「わたしの羊を飼いなさい」ヨハネによる福音書21章15−25節

2020年5月3日
担任教師 武石晃正

 唐突ですが、みなさんは羊という動物を飼ったことはありますか?あるいは近所で飼っていたとか、牧場で放牧しているのを実際に見たことがあるとか、身近なところで羊に触れたことはあるでしょうか。
 イエス様がおられた時代のガリラヤ湖のほとりでは、もしかすると羊飼いが羊を放牧していたのかもしれません。残念ながら現代の日本では当時のイスラエルほどには身近なところで羊を見ることは稀だと言えましょう。
 東北地方に住んでいた頃に、私は何度か岩手県のとある牧場を見学させていただいたことがあります。美味しい牛乳やバターでよく知られている牧場ですが、羊の放牧もしていました。牧羊犬が睨みを利かせて上手に羊を小屋へと導く様子がとても印象的でした。
 その時に聞いた話なのですが、羊という動物は見かけによらずとても頑固な性格をしているそうです。視力もそれほどよくないので近くしか見ておらず、自分が思った方向に進んでいくので道に迷いやすいのだとか。飼い主より自分のほうが主人であるように思っているようだとも聞きました。なかなか言うことを聞かない頑固者との説明に、まるで自分のことを見透かされたような気恥ずかしさを覚えたものです。
 今日は十字架で死なれたイエス・キリストが、復活の後に弟子たちに現われたお話の続きをいたします。「わたしの羊を飼いなさい」と、12弟子のひとりシモン・ペトロがイエス様より直々に働きをまかされたときの出来事です。

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1.わたしの羊を飼いなさい(15-19節)
 復活したイエス・キリストがゆかりの地であるガリラヤで弟子たちに姿を現されました。夜通し漁をして何も捕ることができなかった弟子たちに網が破れんばかりの大漁を与え、炭火を焚いた岸辺でイエス様は弟子たちと朝食を摂られていました。
 食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。(15節)
 どのような面持ちだったのかは書かれていません。答えるペトロにも「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」とだけ記されています。そこでイエス様はペトロに「わたしの小羊を飼いなさい」と告げました。もしかすると湖にほど近い丘の上へ羊飼いが羊を連れてきたところだったのかも知れません。
 しばらく経って、またイエス様はシモン・ペトロに語りかけます。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」と。ペトロは網を繕ってでもいたのでしょうか。 「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えたペトロに、イエス様はまた「わたしの羊の世話をしなさい」とおっしゃいました。
 更にその後「三度目にイエスは言われた」とあります。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい」。

 ほとんど同じ問答が3度繰り返されています。みなさんはどうお感じになられましたか。「同じことを3回も聞くなんて、イエス様も随分としつこい方だなぁ」と思われましたでしょうか。
 実はイエス様がユダヤ人らに捕らえられて大祭司の屋敷で尋問を受けていたとき、シモン・ペトロは様子を伺いに門の外までやって来ていました。その場に居合わせた人たちに「お前もあのイエスの仲間じゃないのか」と迫られて、明け方までについ3度も否んでしまったのです。復活して会いに来てくださったとは言えども、ペトロの胸の中にはそのことがずっと引っかかっていたことでしょう。
 自分から切り出せずに苦しんでいるペトロの様子を見るに見かねて、イエス様のほうからお声をかけてくださったに違いありません。ご自身のことを3度も知らないと言ってしまった弟子が、償いきれない呵責に悩んでいるのです。復活してからお会いになるのはこれが3度目になりますが、ほかの弟子たちも腫れ物に触るような思いでペトロを見守っていたかも知れません。

 敵の本陣とも言える大祭司の家まで潜り込んだほどの男です。生半可な気持ちではなかったはずです。それ相応の覚悟をしたはずなのに、それなのにその場しのぎの嘘によって主を裏切ってしまったわけです。ただ逃げ出しただけであったなら、主と再びお会いしたときに呵責はすぐに取り払われたことでしょう。しかし目の前におられる主を裏切り、自分の心を繰り返し欺いてしまったのです。背いた罪を赦していただいたとしても、ペトロ自身の胸中には深い深い傷跡が刻まれたままになっています。
 主はその傷跡の一つ一つをなぞるように、3度お声をかけられました。「違う」と打ち消したその唇を、主を愛しているという告白のことばで上書きするよう導いてくださったのです。
 わたしを愛しているかと尋ねられて、はい愛していますと即答できるはずもありません。返す言葉も見つからないのです。「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と遠回しな響きですが、これ以上の答え方は到底できなかったのでしょう。
 ただ主を愛しているだけでなく、その思いを主が受け止めてくださっていることの告白でもあります。背きが赦されその傷跡が癒やされたしるしのように、「わたしの小羊を飼いなさい」「わたしの羊の世話をしなさい」「わたしの羊を飼いなさい」と一つ一つに証印が捺されていきました。

 主はペトロが回復するために必要な時間を待っていてくださり、彼にとって最も適切で必要とされる方法を選んで取り扱ってくださいました。そして「わたしに従いなさい」(19)と主はペトロを再び立ち上がらせました。彼が主の羊を飼う役割を委ねられたのは、誰よりも信仰深かったからでも熱心だったからでもありません。「私があなたを愛していること」という主イエス様への愛のゆえだけなのです。

2.イエスとその愛する弟子(20-25)
 さてヨハネによる福音書の最後の数節では、視点がペトロからもう一人の弟子へと移されます。なかなか名前を明かしませんが、24節には「それを書いたのは、この弟子である」と書かれていますので、私たちは使徒ヨハネであると知ることができます。
 この福音書のために筆が取られた頃には、使徒ペトロは主が示されたように殉教して既にこの世を去っておりました。他の使徒たちも、イエス様と直接お会いした多くの人々も主の御許へ召された後です。ヨハネだけが生き証人として残されていたような時代です。 福音が国々へと広まる一方で、迫害も強まり、あるいは間違った教えが教会に入り込んできます。使徒ペトロは殉教し、初代教会の拠り所であったエルサレム教会がなくなって早四半世紀が過ぎようとしていました。「キリストはこの世にいない。あのペトロも処刑されてしまった。教会の歩みは間違っていたのではないか」そのような声がどこからか聞こえて来そうです。

 また生き残っているヨハネについては全く別の噂が立ち始めていました。「彼は神の子に直接お会いした弟子だ。神の国を委ねられているから永遠に死なないのだ」と。この名の知れた二人の使徒について誤解を解くべく、この2つの逸話が残されたように思われます。
 一つはペトロが殉教したのは主キリストご自身が予め知っておられたことであり、「神の栄光を現すようになる」ためだったのだということです。もう一つがヨハネについて、「死なない」と言われたわけではないということです。特にこのことについて「あなたに何の関係があるか」と結ばれています。
 この時代の弟子たちに限らず、人間とは知らないことを知りたいと思う存在なのでしょう。知りたいのに知れないので、いろいろと憶測し、憶測から噂が広まります。しかし使徒ペトロでさえ知らなくて良いとされたことを、まして他人が知ろうとする必要はないのです。ヨハネをどのように扱うのか、それは主が決めることであってヨハネだけが知っていればよいのです。
 知りたいことが私自身と神様との間のことであれば、ごく個人的な事柄ですからあれこれと憶測を重ねたところで噂になりようもありません。時に親切心から、時に興味本位から「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と誰かについて尋ねたくなることがあるでしょう。ところがもしそれを知り得たところで、主がお定めになったことに私が口出しできることではありません。ましてその人の罪や重荷を代わりに負ってあげられるはずもないのです。なぜなら、私は私自身の魂さえ自分で救うことができない者だからです。

 「あなたに何の関係があるか」とは一見すると突き放したような冷たい言葉に思われるかも知れません。しかしイエス様はヨハネはヨハネとして、ペトロはペトロとしてそれぞれにご計画を持っておらるのです。そして一人ひとりを特別に愛しておられます。
 主が私に問われているのは「わたしを愛しているか」ということだけです。その答えによって「わたしに従いなさい」と命じられています。私と主との間に誰かが割って入ることができない、特別な愛の絆です。この愛のうちにあるならば、私が誰かのことで心を騒がせることもなく、まして主が既に代価を払っておられる他人の罪についてとやかく考える必要はないのです。
 このように気付かされて、私は心の荷が軽くなったように感じました。勿論悩みがまったく無くなったわけではありません。自分の罪が赦されただけでなく、他人のことでいつまでも拘っていなくてよいと解き放たれたことを知ったのです。

<結び>
 ペトロは「わたしの羊を飼いなさい」という役割をイエス様より与えられました。この大切な役割はペトロから教会へと引き継がれ、今や全世界へと広がり分け与えられています。各々の国や地域で、また町々で、小さな羊飼いたちが次々に遣わされていることを私たちは見ることができましょう。
 羊を飼うと一口に言っても幼い羊に餌を与えるところから、牧草地を探して羊の群を連れてゆくところまで、非常に幅の広い働きです。時には迷子になっている羊を捜しに行くこともあるでしょう。小さな働きまですべて数え上げようものば枚挙に暇がありません。それらの働き一つ一つを、主イエス様は小さな羊飼いたちに委ねられているのです。あなたもその羊飼いの一人ではありませんか?
 この主に愛される羊飼いとなるには、その資格はただ主を愛しているということだけです。主を愛しているから、その羊をも同じように愛することができるのです。私たちはイエス・キリストの愛を注いでいただいて、罪の赦しと復活の命を受けています。あなたはイエス・キリストを愛していますか?直接お返しできない代わりにどなたか身近にいる方へ愛を現すこと、それが「わたしの羊を飼いなさい」とのお言葉への答えになるのです。

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