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イエスの我慢

2019年02月10日
川崎 献一師
マルコによる福音書9:14~29

本日の19節、イエス様の「何と信仰のない時代なのか」という御言葉をどう受け止めましょうか?当時は、唯一神のユダヤ教徒が殆どの時代です。今の日本より遥かに宗教は盛んで神の律法も守られていた筈ですが、神から見たら本物の信仰ではないということでしょう。講解説教を行う中で、毎回イエス様の素晴らしさを学ぶと同時に弟子たちの不甲斐なさに気付かされます。他人事として「弟子たちは、どうしようもない連中だ」と見ることは簡単ですが、この弟子たちの在り方は現代の教会の在り方に繋げてみる必要を示されます。

先週のテキストは、天国の素晴らしさを3人の弟子たちが垣間見た話でした。いずれ行ける天国に希望を持つことは結構ですが、その天の輝きを知らない人々との交わりが本日の場面です。他の9人の弟子たちは、いつもイエス様に対立する律法学者たちと議論していました。その内容は、イエス様は多くの病人を癒されてきたのに、弟子たちには出来ないということです。これは聖書には、イエス様の奇跡の記事、つまり神の力による出来事が多く載っているのに、現実の教会にはそんな神の力などは期待できないと言っていることでしょうか?

本日のテーマは、19節の後半から付けました。今までもイエス様は弟子たちを始め、人類の不信仰を我慢されてきたのです。イエス様が直接、働かれても弟子たちは無力という現実は残念です。イエス様が見える姿で世におられる任期は天の神によって定められていました。具体的にはユダヤ教の過越祭の時に十字架に付けられ、三日目の朝には復活され、その後は40日間、地上におられます。昇天後は、このイエス様の働きを弟子たちにも継承してほしいのです。勿論、聖霊の力によって弟子たちは変えられていきます。只、この時点の弟子たちは、その神の御計画には無知です。聖霊よりも、悪霊に縛られた患者を前に呆然としているからです。

イエス様は、悪霊と対峙なさいます。悪霊はイエス様のことを知っています。悪霊の働きとして患者である息子を苦しめて見せます。イエス様は医者のように父親に問診をされます。幼い頃から悪霊の支配下で絶望している親子です。今までも多様な方法で、悪霊からの解放を試みてきた筈です。噂を知って、イエス様の下に来た父親ですが、9人の弟子たちも治せなかったのです。父親は「いくらイエス様でも、今回は無理かな」という思いからか「おできになるなら」と言ってしまいました。

24節の父親の言葉は正直です。言い換えれば「信じられないけど、信じさせて下さい。息子を、これ以上、苦しめないでください」という叫びです。 この騒ぎに、何事かと他の人々も走り寄ってきました。イエス様は、神の力を証しするチャンスとばかりに悪霊に命じられました。この御言葉は真実です。二度と、この子の中に入るなというのは、再発を許さない命令です。悪霊の最期は、悪あがきのように叫び出ていきました。悪霊に取りつかれていた子は、それまで騒々しかったことが嘘のように動かなくなりました。いくら悪霊からの再発がなくても、死んでしまってはと思いきやイエス様は即行で彼を生き返らせました。本日も神の素晴らしい御業がイエス様を通して行われたのです。

これは喜びの出来事ですが。弟子たちには気になることがあります。それは、人前では言いにくいため、後でイエス様に家の中で訊きました。弟子たちが今までのイエス様から「見よう見まね」で癒しの業を行ったのに出来なかった事実には理由がありました。この悪霊の存在を通して神は祈りによらねば出来ないことがあることを示されました。ということは、祈らなくても人間にさせていることもあるのです。「よく当たる人気占い師」とか「自力で裕福になった人」や「未信者でもオリンピックで金メダルを獲った人」など、世ではよく聞きますし、例を挙げたらキリがありません。それらも事実ですが、神が許容なさっていたに過ぎません。今回は、弟子たちの信仰が試されたのです。イエス様の弟子たちであっても、純粋な信仰に欠けていたのです。弟子たちも「あの霊を追い出せなかったこと」を吟味して悔い改めるべきでしょう。弟子たちの不信仰をイエス様は我慢なさってきたのです。次週も弟子たちについて学びます。弟子たちと言えば、つまり現代の教会も、神の御心に適う純粋な信仰姿勢か問われます。神の清さを祈り求めていくべきできしょう。

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