害者の現実を「十字架を背負う」と証しすれば素晴らしいことでしょう。只、世間でも「困難」自体を十字架と表現しますが、それは言葉の独り歩きです。イエス様つまり聖書に従うことが前提です。「苦しみに耐えているが、キリストなど信じない」ではいけません。

36節の命とは永遠の命です。地上で全世界など手に入る筈がないので誇張された表現ですが、例え世界一の大富豪になっても、永遠の命を失い、永遠の刑罰を受けることになれば意味がないのです。自分の命を買い戻すのには、イエス様が代価として神の前で支払われるのです。ペトロは、この時点ではその真理を知らなかったのです。現代でも多くの日本人が、この御言葉を呆れかえって聞き流します。「イエス様と御言葉を恥じるなんて」とクリスチャンは思うでしょう。しかし、私も昔はそうでした。キリスト教は少数派なので、牧師の子ということも恥ずかしかった時期が長くありました。でも、そのままではイエス様が再臨された時、逆にイエス様に未信者の存在を「恥ずかしい」と言われてしまうのです。9:1は解釈が難しいですが、ペンテコステの出来事を指すと言われます。本日のペトロとは大違いに変えられた彼の力強い説教は使徒言行録にあります。

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