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「異邦人の救い」ヨハネによる福音書4章27-42節

2020年7月5日
担任教師 武石晃正

 新しい生活様式ということばが用いられるようになってからしばらく経ちますが、なかなかその新しさというものを実感できずにおります。世の中は徐々に動きを取り戻しつつありますが、私たちの生活も以前のようには戻っていない状況です。いまだ先行きが見通せないもどかしさを感じます。
 さてエルサレムから始まったキリストの教会は、ユダヤとサマリア、全世界へと広がっていきました。地理的に広がると同時に、さまざまな時代の移り変わりを乗り越えて進みました。不安や戸惑いを抱えつつも新しい地へ、新しい人々へと福音を伝え広めた弟子たちの姿が聖書には記されています。

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聖書朗読と説教は礼拝後にこちらへ公開します。


1.サマリアの人々への宣教(27−31節)
 先週からの続きの話です。ユダヤ人であるイエス様と弟子たちは故あってサマリアという地域の町を訪れました。弟子たちが町へ食料を買い付けに行っている間に、井戸の傍らでイエス様はサマリア人の女性と語らい、ご自身をキリストと呼ばれるメシアであると明かされました。
 そこへ弟子たちがサマリアの町から帰って来ました(27)。弟子たちは自分たちの先生が現地の女性と話しているのを見て、何も言うことができなかった様子が記されています。その理由までは書かれていません。ユダヤのしきたりを破ってサマリア人と会話をしたということだけであれば、弟子たちも町に入って買い物をしてきたばかりですから同じです。特別な事情がある女性と話をしていたということについては、イエス様はユダヤにおいてもそのような方々を何人も接しておられます。たまたま対話が成り立つ女性だったからよかったものの、反目しあっている部族の土地にたった一人だけ置き去りにしてしまったのですから、主を危険に晒してしまったという体裁の悪さを気にしたのかもしれません。
 その隙きにサマリアの女性は自分の町へと入って行ってしまいました。その様子はサマリア人を遠巻きに見ているイエス様の弟子たちと対象的です。水がめをそこに置いたまま(28)と記されてありますので、彼女は必ずここへ戻ってくるという意思を持っていました。たとえ町の人たちが誰も自分の話を信じてくれず一人で来なければならないとしても、そこにユダヤ人の男たちが集まっているとしても、彼女はイエス様の元へ戻る思いがあったのです。
 サマリアの町の人たちはこの女性の話を聞いて町から出てきました(30)。この時点ではまだどこまで話を信じていたのか定かではありません。「なんだ、ユダヤ人が井戸のところに来てるんだって?」「いや、町の中で食べ物を買っていったらしいぞ」「なぁ、一人であそこに戻るつもりか」「危ないから俺たちもついて行ってやるよ」もしかするとこんな会話があったかもしれませんね。少なくともこのたった一人の女性が部族の垣根を越えてユダヤ人を受け入れたことで、多くのサマリア人がイエス様のもとへ来ることになりました。


2.裂かれたパンの意味(31-38節)
 次の場面です。サマリアの女性が一旦その場を立ち去ったところへ、弟子たちがイエス様のもとへサッと寄ってきます(31)。食事を勧める弟子たちへ「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」とのイエス様がお答えになります(32)。「だれか食べ物を持って来たのだろうか」(33)との弟子たちの言葉は、「だれも食べ物を持ってこなかったよな」と顔を見合わせたということになるでしょうか。
 この食事についての問答は実際に弟子たちとイエス様が交わされたものですが、福音書が書かれた年代における意味合いも重ねて読み取ってよいでしょう。初期の教会では特に弟子たちが集まって食事をすること、特にパンを裂くということに大きな意味がありました。そこには教会のために裂かれた主イエス様のみからだが象徴されています。裂かれたパンを共に食べるとき、キリストのからだに連なっていることを覚え、またキリストの業のためにここから遣わされて行くことが確認されます。
 食事と畑の刈り入れとは脈絡がないようにも見えますが、初代教会においてパンを裂くということの意義がこの箇所で再確認されることになります。そしてこの福音書も聖書として教会が受け継いで参りましたので、現代の日本の私たちにもまた真実です。
 「刈り入れまでまだ四ヶ月もある」とは当時の慣用句でしょうか。種を蒔いたからといってすぐに収穫できるわけではありませんので、もっともなことだと言えましょう。しかし主イエス様がおっしゃっているのは実際の畑のことではありません。ここではサマリアの町の人々を指して「色づいて刈り入れを待っている」(35)と言われています。事実、あの女性に導かれてサマリアの町の多くの人たちがまもなくやって来ようとしているのです。けれども弟子たちは、彼らが蒔いたものではないから、あるいは自分たちの望んだものではないから、とサマリアの人たちを迎えようとしていなかったようです。
 実のところ弟子たちにとっては、彼らがイエス様に付き従って御国の教えという種を蒔いて来た畑はユダヤ人だけでした。ですからサマリアで収穫すなわち改宗者が起こるとは思いもよらないことでしょう。また、サマリア人を刈り入れるためには彼らと付き合いをする必要がありますから、ユダヤのしきたりとそれに守られてきた特権意識を手放さなければなりません。けれども主は弟子たちに「あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした」と言い聞かせます。
 弟子たちはユダヤ人にしか福音の種を蒔くことができませんでしたが、彼らが種を捲くどころか足を運んだことさえなかったサマリアの町で刈り入れの働きをすることになります。サマリアは旧約の時代に多くの預言者たちが遣わされ、神に背く人々へ裁きと悔い改めの勧告をした土地でした。主は「あなたがたはその労苦の実りにあずかっている」と弟子たちを励まし遣わされました。


3.異邦人の救い(39-42節)
 そうこうしていると人々がサマリアの町からイエス様のもとへやってきて、彼らの町に滞在するように頼みました(40)。彼らは先にイエス様と直接お話をした女性からその証言を聞いて、まず信じた人たちです(39)。ユダヤ人である弟子たちは彼らを受け入れるのは難しいことだったようですが、サマリアの人々はユダヤ人のイエスとその弟子たちを受け入れました。「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」と、はじめはイエス様を預言者の一人として信じました。
 彼らの頼みを受けてイエス様は「二日間そこに滞在された」と書かれています。当然その弟子たちも一緒に滞在したわけですが、本来であれば付き合いをしない人たちから厚意を受け入れるということはたやすいことではなかったでしょう。イエス様のために、ユダヤ人としての習わしをかなぐり捨てて、異邦人のように過ごさなければなりません。
しかし弟子たちがサマリアの人たちへ遣わされたことにより、その滞在期間にもっと多くのサマリアの人たちがイエス様の言葉を聞いて信じることができたのです(41)。
 42節を読みます。
 
 彼らは女に言った。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いてこの方が本当に世の救い主であると分かったからです。」
 

 人伝いで聞いて信じ、そこから信仰の道に入ります。それがときに親であるか、学校の先生であるか、友人であるか、書籍であるか、それぞれに違いはあるでしょう。でもだれ一人自分のほうからイエス様に出会った人はおらず、主のほうから近寄ってくださいます。
 サマリアの町の人々はユダヤまでイエス様を呼びに行ったのではありません。イエス様のほうから井戸に水を汲みに来た女性に声をかけてくださいました。この女性が町の人々へ伝え、また弟子たちがイエス様より遣わされて、多くのサマリア人がこの日救いの恵みをいただくことができました。

<結び>
 今日の箇所はユダヤ人とサマリア人との間の出来事でしたが、さらに今で言うところの旧約聖書を背景にもたない全くの異邦人へと福音が告げ知らされていきます。そして現代の私たちにもイエス・キリストの救いが届けられています。
 誰が蒔いた種がいつ実るのか、私たちがそれを知るのは難しいでしょう。はるか昔に蒔かれた種が今頃になって刈り入れ時を迎えるかもしれません。
 ユダヤからサマリア、そして異邦人へと福音の種は蒔かれ続けました。国境を越え、民族や文化の違いを越えるということは口で言うほどたやすいものではないでしょう。
 あらゆる垣根を越えて福音が伝えられます。すでに誰かが蒔いたものが刈り入れを待っていることもあります。ユダヤから見ればこの日本はまさに地の果てであり、私たちは異邦人です。弟子たちをまずサマリアへ、そして異邦人へと遣わしてくださった主に感謝します

 イエス・キリストこそあなたの本当の救い主です。

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