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『真理の霊』ヨハネによる福音書14章8-17節

2020年6月7日
担任教師 武石晃正

 救い主イエス・キリストは十字架につけられ、「全きいけにえ」となって私たち罪人の身代わりとなられました。しかしそれは死に終わるものではなく、葬られ、3日目に復活し、栄光を受けるために天に昇られました。主が天に昇られたのは愛する弟子たちをお見捨てたのではなく、ご自身が受けられていた聖霊を弟子たちにお授けになるためでした。
 お約束のとおりに主が聖霊を賜ったのが聖霊降臨日すなわちペンテコステです。今日はご聖霊の働きについてその働きの一部を探って参りましょう。

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1.神の業を示す(8-14節)
 一連の話としては13章から続いており、主が十字架にかかられた過越祭に臨もうとする数日内の出来事です。主ご自身が受難を前にし、また栄光をお受けになろうとする日に近づいている緊張感がただよいます。またこの福音書は、主の直接の弟子が世を去ろうという緊迫した中で書かれました。神の子ばかりでなくその弟子たちさえいなくなるのでは、神の業が地上から絶たれてしまう恐れもあったわけです。シモン・ペトロ(13:36)、トマス(14:5)、フィリポ(14:8)と使徒たちがそれぞれにイエス様へ質問を投げかける様は、使徒ヨハネに寄せられる当時の教会の人たちの姿が重なるように思われます。

 「主よ、わたしたちに御父をお示しください」と熱意のこもった求めではありますが、その心は「そうすれば満足できます」というところにありました。神のみこころを知りたいと願うことそのものはよいのですが、それが人間の思いや満足のためであるならば正しく知ることは難しいでしょう。現にイエス様と寝食を共にし、数々の奇跡を目の当たりにした弟子たちでさえ「こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか」とたしなめられています。時に人は神の御旨を求めて占いなどに手を出すことがありますが、まじないや占いを行うものを主は忌み嫌われます。繰り返しになりますが、人間の都合や欲求から神のみこころを知ることはできないのです。

 主ご自身も神の独り子でありながら、自分の思いではなく「わたしのうちにおられる父」によって業を行われました。このことを思う時、私は自分の祈りが的を射ていないものだったのではないかと考えさせられました。自分の願いを叶えるために、神様を呼びつけてあれこれとお願いごとを申し付けるような祈りが多いような気がするのです。いえ、実際にお願い事ばかりなのです。

 ところでお願いごとということに関して、予備校で受けた英語の授業を思い出しました。中学では「〜をしてください」という時に please を付けるように習いましたが、受験ではよくても会話では気をつけるようにというのです。詳しいことは忘れてしまいましたが、pleaseをつけても命令文には違いありませんので、丁寧ではあるけれど相手に命令をしていることになるのだそうです。神様に対しても“please”と命令しまっていたことに気付かされます。

 もちろんお祈りをする時に神様に命令しているつもりはないのです。けれども、祈りの言葉やそれ以前に心の内側をおろそかにすると、「お願いします」「〜してください」と丁寧なかたちの命令を数あまたと神様に押し付けてしまうことにもなりかねません。

 主は弟子たちに「父がわたしのうちにおられると、わたしが言うのを信じなさい」と説かれました。恐らく福音書を書いたヨハネも教え子たちに同じことを告げたでしょう。そして「もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい」と。これらの「信じなさい」という勧めは全くイエス様を信じていなかった人に向けられたものではありません。既に主の弟子となった者たちへと与えられた教えです。受け取り方はいくつかあるかと思いますが、あえて3つ挙げましょう。1つ目は、まず真に意味するところを信じることです。主が御父のうちにあり御父が御子のうちにあったように、私のうちに神の霊がおられることでその業を行うことができるのです。2つ目は、信じたとおりに生きるということです。「業そのものによって信じなさい」とのみ教えは弟子たちに与えられ、弟子たちを通して働かれる神の業によって多くの人々が信じたのです。神の業によって信じた者は、神の業を成すのです。3つ目は、この教えを受けたものに神の業が成就するということです。イエス様の口約束ではなく、事実その通りになるのです。「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、またもっと大きな業を行うようになる」とあるからです。

 この業とは何でしょうか。この福音書に限って言えば「だれも行ったことのない業」(15:24)つまり「あなたがたが赦せば、その罪は赦される」という赦しの業です。人間の思いでは到底赦すことができないことだとしても、「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう」とのお約束にすがって、とりなしの祈りをすることができるのです。

2.真理の霊(15-17節)
 さて主は「あながたがは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る」と言われています。この掟とは「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」(15:17)に通じるものでしょう。
 このために主は御父より「別の弁護者」を遣わしてくださいます。この弁護者は私たちから切り離されることなく、永遠に一緒にいてくださる真理の霊です。このことは15章28節にも繰り返し述べられています。

 弁護者でありますから、私の代わりに申し開きをして助けてくださる方です。永遠に一緒にいてくださるので、私の行いや状態によって急にいなくなってしまうようなことはありません。もし仮に罪を犯したとしても、神様の前で弁護してくださるのです。「この霊はあなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいる」と約束されています。内におられますので、何者も外からこの方を奪い取ることはできません。
 この真理の霊が私たちへと遣わされるのは、主の掟を守ることつまりキリストの弟子が「互いに愛し合」うことのためです。愛し合うことの対義語は憎しみ合うことでしょう。この方が弁護してくださらなければ私たちのうちには対立や憎しみが次から次へと生じるのかも知れません。
 もし私自身が罪を犯すようなことがあったとしても(もちろんそのようなことがないことを願いますが)、私のうちにおられる真理の霊が弁護してくださいます。私ではなくあなたが罪を犯すことがあるかも知れませんし、あの兄弟があの姉妹が罪を犯してしまうかも知れません。そのような時、私たちはどのような態度を取ればよいでしょう?求めるべきは裁きではなく、互いに愛し合うことです。

 思えば、私が真理というものを持ち合わせたとして、それがこの方にまさることはありません。私が正しいから、潔白だから、主が十字架にかかってくださったのでしょうか。いいえ、罪深くてどうにもしようがないので御子が身代わりの死を負ってくださったのです。そこには私の真理や正義というものはひとかけらも見出すことができないのです。
 だからこそ、救っていただいてなお真理の霊に弁護していただく必要があるのです。罪深さを覆ってかばっていただいている身ですから、他の人を裁くことなど本来はできるはずがないのです。
 「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である(16:12)

<結び> 
 きょうこの礼拝に集っておられるお一人ひとりに勧めます。
 イエス・キリストを救い主として受け入れ、信じ、救いの恵みをいただきましょう。
 すでにキリストの救いを受けている方も、弁護者である真理の霊によって心のうちにまだ取り扱われていない罪に気付かされることもあるでしょう。きよめの恵みによって罪をきよめていただきましょう。
 もしどなたか罪が残っていると思う兄姉に心当たりがあって、もしあなたがイエス・キリストを信じているならば、さばくのではなく「互いに愛し合い」ましょう。それは主が「わたしが行う業を行い、またもっと大きな業を行うようになる」と約束されているからです。

 人間の思いでは到底赦すことができないことでも、真理の霊が弁護されます。主イエス様は、あなたの救い主、わたしの救い主、信じる全ての人の救い主です。

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