「キリストの勝利」ヨハネによる福音書16章25−33節

2020年5月17日
担任教師 武石晃正

 イエス・キリストが私たち罪人を救うために十字架にかかり、ご自身を完全ないけにえとして父なる神様へとささげられました。死んで葬られ、その3日目に復活された主イエス様は愛する弟子たちに現れて、人々の罪を赦す権威を聖霊とともにお授けになりました。
 人間にはできない神の業、聖霊による赦しの業を行う時、この世は御子キリストもその弟子たちをも迫害します。たとえ迫害に遭うとしても、赦しの恵みは御父から遣わされた御子キリストの業なのです。そしてそれは聖霊によって弟子たちへと与えられました。
 キリストの弟子が受けるものは果たしてこの世からの迫害や苦難だけなのでしょうか。今日は「世に属していない」者が受ける約束について読んでまいります。

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1.天の御国の報い
 世に属していないゆえに迫害という報いを受けるのであれば、キリストの弟子とされた者が受ける報いはどこから来るのでしょうか。それはキリストの「父」なる神様、そして「父のもと」(28節)からです。それを天の御国と呼ぶこともできるでしょう。
 さて25節にはイエス様のおことばとして「わたしは・・・たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず・・・知らせる時が来る」と記されています。イエス様の時代のユダヤでは、まず大勢の人々の前でたとえを用いて話して教えたそうです。「それはどんな意味ですか」と尋ねて弟子入りしてきた者にだけ解き明かしをするのです。福音書の中にイエス様もそのような教え方をされた記事が残されています。
 たとえを用いないということは、「あなたがた」と呼ばれる者たちは不特定多数の「群衆」ではないということです。大切な教え、重要な情報は誰かれ構わずに開示してよいものではありません。「わたしがあなたがたを世から選びだした」(15:19)と言われています。特別な招待を受けた人にだけ、神様の機密事項が明かされます。

 ところで世間には招待された人にしか開示されないサービスというものがあるようです。会員制ということであれば、申込をすれば誰でも会員になれるものもありますし、入会にはどなたか会員の方の紹介が必要だというものもあります。特別に招待された人だけが入れるという会員制もあるようです。その実態は会員にしか分からないので謎めいています。あるいは結婚式や披露宴などは、招待された方には招待状にて詳細が知らされますが、それ以外の人は式があることさえ知らされないことでしょう。
 天の御国の福音が宣教されるとき、それがたとえを用いられていたとしても、聞いて応える者だけが弟子とされるのです。この弟子とされた者には、たとえではなくはっきりと解き明かしがなされます。「その日には」(26節)とありますが、それは真理の霊が遣わされる時のことを指すのでしょう(15:26-27)。御国の教えを聞いて応え、聖霊を受けたものだけが知ることができる恵みがあるのです。
 27節には「父御自身が、あなたがたを愛しておられる」という特別な恵みが示されています。この世はキリストとその弟子たちを憎み(15:18)、御父をも憎みます(15:23)。しかしキリストに選び出され、世に属していない者には神の愛が注がれるのです。

 私たちがこの世に属しているのは、世で生を受けて、生まれたからこちら側にいるだけかもしれません。しかし自分で選んだわけではないので、ここから抜け出すすべを思いつくことさえできません。仮にもしここから抜け出そうとしようものなら、世は憎しみを持って迫害するのです。世にあるすべては滅びに至るので、あの人もこの人も自分もあなたもみな一緒でなければ不安なのです。
 天の御国すなわち御父の愛、あるいは御子キリストの業は違います。「選んだ」と言われていますから、一人ひとりを覚えておられます。もちろんあなた以外にも神のご愛は注がれており、時に懲らしめもあるかもしれませんが、主は「あなたに何の関係があるか」(21:22)と言われます。翻せば、あなたと神様との深い愛の結びつきについて、他の誰にも口出しされることはないのです。
 世から受けるものは迫害ですが、天の御国からの報いは父なる神のご愛です。招かれている全ての人に注がれますが、一人ひとりの内側まで深く知って、一人ひとりを必要に応えてくださる愛なのです。

2.幸いなもの (マタイ5章1−12節)
 ところで、イエス様が神の国の宣教を初めたばかりの頃、まだユダヤ人たちからの表立った迫害が始まる前のことです。非常に多くの人々が病人を癒やしてもらうためにイエス様のもとを訪れてきた時のことでした。
 マタイによる福音書5章から一部お読みします。

 イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。
 そこで、イエスは口を開き、教えられた。
「(中略)
 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。」

 山上の説教として知られる説教のうち、8つの幸いを説いた「八福」などと呼ばれている箇所の前後です。場面に描かれているのはイエス様のほか、群衆と弟子たちがあります。詰めかけていた非常に多くの人々が群衆と呼ばれていますが、そのうちイエス様の近くに寄ってきた者だけが弟子たちと呼ばれています。そして弟子と呼ばれる者だけに、この8つの幸いが説かれています。
 そしてイエス様はこの「弟子たち」を「あなたがた」と呼び、「幸いである」「喜びなさい」「天には大きな報いがある」と祝福されました。大勢の人々へ向かって「報いがあるから来なさい」と叫んだわけではないのです。「わたし」すなわちイエス様のために生きることで、人々から「ののしられ、迫害され」「悪口を浴びせられる」ことを厭わない者たちだけが、教えを聞きに近くに寄って来たのです。
 3年半と言われるイエス様の宣教の日々ですが、その当初から迫害の予告とともに天の報いが約束されていました。恐らくこの教えは一度きりのものではなく、行く先々で、あるいは日々の歩みの中で、弟子たちは幾度と受けた教えでしょう。
 それでも迫害が逼迫し、イエス様がいよいよ捕らえられようとする直前になって、ようやく弟子たちはこの言葉の意味に気づき始めたというのが今日の箇所の出来事なのです。言い換えれば、困難に際しての気休めの言葉ではなく、平時からいつも求める者たちにだけ開示された特別な祝福の言葉であると言えましょう。
 あなたは「群衆」として通り過ぎますか。それとも「弟子」としてイエス様のもとへ近づこうと思いますか?迫害を受けていても受けていなくても、苦難の中にあってのなくても、今みことばを聞いて近づく者は、主に選び出された弟子たちなのです。

3.キリストの勝利
 今日の箇所の後ろの部分に目を留めてみます。33節の途中からお読みします。

 あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。

 イエス様が弟子たちに直接お語りになられたのは十字架にかかる前の出来事ですが、この書が記されなのは少なくともそこから60年も後のことです。その間に初代教会は非常に厳しい迫害を受け、ローマ皇帝ネロの時代に使徒ペトロも殉教しています。教会が苦難のさなかにある時代に書かれた福音書だと言えましょう。
 世で苦難がある、むしろ世にあるから苦難に遭っているのです。キリストに選び出され世に属していないとしても、いまだに世にあることには変わりありません。いや、むしろ世にあるからこそ苦難や迫害に苦しめられているのです。
 わたしは既に世に勝っている、とのお言葉も疑うわけではありませんが、既にというのも何十年も前のことではありませんか。世に勝ったと言われても、現に迫害の渦中に喘いでいるのです。言葉は過ぎますが、たとえキリストが世に勝ったとして、それが今の苦難の中で何の支えになるのでしょう。そのようなつぶやきが聞こえてきそうです。
 しかしもう一度思い出してみましょう。「世があなたがたを憎むなら・・・わたしを憎んでいたことを覚えなさい」(15:18)、「わたしを憎むものは、わたしの父をも憎んでいる」というイエス様のお言葉です。世があなたがたを憎み、御子を憎み、父を憎んだのです。しかしその反対に、「父ご自身が、あなたがたを愛しておられる」(27節)と教えられています。愛しておられるとは憎しみの対義語です。御子ご自身もまた、御父の愛を受けつつも迫害と受難を身に追われたのです。
 この愛を示された御子は既に「世を去って」行かれました。もしこの方がずっと地上におられたならば、私たちは今でも直接にこの方とお会いしなければ、御父のわざを見ることも行うこともできないでしょう。けれども御子キリストは既に勝利し、今は御父のもとに帰られたからこそ、真理の霊を遣わされたのです。聖霊の働きによって、私たちは困難の中でも神の業を行い、キリストの勝利に与ることができるのです。

 さて最後にイエス様のお言葉の中で、少し気になった一節に触れます。「あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る」(32節)という一言です。直接的にはイエス様が逮捕された時に逃げ去った弟子たちを指しているわけですが、この書が書かれた年代や背景を思う時、迫害と苦難によって散り散りにされてようとする教会の姿に重なるような気がいたします。そしてこのみことばは、ご聖霊は時代をも国境をも文化をも越えて、今なお真理として世に伝えてられています。
 そうです、現代においても、世界中どこであっても、教会がキリストをひとりきりに置き去りにしてしまう恐れがあるのです。困難の中で書かれたヘブライ人への手紙の中にも「ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう」(10:25)との勧めが記されています。
 キリストをひとりきりにすることなく、集まることを怠らず、世に対するキリストの勝利と父なる神のご愛のうちに留まることを強く願います。

<結び> 
  使徒ペトロは手紙の中で次のように記しています。

「もし、善いことに熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。しかし、義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。」(Iペトロ3:13,14)

 殉教した使徒の言葉であることを思うと、反語のようにも感じれられます。善いことに熱心であればこそ、義のために苦しみを受けるということです。というのも「神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい」(同17節)と勧められているからです。

 お祈りの前に、主のお言葉をもう一度だけお読みします。
「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」
 今はまだ先が見えない苦難の渦中にあるかもしれません。それでもなお私たちは勇気をいただいて、恵みのうちにキリストの勝利とともに生かされましょう。

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