「聖霊の賜物」使徒言行録2章1−11節

2020年5月31日
担任教師 武石晃正

 ペンテコステおめでとうございます。
 あまり聞き慣れないお祝いの挨拶かもしれません。教会暦では本日(2020年5月31日)は聖霊降臨日、ペンテコステと呼ばれる日です。
 神のひとり子が私たち罪人のために「聖霊によりて宿り、おとめマリヤより生まれ」てくださいました。私たちはこのナザレ人イエスを、イエス・キリストあるいは主イエス様と読んでいます。主は十字架につけられ、「全きいけにえ」となって私たち罪人の身代わりとなられました。しかしそれは死に終わるものではなく、葬られ、3日目に復活し、栄光を受けるために天に昇られました。
 主が天に昇られたのは愛する弟子たちをお見捨てになられたわけではありません。十字架につけられる前も復活した後にも都度都度お教えになられたように、ご自身が受けられていた聖霊を弟子たちにお授けになるためでした。お約束のとおりに主が聖霊を賜ったことを感謝して、聖霊降臨日すなわちペンテコステとしてお喜び申し上げます。
 そして本日は、初めに弟子たちへ主から聖霊が降った日の記事を読みました。

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1.聖霊が降る
 ユダヤの祝祭日の一つである五旬祭の日に(1節)、弟子たちが一つに集まっておりました。この五旬祭については後ほど少し説明をさせていただきますが、ユダヤの祭でも最大と言える過越祭から数えて50日目にあたります。つまりイエス様が十字架につけられた日から数えて50日だと言えましょう。
 弟子たちがなぜ集まっていたかと申しますと、イエス様が彼らにエルサレムを離れずに待っているようにと命じられたからです(1:4)。そしてそれは「あなたがたは間もなく聖霊によるバプテスマを授けられるからである」(1:5)と告げられ、また主が天に昇られるにあたっては「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」(1:8)と祝福が約束されています。ですから、弟子たちは約束の日はまだかまだかと首を長くして待っていたことでしょう。彼らは泊まっていた家の上の部屋に集まって、熱心に祈っていました(1:13,14)。
 すると「突然、激しい風が吹いてくるような音」が家中に響き渡り、その場にいた一人ひとりの上に炎のようなものが現われました(2節)。実際にどのような音が聞こえ、どのようなものが見えたのかは定かでありません。この書を記したルカでさえ、弟子たちから聞いたことを元に表現したのでしょう。神様がなさるわざは本当に不思議です。そして一同は聖霊に満たされて、ほかの国の言葉で話し始めました(4)。
 エルサレムはユダヤ人にとって信仰の中心地でしたので、当時のローマ帝国世界の各地から帰って来た人たちが住んでいました(5)。この人たちはイエス様の弟子たちが聖霊によって自分の国言葉で話しだしたのを聞いて、あっけにとられたとあります(6)。それは人々の目に驚き怪しむほど不思議な光景に映りました。弟子たちが自分の故郷の言葉で話しているのを聞いた人々は、「どうして私たちそれぞれの国ことばで話しているのだろう」と驚きました。
 主イエス様が天に帰られて、このように約束どおり聖霊が弟子たちへと降りました。「そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また地の果てに至るまで、わたしの証人となる」との使命を果たすため、あらゆる国語で話すことができる力が賜物として与えられたのです。ここから神の国の福音が全世界へと広がり始めました。 

2.五旬祭という日について
 ところで、弟子たちはこの五旬祭という日をどのような思いで待っていたのでしょうか。ただ闇雲に待っていたところへ、たまたま聖霊が降ったということなのでしょうか。残念ながら聖書にはっきりとは書かれていません。
 この五旬祭という語は訳語でありまして、旬という字が10日間を示すとおり、50日目の祭という意味です。もともとはユダヤの三大祭の一つ、刈り入れの祭の日です。過越祭から数えて満7週間を経た50日目に、新しい穀物の献げ物をするものでした(レビ記23章15−21節)。7週間を数えるのでユダヤの言葉では7週の祭とも呼ばれましたが、公用語としてのギリシャ語が普及する頃には50日を指すギリシャ語から転じてペンテコステと呼ばれるようになったようです。
 もともとは春に収穫される新しい穀物を神様に捧げる祭でしたが、過越祭が出エジプトの記念であることから、「七週祭」はモーセがシナイ山で神様より「律法」を授かったことを記念する意味が含まれてきました。
 過越祭の特別な安息日に臨んで十字架にかかり、その3日目に主イエス様は復活されました。過越は出エジプトつまり神の国の門出を祝う祭ですから、ご自身の血によって新しい契約をくださる方を前に「主よ、イスラエルのために国を立て直してくださるのは、この時ですか」(使徒1:6)と詰め寄った気持ちも分からないでもありません。はやる弟子たちに向けてイエス様は「父がご自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない」(同7節)とお答えになりました。
 この弟子たちとイエス様とのやり取りは主の昇天の日のことですが、それまでに主は40日に渡って弟子たちに現れて神の国について説かれています(同3節)。イエス様を天へと見送った弟子たちにとっては、あと1週間ほどで七週祭を迎えようというばかりです。イスラエルを率いてエジプトを出発したモーセが、シナイ山の上で神様と顔と顔を合わせて「契約」を授かったことの記念の祭です。「新しい契約」をお与えになる方が何かをくださるとすれば、ひょっとしてあるいはきっとこの日に違いないと期待に胸を膨らませたのではないでしょうか。
 もちろんここはシナイ山ではなくエルサレムです。しかしシオンの山と呼ばれるこの丘陵地帯の一隅で家の屋上の部屋に集まって祈る時、弟子たちの思いは律法の書を受け取ろうとするモーセに通じるところがあったかもしれません。そして彼らの期待に応えるように、主はちょうど五旬祭のその日に聖霊を弟子たちへと賜ったのです。主はなんと粋なことをなさる方だと思いませんか。
 主はあらかじめ旧約の時代に示された型をもって教え、さらに福音を通して真理を示し、期待を持って待ち望む者たちにご自身の霊をもお与えくださる恵み豊かな神であられます。 

3.聖霊の賜物
 主が五旬祭の日に弟子たちへ聖霊をくださいましたが、その賜物は国々の言葉を話す力でした。それは彼らに与えられた使命を果たすためのものだからです。というのも弟子たちは「ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」という使命がイエス様から与えられていたためです。少なくともこの者たちが「地の果てに至るまで」の証人である証拠として、そこで証しをするための能力が与えられたと言えましょう。
 ところで、主が聖霊によってくださる賜物は外国の言葉を話す能力だけなのでしょうか。決してそのようなことはありません。証人にはその必要とする言葉を与えられるように、主のために遣わされる者に必要な賜物が与えられるのです。そして主の手足となって働くからだである教会の働きが広がり、必要とされる働きが増えるにつれ、それぞれの役割を果たすための賜物も数多く認められるようになりました。
 弟子たちに聖霊が降った五旬祭の日から幾年月が過ぎ、使徒パウロがユダヤ人以外の人々へと福音を伝えるようになった頃のことです。ユダヤ人とそれ以外の人々の違いばかりでなく、地域性や民族性の違い、教会の中でも賜物の違いが生じてきました。ただ違うだけであればよいいのですが、働きや賜物について優劣をつけてしまう場面もしばしばみられるようになったのです。せっかく神様から聖霊と賜物をいただいたのに、もったいないことです。
 使徒パウロの手紙から一部をご紹介しましょう。

 体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。
 そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。
 それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。
 一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。 (Iコリント12:14-26)

 1世紀のコリントの教会に限らず、現代でも通用する教えだと思いませんか。私たちは他の人々に感謝をしたり、励ましたりするためにどれほどの思いを持っているでしょう。からだのそれぞれの部分がバラバラに生きているのではないように、聖霊の賜物も様々な種類が結び合わされ助けあってキリストの栄光と喜びを現すことができるのです。あなたも、私も、その一部分なのです。
 私たちが互いに思いやり、互いに尊さを受け入れ合うとき、聖霊の賜物のすばらしさを見出してともに喜び合うことができるでしょう。
 
<結び> 
 私たちの主イエス・キリストは地上における生涯を通して、後に弟子たちへ与えられる聖霊について教えておられました。そして天に昇られ栄光をお受けになると、五旬祭の日より弟子たちへ聖霊とその賜物とをお与えになりました。
 モーセを通して与えられた最初の契約を覚えつつも、私たちは主キリストの血による新しい契約によって生かされています。
 聖霊とその賜物によって福音が宣べ伝えられ、聖霊による一致によって教会が形作られていきました。今や全世界へ主キリストの体である公同の教会が押し広げられています。
 聖霊の賜物は私たち一人ひとりに与えられ、各々を活かし用いてくださいます。御名によって求める者には惜しみなくお与えくだささる主に感謝します。

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