「キリストの復活」ヨハネによる福音書20章11−18節

2020年4月12日
担任教師 武石晃正

 本日は教会暦ではイースターあるいは復活節と申しまして、イエス・キリストの復活を祝う聖日でございます。移動祭日の一つでありまして、何月何日と日付で定まってはおりません。今年は4月の第二聖日がこれにあたり、今朝は皆様の前で謹んで主の復活をお慶び申し上げます。
 復活と申しますからには一度死なれたということになります。多くのプロテスタント教会は聖礼典としてバプテスマと主の晩餐を継承しています(教団信仰告白)。罪人が悔い改め、バプテスマによって復活の主に結ばれて教会へと加えられます。そして主の晩餐において教会は主の死を告げ知らせます 。
 私たちは毎月の聖餐式で主の死を覚え、日々復活の主に生かされています。また年に一度イースターには、あらためて復活とを心に刻むのです。本日はヨハネによる福音書より「キリストの復活」と題してお分かちいたします。初めに復活の朝の出来事を確認しまして、そこから2つの点を取り上げたいと思います。

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1.キリストの復活の朝
 今朝は20章11節から18節を朗読していただきましたが、キリストの復活の朝としてヨハネによる福音書の1節から18節に書かれている出来事を振り返りましょう。

一 空っぽのお墓(1-2節)
 まず1,2節です。主イエスが十字架上で死なれ、葬られてから三日目。週の初めの日の朝早くのことでした。マグダラのマリヤは他の女の人とともにイエス様が葬られた墓へ向かいました 。亡骸の手入れとして香油を塗るためでした。墓と言っても山肌を掘った洞穴で、入り口は大きな石を転がして塞ぐというものでした。ところがマリアが墓に着いたときには既に入り口の石が取り除けられていたのです。それを見たマリアたちは主の弟子のペトロとヨハネのところへ走って行き、イエス様のからだが誰かに持ち去られてしまったと報告しました。

二 お墓を確認したペトロとヨハネ(3−10節)
 3−10節には弟子たちの様子が書かれています。マリアたちの報告を聞いて驚いた弟子たちは、すぐに二人で墓へと走って行きました。先に着いたヨハネが入り口から墓の中をのぞくと、本当にイエス様の体がないようです。後から来たペトロは来るなり墓の洞穴へ入り、イエス様を包んでいた亜麻布だけが置いてあることを確認しました。体を巻いていた布と、頭を包んでいた布は別々に置かれていました。続いて入ってきたヨハネもそれを見て、イエス様が死者の中から復活されたことを信じました。驚いた二人は仲間のもとへと帰っていきました。

三 マリアに現われてくださったイエス様(11−18節)
 11節以下にマグダラのマリアに再び光が当てられます。弟子たちの後をついてきたであろうマリアは、墓の外で立って泣いていました。彼女が洞穴の中をのぞくと、白い服を着た二人の天使がいて「なぜ泣いているのか」と声をかけてきました。「誰かがイエス様の体を取っていきました。どこに置かれているのか私には分かりません」と答えるマリアは、振り返って誰かが立っていることに気づきました。その人も同じように「なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」と言いました。マリアは墓地の管理人だと思って言いました。「あなたがイエス様の体を運んだのなら、どこに置いたか教えてください」
 するとその人は「マリア」と彼女の名前を読んだのです。ガリラヤ訛りの懐かしい響きです。マリヤもつられて国言葉で「ラボニ」(先生、しぇんしぇい?)と答えました。目の前に立っていたのは紛れもなくイエス様、本当に死からよみがえられたのです。すがりつくマリアをたしなめながら「わたしがよみがえったことを弟子たちに伝えにいきなさい」とイエス様は彼女に言付けを託しました。マグダラのマリアはすぐに弟子たちのところへ行き、自分が見聞きしたことと主イエスからの言付けを伝えました。

 これがキリストの復活の朝における一部始終です。主イエス様がよみがえってくださったことを心から感謝します。

2.キリストの復活の証人
 では誰がこの出来事を目撃したのでしょうか。第一の点として、キリストの復活の証人とは誰であるかということを考えて参ります。主はどのような者をご自身の証人としてお選びになったのでしょうか。
 まず1節に「まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った」とあり、3節には彼女の知らせを聞いて「ペトロともう一人の弟子は、外に出て墓へ行った」と書かれています。他には2人の天使とイエスご自身だけですので、この3人がキリストの復活の証人ということになります 。この3人に共通するものは何だと思われますか?
 細かく挙げれば際限ありませんが、一つだけ取り上げるとすれば「愛」それも初めのころからの愛 です。この人たちはイエス様を心から愛していました。イエス様が大好きで仕方がなかった人たちです。ただ好きだったのではなく、イエス様からどれほど愛されているかを身に染みて感じていました。身をもってイエス様の愛を受け止めた人たちです。
 ペトロについては早合点であるとか勇み足であるとか、失敗ばかりしてその度に学んで成長した、といった少々辛めの評価を見聞きすることがあります。勿論そのような一面は否めません。しかし彼ほどイエス様と親しく語らい、神の子の友として歩んだ人はいないでしょう。時には恐れや迷いに心が揺らいだこともありましたが、それも他の弟子たちは踏み出せなかった一歩の先にあったことばかりです 。夜中の嵐の湖でも近づく人影がイエス様だと分かった途端に嬉しくなって、自分も一緒に水の上を歩いてみたくなりました。イエス様がユダヤ人たちに捕らえられた際には他の弟子たちは散り散りに逃げましたが、ペトロだけは心配で仕方なく裁きの様子を見に行ったほどです。主を3度も否んだと言われていますが、逃げ出す機会は2度あったわけです。それでも夜明けまでその場に留まったということになります。葬られた墓が開かれていたと聞かされて駆け足で現地へ向かい、真っ先に洞穴に入ったのもペトロでした。
 ヨハネについて今日は詳しく述べませんが、キリストの愛について筆をとらせたら右に出る者はいないと言っても過言ではないでしょう。ヨハネによる福音書もヨハネの手紙も、キリストを通して現わされた神の愛 を中心に記されています。
 特筆すべきはマグダラのマリアで、彼女は復活の朝に最も早く墓地に現れた人物です。復活した主イエス様に最初に出会った人物でとして、4つの福音書のすべてに記されています。言い方を変えますと、十字架と復活の出来事において前触れも説明もなしに登場する女性です。すなわちマグダラのマリヤ自身あるいはその名前が、初代教会にあってキリストの復活の生き証人として広く受け入れられていたことを意味するでしょう。例えになるか分かりませんが、武蔵坊弁慶と言えば立往生の代名詞であるかのように、マグダラのマリヤはキリストの十字架と復活の象徴的存在だったと言えましょう。
 彼女はいずれの福音書においても最後のクライマックスに登場しますが、ルカによる福音書によればイエスの初期伝道から婦人たちの集団に加わっていたことが分かります 。イエス様の公生涯の初めのころからずっと従って歩んだ「七つの悪霊を追い出していただいた」女です 。マグダラがどこにあるとか、彼女がどのような奇跡を受けたのかなどの説明はありません。書かれた当時のクリスチャンたちが「マグダラのマリア」と聞くならば、「あぁ、あのマリアね」とみんなが知っているマリアだったということです。
 キリストの復活の第一目撃者ということで知られていたこともありますが、初代教会とくにエルサレム教会の礎を築いた一人だと考えられます。持ち物を分かち合い、その世話をするという初代教会の営みは、イエス様の初期ガリラヤ伝道のうちから弟子集団の中で始まっていました。マグダラのマリアはその中心的人物の一人として3年余り仕え、エルサレムへと上ってきました。初めのころにキリストの愛によって救われた彼女は、それからずっと主に仕え、人々への愛のわざに励みました。そして彼女が主を慕う思いは、他のマリヤたちとともに十字架を見届け、早朝まだ暗いうちから墓所へ行かずにはいられないほどの愛でした 。
 このように十字架の後3日目の朝早くに復活の恵みを見ることができたのは、初めのころの愛から離れず、イエス様をこの上ないほどに愛した人たちでした。主はこのような人をキリストの復活の証人としてお選びになられました。

3.キリストの復活に生きる人
 第二の点は、キリストの復活に生きる人は誰であるかということです。その答えは「主を愛しているすべての人」だと言えましょう。
 私たちの目にはマグダラのマリアも、ペトロとヨハネも、みな自分から墓地へ行ったように見えます。しかし主が彼らを復活の証人として選び、主が彼らを招かれたということが背後にあります。彼らに共通することは心の底から主を愛していたということです。主が私たちに求めておられるのは「主を愛していること」なのです。
 私たちは主を愛しているのでしょうか。私自身が問われている6つの質問をお分かちしたいと思います。ご一緒に心のうちで問いかけてみませんか。

① 主に愛されているかではなく、私は主を愛しているのでしょうか?
 主が聞かれたのは、あなたは神に愛されていることを信じていますか?ではなく、あなたが愛しているのかどうかです。
② 主を信じているか、主に従っているか、主に仕えているかではありません。
 あなたは主を愛しているかどうかが問われます
③ 私たちが奉仕をする前に、主は聞かれます。あなたは私を愛していますか、と。
 その質問にペトロが答えた後に、彼には羊を飼うという奉仕が与えられました。
④ 他の何ものよりも、主を愛しているでしょうか。
 家族や仕事や教会を愛することは正しく、素晴らしいことです。しかし、何よりも主を愛しているでしょうか 。
⑤ 他の人と比べるのではなく、あなた自身は主を愛しているでしょうか?
 ペトロはヨハネについて「主よ、この人はどうなるのでしょうか」(21:21)と尋ねました。他の人はどうでもよいのです。私自身が主を愛しているでしょうか。
⑥ 私たちは全身全霊をもって主を愛しているでしょうか?
 あなたの主への愛は片手間ではないでしょうか 。

 以上6つの問いかけをしました。
  

まとめ キリストの復活
 「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」(Iコリント1:18)
 罪がない方が罪とされ、死にまで従われたほどに愛を示されました。そして復活し、マリアと弟子たちにその愛を現わされました。これを2000年前の出来事として、あるいは2000ページのうちの1ページとして片付けてしまうこともできます。
 キリストの十字架は私が抱えているすべての罪を償うためのものでした。そしてキリストの復活は、主を愛するすべての人にとって救いであり、生かす力となるのです。


※①~⑥の問は宮城県のS・M師を通して与えられました。

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