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天の輝き

2019年02月03日
川崎 献一師
マルコによる福音書9:2~13

イエス様は責任を持って12弟子を選んでおられます。その中の3人には特別にイエス様と共に登山されました。高い山ということは、天国に近いという象徴です。元々、山とは神との交わりに集中する霊的な環境です。イエス様は、趣味で登山されたのではなく、目的意識がありました。それは、先週の箇所でかなり大胆なことを弟子たちに言われました。「十字架と復活の出来事」ですが、弟子たちには口止めをされました。また、群衆にも「神から与えられた各々の十字架を背負うように」とか永遠の命、再臨、ペンテコステの出来事まで予告されています。この神の御計画を初めて聞いた人々は、大いに戸惑ったことでしょう。メシア(救い主)と言えば、神の力によって現実のローマ植民地政策からの解放を促すリーダーというイメージがあります。

イエス様が3人の弟子を連れて行かれたのは、この世的なメシア像を持つ人々に「この世が全てではない」ことを現わしたかったのです。言い換えれば天国の存在を証ししたかったのです。多くの人々が天国があるといいとは思っているでしょう。良い行いをすれば、天国に行けるのでしょうか?善い行いをしても罪は赦されません。行いでは救われないことは聖書の教えです。天国行を邪魔しているのは罪の存在です。イエス様も罪深い地上で生活されましたが、罪に汚染されたりはしません。只、心は完全に清い方でも外見、つまり衣類や体は泥が付いて汚れたりはした筈です。そのイエス様の服が真っ白に輝いたとあります。この世の白さではありません。よくカレンダーなどにイエス様の想像画が描かれていますが、殆ど白い服になっています。白は清さを表す色ですが、天国とは全くの聖所、罪の侵入を許しません。

そこにエリヤとモーセの登場です。エリヤは旧約時代の預言者代表、モーセも預言者ですが、律法を神から直接与えられた人なので律法の代表者です。地上からは去った過去の人、ユダヤ教徒からも尊敬されている有名な2人がイエス様と語り合っています。推測では、イエス様が十字架に向かわれることを話題にしているのではと思う人もいます。弟子たち3人は場違いです。只、ペトロがここでも弟子の代表のように発言しています。それも的外れな仮小屋を3つ建てるなんて、ペトロは元々は漁師です。むしろ、イエス様の方が大工のヨセフに育てられたので、建築関係はイエス様の方が得意な筈です。これはペトロ達3人の精神状態が普通ではないということです。私達も特殊な状態に身を置いたら、我を忘れて自分を見失うことになるでしょう。イエス様に従ったら、高い山で尋常ではない輝きのイエス様にエリヤとモーセが会いに来たという光景、幻のような出来事も長くは続きません。神が雲を用いられ、エリヤ達の姿を覆いました。そこで天からの声です(7節)これはイエス様の御父なる神の声でしょう。もう、暫くはイエス様も弟子たちと地上で見える姿でおられるからです。エリヤとモーセは、このことのために一時的に天から遣わされてきたのです。不思議な話ですが、聖書にある以上は神の御言葉として信じます。

下山すると現実の世界が待っています。イエス様は、先週の箇所に続いて弟子たちに口止めをされます。今回は条件付きです。敢えて、死者の中から復活するまでと言われています。先週の箇所でユダヤ教の指導者たちに排斥され、殺されることまでは弟子たちはまともに聴いていても、復活のことへの反応がなかったからでしょう。十字架刑などあってはならないことと弟子たちは思っていても復活などは有り得ない話として聞き流されたのです。弟子たちは、このイエス様の命令は守った筈です。聖書は、イエス様が天に昇られてから数十年後に書かれ編集されたものだからです。

死からの復活を強調なさるイエス様ですが、弟子たちには非常識な話なので論じ合っています。論じても仕方ありません。イエス様の御言葉だからという理由で素直に信じる姿勢が大事なのです。ある牧師が「アバウトに言うと、台湾は賛美の教会が多く、韓国は祈りの教会が多く素晴らしい。只、日本は議論の教会という印象を持たれていることが残念だ」と言っていました。議論と言えば、本日の弟子たちのように言い合うことです。もっと神に対して賛美と祈りを献げたいものです。 そして、目の前におられるイエス様には別の話を訊きました。エリヤの再来ですが、それは既に実現したとイエス様は言われました。エリヤとは洗礼者ヨハネのことでしたが、結局、ヘロデ王の手で処刑されました。人類の無知が神の御計画を妨げているようにも見えますが、その残念な出来事も含めて神の御計画は進みます。言い換えれば、これこそ人知では計り知れない神の摂理です。イエス様は、神の御計画を全て御存知です。苦しみの末の十字架刑を受け入れることに、はっきりとした目的意識があります。それも全て私達人類の罪からの救いのためです。そして、死で終わらない復活の命は、世が終わる神の時に私達信者にも及びます。罪が赦された者だけが与る究極の希望です。天国の素晴らしさ、天の輝きを一部の弟子たちに垣間見せるための本日のテキストだったのです。

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