イエスの結婚観
多くの人が持つ結婚観にはどんなものがあるでしょう?恋愛感情の成就や相性が合う人と生涯を共に歩む喜び、子孫繁栄などを連想しますか?でも、絶対的なものではありません。おしどり夫婦と呼ばれた人達が離婚することもあります。結婚自体は、神からの賜物で素晴らしいことでも、結婚生活が順調に行くとは限りません。それは信仰にも言えます。信仰が与えられることは感謝なことですが、信仰生活には波風が立つこともあります。試練に苦しみ、誘惑によって罪を犯したり、様々な思いから教会から離れることもあるでしょう。神は人類を試しておられます。信仰と結婚には関連があります。純愛が問われる結婚生活の場合は、夫と妻の関係ですが、それは信仰の場合も神と人との関係が純粋無垢であるか問われます。イエス様ご自身は人としては生涯独身でした。只、神としてイエス様は世末には花婿として花嫁を迎えに来られます。それで、人間イエスとして特定の女性と結婚する必要もなかったのです。イエス様の花嫁とは誰か?男女を越えて私達クリスチャンです。そして、イエス様の体なる教会を指します。
イエス様の周りには、群衆がいます。弟子たちが「今からイエス様が話をされます。集まって」と招いたのではなく、人々の方から来ます。ファリサイ派は、カリスマ性があるイエス様を妬んでいます。律法の知識に関しては「最近、現れた若造のイエスより自分達の方が上」という誇りもあった筈です。私達人間が神に試されることはあってもいいことですが、人間に過ぎないファリサイ派が、何と神の子イエスを試そうとしたのです。イエス様の言葉尻を捕らえようとします。最近の日本でも「言葉狩り」といって、自分と対立する相手に悪意から「あっ、失言だ」と大勢で貶めようとする動きもあります。
結婚に関しては7節の御言葉こそ、守るべきです。これはアダムとエバがエデンの園で罪を犯す前の状態です。キリスト教の結婚式で読み上げられる箇所です。アダムとエバに子どもが出来たのは、エデンの園を追放されてからです。その罪の遺伝子を受けて結婚に関しても、的外れなことが次々と起きています。一夫多妻の制度を神が許容なさった時代もあります。現代でも結婚前の妊娠や離婚する人々の存在、最近では同性婚など多様性がありますが、該当者を裁く訳にはいきません。只、9節のイエス様の御言葉は心に留めておくべきです。
上町教会は、ホーリネス信仰を重んじますが、その源に当たるジョン・ウエスレーは偉大な神の器でした。18世紀のイギリスで起きた信仰覚醒運動をリードしました。しかし、彼は若い頃、アメリカに行き1人の女性を好きになりましたが、彼女には婚約者がいました。神の前で他の人との結婚の約束をした女性を奪う訳にはいきません。ウェスレーは失恋をして帰国しました。更に彼は晩婚でしたが、妻に振り回されました。いわゆる悪妻で異常に嫉妬深かったようです。今なら、心の病と診断されるでしょうが、年中怒っていたそうです。ウェスレーの説教中にも暴言を吐いたり、ウェスレーが病院にお見舞いに行った時、相手が異性の場合「浮気をしているのでは?」と疑ったと言います。また、来客の前でも夫の長髪を引っ張り、怒鳴り散らす有様でした。教会の人達も「聖書で禁じられていてもウェスレー先生の離婚は認めたい」という声まで出ました。それでも、ウェスレーは離婚をしませんでした。本日のイエス様の御言葉にも従い、妻を庇って忍耐しつつ愛していたのです。ウェスレーは「全世界が私の教区」と言って馬に乗って様々な場所で伝道していたので、家を留守にすることも多かったようです。家にいると大変なので、そこから解放された喜びで野外活動をしていたと思われたかも知れません。悪妻をも「神に合わされた相手」と見て試練として受け止めたのです。「愛しにくい人をも愛する心は聖霊の賜物」です。イエス様の似姿を目指すウェスレーの心は聖化されて召天 したことでしょう。
イエス様の本日の話は、弟子達には興味深かったようです。10節で改めて訊いています。11、12節は当時のローマの法律とは違います。現代の日本でも、法律で離婚は双方の同意さえあれば認められますが、神の律法では許されません。夫婦どちらかが生きているなら、結婚は続けるべきです。只、どちらかが死んだ場合は別の相手との再婚も許されます。それは、人の意志ではなく、神の意志で配偶者の地上の命が取り上げられたからです。再婚する場合「離婚は罪だが、死別は罪ではない」ということです。 もっと大事な霊的な意味での結婚観が、イエス様ご自身に繋がることです。これは地上の命が終わっても、存続します、つまり、永遠の命による神との交わりをするには罪の赦しが必要です。イエス様の贖罪と復活を心から信じましょう。