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「天に帰られた主」ヨハネによる福音書7章32-39節

2020年5月24日
担任教師 武石晃正

イエス・キリストはゴルゴタの丘の上で十字架刑に処せられて、息を引き取られて葬られ、3日目の早朝に復活されました。全知全能の唯一なる神が、聖霊によって人間の女性に宿り、人としてお生まれになられました。その方が「全きいけにえ」として歴史上たった1回の罪の贖いとなられました。そしてこの方が復活されたのです。
 復活し、朽ちないからだを取られたとはいえ、全世界の人がみなイエス様に地上でお会いすることは到底不可能です。永遠のいのちをお持ちだとしても、どんなにすばらしい奇跡をなさろうとも、神の子おひとりだけでは全世界に天の御国の業をお示しになることは叶いません。というのも地理的時間的な問題ばかりでなく、ユダヤ人のしきたりなども妨げとなりうるからです。
 しかし困難や迫害に遭おうとも、天の御国の業は全世界へと広がりました。その力の源はどこにあるのでしょうか。

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1.世はそれをみつけることがない(32-36節)
 前々回、前回と続けて「世」とそれに属さないもの、つまり天の御国に属するものとを対比しながらヨハネによる福音書を読んできました。今日の箇所に「世」という語は直接には記されていますが、世に属する側の者たちとしてファリサイ派の人々(32)が登場します。
 このファリサイ派という人たちは当時のユダヤ教徒の一派です。新共同訳聖書の巻末付録の用語解説で取り上げられておりますので、目を通してみましょう。

 ファリサイ派(ファリサイは) ハスモン王朝時代に形成されたユダヤ教の一派。イエス時代にはサドカイ派と並んで民衆に大きな影響を持っていた。律法学者は多くファリサイ派に属していたと思われ、しばしば並んで記されている(マタ23:2など)。律法を守ること、特に安息日や断食、施しを行うことで宗教的な清めを強調した。ヘブライ語「ペルシーム」は「分離した者」の意味であり、この名称の由来については種々の節があるが、恐らく律法を守らない一般の人から自分たちを「分離した」という意味であろう。福音書ではイエスの論敵として描かれている(マタ12章、23章)。パウロは、自らファリサイ派であったとも言っている(フィリ3:5)。(ファリサイ派.「用語解説」『聖書新共同訳』.日本聖書協会,1988,巻末40.)

 解説にもイエスの論敵と書かれてありますが、福音書を何度かお読みになったことがある方はファリサイ派を何か意地悪な存在であるかのように感じられるかも知れません。確かに主イエス様を捕らえようとしていますから、快く思わないことに無理もありません。
 彼らの肩を持つわけではありませんが、偏見で人を評価するということもまた悩ましいところであります。いわゆる世俗から自らを分離し、きよい道を求めた真面目な人たちだったと言えましょう。
 当時は現代の日本のようにお金を払えば聖書が手に入るというわけに参りません。信仰書や注解書などを書店で求めることもできません。ユダヤの人たちが神の民として生活をする中で、いわゆる律法と呼ばれる掟を守るためには専門家の教えを聞かなければなりません。そこで律法学者やファリサイ派の人々が民の「先生」として教えを説いたことでしょう。文字通り生き字引のような人々です。何か判断に迷うことや揉め事などあれば、律法に叶うか否かの判断もラビと呼ばれる「先生」に寄せられます。私自身はユダヤ教徒ではありませんし、当時の世界を見てきたわけではありませんから、これ以上のことを申し上げることはできません。少なくとも一般の人々の目から見れば、ファリサイ派の人々は宗教的に高尚な人たちでした。生活も規律正しく、人々のために祈りや施しを惜しまないような姿に見えたことでしょう。ファリサイ派の人々も、自分たちが民を守り導く存在であろうと考えていたに違いありません。

 民からも慕われ、自らも正統的であると考えていたことですから、自分たちと異なる立場を異端視したのは想像に難くありません。あるいは潜りの教師として蔑視したとも考えられます。まして自分たちより権威を持っているかのように振る舞い、人々の人気も奪っていったとなれば、腹の虫が収まらないというのが人情でしょう。みなさんもご自分がコツコツと積み上げてきた努力の結晶を、ぽっと出の人気者に横取りされたらどんな気持ちになりますか。
 イエス様の正体を知っている私たちは、ちょうど算数や数学の問題集の模範解答を見ているかのように、福音書の出来事の善悪を見分けることができましょう。けれどその渦中にあって、熱心に一生懸命その道を極めようとしている人たちにとっては、ナザレのイエスという男は目障りでありなのです。敵意の対象であり、その存在そのものが悪なのです。だから彼らはイエス様を捕らえて懲らしめるか、殺してしまおうと考えるのです。そこで彼らは「イエスを捕らえるために下役たちを遣わした」(32)というわけです。
 
 その下役たちを相手にイエス様は告げられました。「自分をお遣わしになった方のもとへ帰る」(33)と。そして「あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない」と言われました。
 これを聞いた「ユダヤ人たち」(35)とは、直接イエス様に対面した下役たちと、恐らくはその報告をうけたファリサイ派の人たちのことでしょう。彼らにはイエス様の言われたことが理解できませんでした。ユダヤやガリラヤといった彼らの管轄下ではなく、エジブトや西アジアというギリシャ語圏のユダヤ人のところへイエス様が逃げ落ちると考えたようです(35)。
 イエス様がどこへ向かわれようとされているのか、今お聞きになっているみなさんはおわかりでしょう。お遣わしになった方、つまり御父なる神様のもとです。そこは私たちはしばしば天の御国と呼んでおり、神の栄光の座がおかれているところです。

2.主が天に帰られる目的(37-39節)
 では、主イエス様はなぜ天に帰られようとされたのでしょうか。せっかく復活なさるのなら、弟子たちと一緒にいてくださってもよさそうに思います。
 37節以下から考えてみましょう。「祭り」と記されておりますが、これは2節をみますと仮庵祭であることが分かります。この祭りの期間はシロアムという泉から水をくんで、毎日エルサレム神殿へと納めたそうです。来る日も来る日も水を汲んでは宮へと運ばなければなりません。しかも「最大に祝われる終わりの日」とありますから、汲んで運ばれる水もこれまで以上に増して運ばれたことでしょう。
 現代のように軽くて丈夫なポリ容器などない時代です。もしあったとしても水を汲んで運ぶということは、大層な重労働です。樽や水瓶のようなもので運んだのだと思われますから、入れ物だけでも相当な重さがあったでしょう。祭りの最終日ということで、「水くみはもうたくさんだ」と疲労が頂点に達します。
 そこへイエス様の声が響きました。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」(37)そして「その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(38)と。水瓶を担いだのか、荷車で運んだのかわかりませんが、とにかく重くて仕方がない水を運んでいる人たちの耳にこの声が届きます。神殿に運ぶ水に限りません。蛇口をひねれば水が出るような水道が各家庭に引かれているわけではありませんので、どこの家でも水汲みは毎日の重労働です。まして中東の国イスラエル、荒れ野や砂漠に面している土地柄です。飲水を欠かすことは死に直結しかねません。
 生きた水とは、泉から湧き出た新鮮な真水を指すのでしょう。いくら渇きを覚えたとしても、汲み置きをして澱んでしまった水や干上がる湖沼の塩水を飲むことはできません。その渇きを癒やすには、新鮮な水すなわち生きた水しかないのです。その生きた水が川となるほど湧き出てくるならば、それはどれほどすばらしいことでしょう。
 勿論これはたとえですから、私たちの体のどこかから水がジャージャーと吹き出したり漏れたりすることではありません。38節に「イエスは、ご自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われた」のです。この霊こそ、主がこの世にお生まれになるためにおとめマリヤに降ったその方です。イエス・キリストを信じる人々にはこの聖霊なる神がうちに宿り、その人は神のみわざをなすことになるのです。
 主イエス様が地上におられるうちは、ご聖霊も御子のうちに留まっています。しかし一度この方が天に帰られて栄光をお受けになれば、つまり救いの完成が成就すれば、ご聖霊はそこを離れて御子を信じる者たちに降ります。主が天に帰られたのは、栄光をお受けになることと、それによって主を信じる全ての者たちへ聖霊をお与えになるためだったのです。けれどこの時はまだ主がご栄光を受けられていなかったので、ファリサイ派の人たちばかりでなくイエス様の弟子たちでさえ何のことを言っているのか分からなかったことでしょう。

<結び> 天に帰られた主。
 「今しばらく、わたしはあなたたちとともにいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る」と主イエス様は十字架にかかるよりずっと前から人々に告げておられました。どのような死に方をなさるのか、どのように天に帰るのかご存じの上で、人々からの迫害をも背負ってくださいました。
 主は迫害されながらもご聖霊によって御父について、天の御国について証しをされました。主が天に上られた後、主を信じる者たちに聖霊が降りました。イエス・キリストを信じる者は聖霊を受けるとはっきり聖書は教えています。

 最後に主イエス様が天にお帰りになられたときの記事をお読みして終わります。

 さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。
 イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」
 こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。
 イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」 (使徒1:6-11)

 主が再び来たりたもうを待ち望む、との信仰告白はここに立っています。
 イエス・キリストをご自分の救い主として信じ、主に自分自身を明け渡すなら、あなたも聖霊が与えられます。その聖霊が活ける水となってあなたを活かします。

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