先頭に立って
本日のテーマは、イエス様のリーダーシップです。マルコによる福音書は、四福音書の中で一番先に書かれ、また一番短い福音書です。当時の時代背景は、イエス様に対して迫害の魔の手が既に伸びていました。マルコ伝からは分かりにくいでしょうが、ヨハネ伝にはイエス様への迫害についても書かれています。イエス様に石を投げる者もいました。これは石打ちの刑とし私刑(リンチ)を意味します。でも、まだ神の時が来ていないので捕まらないし、イエス様の死刑の方法は、合法的な十字架刑ということになっています。それはイエス様も御存知のことです。イエス様は、ユダヤの首都エルサレムへ上ろうとされています。ユダヤ教・最大の過越祭も予定されていて、ユダヤ教の指導者たちが陣取っている場所です。彼等は、イエス様に敵対どころか殺意まで持っている人々です。イエス様は、弟子たちを前にして恐る恐る行かれる様子ではありません。「弟子たちよ、私を守ってくれよ」という保身など微塵はもありません。だから、弟子たちは驚いているのです。従う者とは、12弟子の他にもイエス様に従う者達がいたのでしょう。彼等は恐れています。「イエスに従うのは、ここまでにしよう」と思ってもおかしくはありません。
イエス様は全て神の御計画を御存知です。神の子だからこそなんですが、堂々と先頭に立ってエルサレムへ進んでいかれます。そして、12弟子を呼び寄せ3度目の受難と復活の予告です。自分の身に起ころうとすること全てを御存知です。その近い未来の出来事を話される中に間違ったことは1つもありません。逆に罪人である弟子達は、分かっていなかったし、現代のクリスチャンでも、未来のことは具体的には知らされていません。イエス様は、罪なき聖なる方です。人として生まれて下さいましたが、イエス様は天の父なる神に毎日祈っておられる中で、全てを神に教えられていたのでしょう。
本日のイエス様の御言葉を吟味すると、エルサレムへ行くのは弟子達も一緒です。それで「私達」と複数形で書かれています。本日の場面では、驚いても従っていくのです。その中には裏切者のユダも含まれます。只、逮捕されるのは人の子と表現されているイエス様1人です。他の弟子達は逃げるからです。祭司長たち、律法学者たちと、いずれも複数形で書かれています。集団で虐められるような者です。合法的に裁判にも掛けられます。弟子達は、イエス様が死刑にならないようには出来ないので、人間的には役立たずに見えます。裁判の結果、イエス様の罪状は「神への冒涜罪」として死刑宣告を受けます。この死刑囚をユダヤ人たちは、自分達の手では執行できません。石打ちの刑のようなリンチで殺すのではなく、当時はローマ帝国の植民地であったユダヤは、もっと大勢の見せしめにしたいのかローマに死刑の権限を託すのです。本日の聖書にある異邦人とは、ローマ人のことです。つまり、当時の大国の支配者、異邦人であるローマ人に殺されるということはユダヤ人にとって最大の屈辱を意味しています。ユダヤ人なら、同じユダヤ人に殺された方が、まだマシということでしょう。
34節、逆にイエス様は、されるがままです。罪人たちの仕打ちを真正面から受け止められます。何故、そこまでするのか理由は書かれていませんが、聖書全体を読めば、はっきりします。私達の罪の赦し、魂の救いのために他なりません。神の子としてのプライドも捨てて、逃げも隠れもせず、神の方法、神の御心に全て従われるのです。本日の箇所には「十字架」という言葉はありませんが、当時のローマではよく利用された死刑の方法でした。これを神が用いられ、十字架の形にも象徴的な意味があります。縦棒が、神と人との垂直の関係、横棒が人同士の関係を指します。イエス様は、神と人類の愛の架け橋となられ、十字架上で最大の犠牲者、被害者となって下さったのです。
17日の午後、四條町教会で地区総会が行われました。社会の差別問題に関する話し合いもあり、総会の時間も延長しました。私は、4月から九州教区の教会に転任しますが、教団では様々な差別問題に取り組んでいます。私は、黙って人々の話を聴いて学び取ろうとしていました。その結論として「自分の罪を棚に上げて、正論を装って軽々しい発言はできない」ということです。確かに理不尽な差別を受けて被害者になっている人々は多くいるでしょう。「差別をなくそう!」とはよく言いますが、人類に罪がある以上は差別はなくなりません。「差別を減らそう」なら、まだ分かります。そして、差別を受けた人は勿論被害者ですが、その人が他の人を差別したことはないとは言えません。つまり、被害者は加害者にもなり得る罪を持っているのです。クリスチャンだからと言って自分には差別意識が100%ないとも言えません。表立って言うことはなくても、密かに抱く差別の心をも神は御存知です。イエス様のみが、加害者にはならない方です。そして、イエス様を十字架につけたのは、表面的にはユダヤ人の策略、実行犯はローマ人達に見えるでしょうが、実は私達人類がそうさせたのです。私達いや私こそ、イエス様への加害者ではないでしょうか?
十字架のことだけ言われたイエス様ではありません。「復活する」という希望が語られています。人間的には、有り得ないことなので聞き流されています。弟子達は、主が殺されるという十字架の出来事に絶望するのですが、希望の福音である復活が信じられません。それは、死んでも復活して天国に行けるから大丈夫と私達がクリスチャンの御遺族を励ましても、とても喜べないことに似ています。クリスチャンの復活は、世末時なので、まだまだ先と思うと故人との再会までに時間がかかりそうです。でも、イエス様の復活は3日目です。弟子達はすぐに再会できました。イエス様は、今は見えない方ですが、聖霊として先頭に立って導いておられます。