「御霊の実」ヨハネによる福音書15章18−27節

2020年5月10日
担任教師 武石晃正

 イエス・キリストが父なる神の前で私たち罪人を救うために身代わりの死を遂げられたのがゴルゴタの十字架の出来事でした。葬られ、その3日目に復活された主イエス様は墓所で女たちにお姿を現されました。その後、一度は我が身かわいさに逃げ出した弟子たちのもとを訪れ、「聖霊を受けなさい」(20:22)とおっしゃいました。そうして主は弟子たちに人々の罪を赦す権威をお授けになりました。
 使徒信条を通して告白しておりますように「主は聖霊によりて宿り、おとめマリヤより生まれ」ました。主は成人され幾年か経て、神の民イスラエルへ神の国を宣教するにあたって洗礼者ヨハネよりバプテスマを受けましたが、その時に天が開いて聖霊が降りました。そこで「これはわたしの愛する子」という声が天から聞こえました(マタイ3:17)。聖霊によって神の子が人として生まれ、聖霊によって神の子であることが確証されます。
 今日はこの聖霊、私たちは神の霊であるこの方を御霊(みたま)と呼びますが、この御霊を受けたものの歩みとそこから生じる実について考えてみましょう。

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1.迫害の予告(18-25節)
 本日お読みいたしました聖書箇所の書き出しは、イエス様のお言葉として「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい」(18)と記されています。その理由はイエス様が弟子たちをこの世から選び出し、ご自身のものとされたからであると説かれています(19)。そしてこの箇所はキリストの弟子たちがこの世から受ける迫害と憎しみについて、角度を変えながら繰り返し述べています。ではその「あなたがた」とは誰のことを指しているのでしょうか。

 出来事としてはあの十字架よりも前のことになります。イエス様はご自身が現に受けているユダヤ人たちからの迫害を含めて受難受苦を予告しています。語り手がイエス様であれば聞き手である「あなたがた」とは直接の弟子たち、いわゆる12弟子と呼ばれる者たちであります。年代にして紀元30年代の半ばでしょうか。事実彼らは主が天に帰られてから間もなくペンテコステの日に聖霊を受け、同時代に聖霊を受けた多くの弟子たちもユダヤ人からの迫害をうけます。極めつけは60年代後半の皇帝ネロによる大迫害です。
 しかしこの福音書が書かれたのは、諸説のうち早い年代を採っても90年代だとされています。エルサレム陥落さえ四半世紀も昔のこと、ユダヤ人系のクリスチャンたちが宣教の表舞台からほとんど姿を隠した時代です。イエス・キリストが直接語りかけた「あなたがた」がこの福音書の受け取り手となりえないでしょう。そうなりますと、書かれた時点における「あなたがた」とは、旧約を中心としたユダヤの教えを背景に持っていないギリシャやローマの信者たちへ向けられていると言えるでしょう。そして現に彼らは迫害の渦中にあったのです。著者は同時代に苦しみの中であえぐ弟子たちを、神の子より賜った迫害の予告のことばをもって励まし導きました。
 更にこの福音書は歴史上の教会の中で正典として受け継がれ、全世界へと宣べ伝えられています。つまり全人類においてキリストの弟子となったすべての者にとって、共通の真理であるわけです。この「あなたがた」はあらゆる時代のあらゆる国の、あらゆる地域のあらゆる町々の教会へと向けられています。ですから、21世紀に生きる私たちも時代を越え、国境を越えてなお真理として受けることができるのです。世界の果ての島国の教会をも覚え、その苦しみを知ってくださる主に感謝します。

 さて、この「あなたがた」が迫害を受けることが主イエス様の受けた迫害や受難と通じるものであるなら、主が受けた迫害はどこから始まったのでしょうか。24節には「だれも行ったことのない業を、わたしが彼らの間で行わなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが今は、その業を見たうえで、わたしとわたしの父を憎んでいる」と記されています。この「だれも行ったことのない業」がユダヤ人らの憎しみを駆りたて、そこから迫害が始まったのです。
 「だれも行ったことのない業」と読んだ時、ある別の箇所でのイエス様の言葉を思い出しました。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」(マルコ10:27)というものです。文脈が異なりますのでひとえに扱うことはできませんが、これは弟子たちの「それでは、だれが救われることができるのだろうか」という驚きへの答えとして主が語られたものです。だれも行ったことがなく、人間にはできないこと、神にしかできないことです。それは罪の赦し、人を救うことです。
 当時のユダヤ人とくに律法学者らがイエス様を憎むようになった最初のきっかけは、ある病人を安息日に癒やしたことでした(マタイ9:1-8参照)。その時、主が「あなたの罪は赦される」と言ったことから、彼らはそれを神への冒瀆だと考えたのです。ナザレのイエスに人気を奪われて妬みが生じたこともちろんですが、処刑に値する罪状としては神への冒瀆だったわけです。

 冒瀆とは神の名を汚すことです。しかし彼らが考える冒瀆は、彼らが考えている神様の定義が否定されることにあります。彼らは主の名を用いて人をさばくことはできましたが、赦すことができませんでした。人を罪に定めて、責めるために神の名を用いたのです。もしそうでなくとも彼らに人を赦す力はありませんでした。なぜなら、彼ら自身が罪を負っているからです。その罪が生じる実としての憎しみがあるからです。
 人間にはできないこと、神にしかできない業がなされるとき、世は御子キリストを憎みます。罪の赦しが行われる時、この世に属する者は憎しみを覚えるのです。「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される」(20:23)と神の赦しのわざを弟子たちに委ねるために、主は彼らに聖霊を授けられました。聖霊を受けた者は、あらゆる罪を赦すよう遣わされるのです。
 人間の理解や感情では到底受け入れがたい罪だとしても、人間にできないことだとしても、神にはできるのです。聖霊によって私たちにもできるのです。しかし、この赦しの業を見る時、世に属するものは私たちを憎みます。神の愛を示し、罪を赦せば赦すほどに迫害を受けるのです。それは私たちがこの世ではなく、キリストに属する者だからです。

2.御霊の実(26−27節)
 さて、説教の題を「御霊の実」といたしましたが、教会に長くおられたり聖書に通じていらっしゃる方は別の箇所を思い浮かべるかも知れません。ガラテヤの信徒への手紙5章22-23節ですね。「聖霊の結ぶ実」について使徒パウロが記しています。今は扱うことをいたしませんが、ぜひお時間をとってご一読いただければ幸いです。
 ところで実あるいは果実という語は、日本語でも必ずしも果物そのものだけを指す言葉ではありません。「結果」とか「成果」とかの単語は、日常的にみなさんも口からも出ることがあるでしょう。漢字の意味としては「実を結ぶ」「実が成る」ということですが、出来事や努力から得られた事柄を指しています。果実という語も、何らかのものから得られる利益を指すときにも用いられます。
 ですから、御霊の実というものは、必ずしも何らかの具体的な一つ一つの事物とは限りません。むしろご聖霊の働きが生み出したものすべてであると言い得ましょう。本日の箇所においては、聖霊が私たちに何をなされるかということが示されていますので、まさにこれが御霊の実なのです。

 26節には「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来る」と書かれています。主キリストと御父によって聖霊が「あなたがた」へと遣わされます。このことを復活された後に「聖霊を受けなさい」と改めて命じられています。その目的は「わたしについて証しをなさる」ためにです。どんな証しをするのかについては、直接的にはすぐ前の部分で書かれていることから読み取ることができましょう。御父から御子が遣わされ、御子がなされた業のことです。聖霊が私たちに働く時、「だれも行ったことのない業」がなされます。
 イエス・キリストが証しされるところでは「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される」とのみことばが成就します。聖霊の満たしと罪の赦しを求めましょう。

<結び> 
 聖霊の実は、自分の意思や感情、なんらかの必要や利益などによることなく生じます。私たちがもし完全に聖霊の満たしを受けているとすれば、その思いはすべて聖霊によるものです。「私個人の」意思や都合、ちっぽけなプライドなどは度外視されることでしょう。もしそこまで至らなくとも、真理の霊は私たちの心の内を深く探ってくださり、まだ主の前に明け渡すことができないままの古い部分を示してくださいます。
 人間にはできない神の業、赦しの業を行う時、この世は私たちを迫害します。罪を赦そうとしなければ、この世は私たちを憎むことはないでしょう。「だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」(20:23)とのことばは、赦さなくてもよいとの許可を意味していません。それどころか罪を赦すことで迫害を受け、磔(はりつけ)にされた方ご自身が、十字架の上でなお迫害者らの罪の赦しを御父に求められたのです。命を差し出して神の前に私たちをかばってくださった方が、どうして人を裁いて罪に定めよと命ずることがありましょうか。
 しかし私がだれかの罪を赦すことができないとすれば、それは私のうちにまだ赦されていない罪が残っているのです。聖霊はどんな罪でも赦しきよめられる方ですから、私は真理の霊を信じます。この方によってわたしの身にキリストの業が行われます。

 あなたの罪は赦されていますか。誰かの罪を赦せない思いはありませんか。あなたにできなくとも、神にはできるのです。あなたの罪も赦されます。あの人の罪も赦すことができるのです。あなたの実でもなく、罪の実でもなく、御霊の実によってキリストの救いを明かししましょう。

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