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「復活の主に出会う」ヨハネによる福音書20章19−29節

2020年4月19日
担任教師 武石晃正

 先週は主の復活を覚えるイースターの礼拝でした。十字架から3日目、週の初めの日の朝早くの出来事から、主に愛され主を心から愛した弟子たちの姿を学びました。
 今日はその日の夕方の出来事、復活の主に出会った人たちを読み解いて参りましょう。読まれた箇所をもとに、2つのことに焦点を当てたいと思います。

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1.赦し主イエス(19-23節)
 まずひとつ目は19-23節より赦し主イエス、あるいは赦しを与えられたイエス様に焦点を当てましょう。罪を赦す方が弟子たちに現われた出来事が記されています。
 十字架の翌日の安息日が明けた週の初めの日、その日も夕方を迎える頃です(19)。思えば大祭司の庭でイエス様が不当な裁きを受けていたとき、その様子を伺っていたペトロは炭火にあたっていました(18:18)。3月4月とは言えど日が沈むと急に冷え込むのがユダヤの気候のようです。真っ赤な太陽がギラギラと照りながら西の大地へ沈んでいく雄大な光景ではなく、夕闇迫る街角で人々が寒さに身を縮めながら家路を急ぐような情景です。人影が途絶え物寂しさを覚えます。
 そこに1軒の家があり、戸口には早々と鍵がかけられています。ここに主の弟子たちが身を潜めていました。ユダヤの習わしで安息日は出歩かないとしても、その次の日も男だけで10人ほどが詰めたまま3日目を迎えています。ユダヤ人を恐れて(1)隠れているにしても、いろいろと不都合も感じ始める頃合いです。食べ物にしても飲み水にしても外から手に入れなければなりませんが、潜伏中の身ですからノコノコと調達に出歩くわけにも参りません。先ほども申したように夜はかなり冷え込みます。煙を立てればすぐに見つかってしまいますから、火を焚くことができず暖を取るにも煮炊きをすることも叶いません。そればかりか用を足すこともままなりません。水洗トイレなどありませんから、厠は家の外にありましょう。迂闊に用を足しに行けば誰かと鉢合わせる恐れがあります。弟子たちは外出自粛要請どころではないストレスを感じていたはずです 。
 と、そこへ11人目の姿が現われます。「なんだトマス、入ってくるなら合図ぐらいしろよ。って、おい誰だよ、戸口の鍵をかけ忘れてたやつは」。10人が目を上げると、なんとそこにはイエス様が立っていたではありませんか。「あなたがたに平和があるように」(19)と懐かしいお声。穿たれた両手の傷跡、脇腹にはローマの兵士に槍で貫かれた傷跡、紛れもなく十字架に掛けられた証拠です。それまでのイライラが一瞬で吹き飛んでしまいました。
 それまでの弟子たちの様子もお察しの上で、イエス様は改めて弟子たちに平和の祝福を告げました。そして大切な役割を委ねられたのです。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される」(23)。私たち人間のあらゆる罪のあがないとなるために神の子ご自身が世に来られたように、今度は弟子たちが自分の名誉や立場のためではなく人々の罪を赦すために遣わされたのです。もし彼らが誰かを裁いて赦さないことがあれば、主の十字架の血潮が無駄に流されてしまうことになるのです。目の前に示されたイエス様の両手と脇腹の傷跡が、弟子たちに語りかけるようです。
 一つ目の焦点は、イエス・キリストは救い主すなわち罪を赦すお方であるということです。そして主に倣うその弟子たちは、罪の赦しを命をかけて求める者と変えられたのです。それはこの世の価値観においては思いもよらないことであり、つまり人間の力では到底なし得るどころか理解さえ及ばないことなのです。それゆえに主は「聖霊を受けなさい」と、神ご自身のいのちと力と知恵とを受けるように命じておられます。

2.きずあと(あかし文より)
 2つ目の焦点に向かう前に、一つ寄り道をさせていただきます。10人の弟子たちはイエス様の両手とわき腹に何を見たと思いますか。ある方は穴と言われるでしょうし、別の方は傷と仰るかもしれません。しかしそれをあえて定義するならば、傷跡であるわけです。
 先日、聖書からのとある奨励を読ませていただきました。誌面の都合で本当にごく限られた行数の短文ですが、ハッとさせられたので一部をお分ちしたいと思います。
 
 傷は、完全に治るまで傷跡にはならないのです。傷跡ができているなら、傷は癒えてきているのです。
 傷跡を、受けた傷のしるしと見るか、それとも傷つき崩壊した状態に神様が介入され、癒やしの道に私を置いて、絶望的な状況の中で希望を灯してくださったしるしと見るか、自分で見方を選べるのだと私は理解しました。(アパルームNo.416 p.59)


 今日の聖書箇所に照らしてみましょう。主イエス様は弟子たちに両手と脇腹とを示されましたが、彼らに見せようとしたものは傷だったのでしょうか。あるいは傷跡だったでしょうか。傷と傷跡との違いは、赦しと癒しの恵みにあります。
 ご自身が逮捕されるや一目散に逃げ出した弟子たち。口々に命をも捨てるなどと言った割には、誰一人として代わりに鞭うたれようともした者はいませんでした。母マリアをいたわって付き添ったあの弟子のほか、十字架の上から見えるところに弟子の姿はありませんでした。皆さんなら自分が最も辛くて助けを求めたいときに、自分を見捨てて目の前から去っていった人を赦すことができますか 。 
 復活をしたイエス様は、しるしとして跡こそとして残されたものの、打たれた傷はすべて癒やされていたはずです。弟子たちに見捨てられたときの痛みも傷も、一切が癒えていました。彼らの裏切りも両手の傷と同じく、主は既に傷跡にすぎないものとしてくださったのです。
 せっかく主が罪を赦してきよめようとされているのに、時に「赦されないまま残る」(18:23)恐れがあるのです。そこには「あなたがたが赦さなければ」と、その条件が「あなたがた」にあると明らかにされています 。
 聖化の恵みによって罪がきよめられ、神癒の恵みによって傷が傷跡へと変えられることを待ち望むのでしょうか。罪の跡があったとして、その傷口のかさぶたをいつまでも突付けばいつまでも傷のまま治りません。傷が癒やされて傷跡に変えられるまで祈りによって包み込むことは、復活の主に出会い聖霊を受けた者の特権にほかなりません。

3.信じる者になりなさい(24-29節)
 さて2つ目の焦点は、本日の朗読箇所の後半より「信じる者になりなさい」との主のおことばです。先に結論的なことを申し上げますと、このお言葉はトマスという弟子に向けられたものでしたが、ヨハネが福音書を記したことにより全ての読者に向けられています。見ないのに信じる人(29)について述べれば、福音書が書かれた当時の教会も、そこから1900年ほど経った現代の私たちも同じ条件です。主イエス様に直接お会いしたことがないことに変わりがないからです 。
 出来事としては何らかの理由で週の初めの日にトマスが留守にしていたことに起因します。トマスと入れ違いで復活された主イエス様が弟子たちに会いに来られました。そのことでトマスは非常に悔しい思いをしたのでしょう。「わたしたちは主を見た」(25)という他の弟子たちに対して、トマスは「あの方の手に釘の跡を見、(中略)わたしは決して信じない」とへそを曲げてしまいます。
 しばしばこのトマスという弟子について、懐疑的な性格だったという解説を見聞きします。子どもの頃から教会に通っておりますと、言葉だけが独り歩きして「疑り深いトマスさん」と慣用句のように身についておりました。果たしてトマスは懐疑主義の疑り屋だったのでしょうか。あくまでも後代による評価であり、聖書そのものは沈黙しています。
 別の箇所ではトマスについて「すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った」と記されています(11:16)。これは親友ラザロが病で死んだとの知らせを受けた主が、ラザロのところへ行こうと仰ったときのことでした。他の弟子たちが困惑している中、いち早くトマスが腹をくくったのです。置かれている状況を察知し、適した行動を導き出し、自らそれを実行する男、それがディディモと呼ばれるトマスだと読み取ることもできるのです。
 今朝の箇所では、まず十字架の3日目の出来事において罪を赦すという使命あるいは課題が提示されます。その上で、トマスをどちらの見方で測るのかというる練習問題が与えられているようです。トマスの留守を、いじわるな疑り屋が身勝手に外へ飛び出していたのだと推察することもできましょう。互いに責め合いさばき合っている10人を横目に、まず今日しなければならない優先事項、つまり食料と水の調達に命を張って奔走していたと汲みとることもできるのです。前回とまったく同じ状況のときに、主が再び姿を現されます。他の弟子たちの前でトマスのためだけに主が現われてくだったのですから、答えは自ずと決まるのではないでしょうか。
 今日の2つ目の焦点である「信じる者になりなさい」とは、もちろん主イエス様とその復活を指しています。その上で、この主が私の隣人のことをも愛して命を注がれたという事実を信じることのように思います

まとめ 復活の主に出会う 
 「見ないのに信じる人は、幸いである」(29)とは必ずしも主の両手と脇腹の傷跡に限ったことばではないでしょう。書かれていないトマスの行動についても、また私たちの目の前にいる兄弟姉妹についても、相通じることと思います。見たまま罪と決めつけて、赦されないまま残すこともできましょう。未だ見ぬきよめを切望し、やがて傷が傷跡へと癒やされていくことを信じることができるのです。
 こんな私さえも愛して、代わりに鞭で打たれ十字架に打ち付けられて死なれた方がおられます。その3日目に私のために復活してくださったイエス・キリストがおられます。私にとっては赦せないと思えるような人のためにも、主は命を注がれたのです。復活の主に出会う者として、聖霊を受けた者として、赦しと癒しの恵みを証しし続けたいと願います。

「信じないものではなく、信じるものになりなさい。」

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