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「信仰の道」ヨハネによる福音3章22−36節

2020年6月21日
担任教師 武石晃正

 「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」(ルカ2:11)と、かつてユダヤの野辺で野宿をしていた羊飼いらが天使の御告を受けました。彼らが御告を受けて探し当てたのは飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子でした。何かに抗うどころか身動きすることさえままならない弱い存在として、神の子がお生まれになりました。聖霊によりて宿り、おとめマリヤより生まれたキリストは、まことに人として地上生涯を歩まれました。
 神の子である方が聖霊によって御父のみこころに従って歩まれた道です。神の子とされた者が聖霊をいただいて歩む道は、このキリストが歩まれた信仰の道に通じるものです。今日はキリストご自身の宣教活動における初期の出来事から信仰の道について探ります。

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聖書朗読と説教は礼拝後にこちらへ公開します。


1.迫害と困難に根ざした歩み(22-30節)
 キリストすなわち私たちの救い主であるイエス様が、弟子たちと一緒にユダヤ地方に滞在したことから切り出されています(22)。イエス様ご自身は罪がない方でしたが、私たち罪人と同じ立場を取られるために悔い改めのバプテスマを受けられました。それは同時に洗礼者ヨハネの門下に入ったとみなすことができるでしょう。神の子であるからと言って一足飛びに事を運ぶようなことはなさらなかったのです。
 さて洗礼者ヨハネについて24節に「まだ投獄されていなかったのである」と証言されています。なぜヨハネは投獄されたのでしょうか、何か悪事を働いたということでしょうか。彼が逮捕され、投獄されたことについてマタイによる福音書に記されています。領主ヘロデの不正を糾弾したことにより逮捕され(マタイ14:3)、その末にゆえなく洗礼者ヨハネは斬首されたのです(同14:10)。また彼の逮捕はイエス様にその活動の場を変更させるほど衝撃的なことでした(同4:12)。不正がなかったばかりか、神と人との前に正しいことを申し立てた故に逮捕され殺害されたのが洗礼者ヨハネの歩みでした。キリストの先駆者として現れたヨハネですが、イエス・キリストの福音が成立する頃にはすでに殉教者の先駆けとしての人物像が定着していたことでしょう。
 ヨハネによる福音書が記された年代は諸説ありますが、そのうち早い年代を採っても紀元90年代です。キリストの十字架と復活を30年代半ばとしても60年ほどは経っています。その間にマタイ、マルコ、ルカの福音書はすでに成立を見ています。それにも関わらず後代にあえて記されなければならない事情があったということでしょう。60年代のローマ皇帝ネロによる大迫害、70年エルサレム陥落、その後も迫害に伴う殉教者は絶え間なく続きます。困難な時代をくぐり抜けることができたとしても、キリストの直接の目撃者たちが病や老いによって次第に世を去っていきます。キリストの信仰者たちがともに集まることもままならず、先が見通せない時代です。神の国の福音が地上から途絶えるのではないか、そもそもイエス・キリストは本当におられたのか、教会の中にも不安と迷いの風が吹き始めたことでしょう。
 洗礼者ヨハネがユダヤの権力者に捕らえられ殺害されたということはユダヤ人の中でも認識されていました。処刑された歴史上の人物がおり、その弟子たちがイエスのもとへと流れていきました(ヨハネ3:26)。つまりキリストと呼ばれるイエスが空想や思想上の存在ではなく、血肉を伴う実在の人物であることが浮き彫りとなります。過去に起こったできごとではありますが、福音書における現在としてイエス・キリストの福音が事実であると証しされています。それは当時の信徒たちにとっての現在であり、またどの時代にあってもこの福音書の読者にとっても現在として真実であることを意味します。
 この真実とは、イエス・キリストの福音の宣教そのもの、あるいは主が歩まれた信仰の道と言えるでしょう。キリストの宣教の歩みは洗礼者ヨハネの元から始まっています。イエス様がユダヤ指導者らの妬みや敵意を被ったのは、その教えや権威、奇跡によるところは大きいでしょう。しかし公生涯は洗礼者ヨハネの弟子という立場から始まっています。イエス・キリストの福音、あるいは信仰の道は出発時点から殉教者の上に立っていたことになります。
 ヨハネの言として「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」(30)とありますが、彼の逮捕によってキリスト自身がガリラヤから始まる独自の働きへと進まれました。福音を信じているから迫害が起こるかのように見えますが、むしろキリスト自身もまた先駆者であるヨハネが受けた迫害と殉教の上に立って進まれたことがわかります。
  
2.弾圧を覚えて(短文より)
 さて宇都宮上町教会は日本基督教団の教会ですが、その中でもホーリネスの群というグループに属しています。了承をいただいた上で群の副委員長の短文を紹介いたします。
 
 6月は「ホーリネス弾圧記念日」を迎えます。1942年6月26日、キリスト再臨の教理が天皇中心の国体を否定するという治安維持法違反として、ホーリネス系の教会の一斉検挙により、96名の牧師が検挙され9月には満州などの外地、翌年2月以降の第2次検挙を合わせて128名でした。治安維持法違反の検挙数では最大規模のものです。
 これは天皇中心の国体を否定する団体の壊滅を目的としたもので、「国体を否定する」とは内面の思想を弾圧することです。しかし当時のホーリネス教会はそうした思想をもっていませんでした。ですから検挙され、国体を否定すると言われても戸惑うばかりでした。まさに弾圧は受難でありました。教会は解散命令が下され、牧師は退任、信徒は近隣の教会へ・・・3年余りの受難を経験し、敗戦後に「ホーリネスの群」として復興する恵みにあずかることになります。(大友英樹、「ホーリネスの群弾圧記念日」『聖城』383、2020年6月号、p.3、赤羽教会)

 3年余りという弾圧の年月について、主イエス様が歩まれた公生涯の年月と重なるような思いもいたします。また同時に、今なお世界にはキリストを信じる者が公権による弾圧や迫害を受けているという国もあると聞きます。表向きは信教の自由を謳っていても、国が定めた教理や教義しか認められないという制限された国もあるそうです。
 一方で、迫害や弾圧ではないのですが、私たちは共に集まることが制限されるという事態を経験したばかりです。いえ現にまだ幾らかの制限があり、機微な配慮を要しています。現に聖礼典について、特に聖餐を執り行うことを宇都宮上町教会では見送っているところです。週ごとの主日礼拝は工夫をこらして継続することはできましたが、本来の意味での公の礼拝は制約されている一面が残っています。
 弾圧を受けた経緯をもっているホーリネスの群だからこそ、現状を思慮深く受け止めつつ適切な対応をより具体的に祈り求めることができるように思います。

3.上から来られる方(31-36節)
 洗礼者ヨハネの言として地すなわちこの世に属する者と、天から来られる方とが対比されています。この「上から来られる方」「天から来られる方」とは、洗礼者ヨハネにおいてはメシアであり「花婿」(29)と呼ばれるキリストを指しています。そして彼が言うように、地に属する者はこの方が証しされたことを受け入れることなく、迫害し、十字架へかけたのです。
 また福音書が書かれた時代にあっては、神の御子は復活して天に昇られた後であり、栄光をお受けになってその霊を弟子たちへと遣わされています。したがって、聖霊によってやどりマリアから生まれたイエス・キリストご自身と、後に使わされた神の霊とその両方を指しうることになります。御子はすでに天に昇られていますから、現に遣わされているのは神の霊であると言えましょう。キリストの贖いにより神の子の身分を与えられた者が「上から来られる方」である霊を受けるとき、かつて御子がそのようであったように霊によって神の言葉を明かしするようになるのです。
 続いて「御子を信じる人は永遠の命を得ている」(36)と証しされています。死んだら永遠の命をいただけるとは書かれていません。生きているうちに御子イエス・キリストを信じ、生きているうちに永遠の命をいただくのです。永遠の命ですから、この肉体が滅びるに至っても失われることはありません。あるいはこの世から受ける迫害や弾圧というものがあったとしても、それらは地に属する者ですから「天から来られる方」や"霊"に手をかけることはできません。
 私たちの肉体は生まれながらのものですので、地から出て地に属しており、やがて朽ちていくものです。ときに病を負い、あるいは年齢とともに衰えを感じていきます。地に属する者ですので、塵は塵に帰ります。迫害や弾圧によって打たれ、またその事を思うだけでも恐怖におののくこともありましょう。恐れを覚えることそのもを聖書は否定していません。他の福音書に記されているように、主イエス様でさえオリーブ山での祈りの中で、受難という杯取り除けられることを願ったほどです。
 他方で御子に従わない者について、神の怒りがその上にとどまると記されています。洗礼者ヨハネの言質として受け取れば、悔い改めてこの神の怒りを免れよという意味になるでしょう。もちろん御子に従わない者に神の怒りあるいは裁きが下るということは疑いようのない事実でありますが、それをお定めになるのも神ご自身だということも私たちは覚えるべきでしょう。

<結び> 信仰の道
 弱さを覚えつつも、うちに働かれる方に明け渡し強めていただく歩みがあります。
 御子は弟子たちに「だれも行ったこのとのない業」(15:24)を与え、「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪が赦される」(20:23)ことのために聖霊を受けるように命じられたからです。そして御父が遣わさえる聖霊は「弁護者」と呼ばれています(14:16)。この方が私たちの内におられ、永遠に一緒にいてくださるのです。この方を頼り、死にまで従った主イエス様の信仰の道を歩みましょう。

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