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「復活の希望」ヨハネによる福音書5章19-30節

2020年7月19日
担任教師 武石晃正

 先日、花園霊園にあります私たちの教会の納骨堂グレースヒルにおいて、納骨式を行わせていただきました。時勢柄またご遺族の意向によりお身内だけでの式でありましたが、神様からも皆様からも愛された姉妹の歩みを記念する厳かなひとときとなりました。
 幼い時から主に出会い、教会生活を通じて主の恵みに生かされ、主の救いと慈しみ深さを身をもって証しされた信仰者だったと聞いております。死してなお亡骸をもって、永遠のいのちにあずかる者が主のみもとに帰ったことを証ししているのです。同時に私たちは魂が天の御国に帰るだけでなく、主イエス様の復活を信じる者がその御再臨の日に新しいからだをもって復活することにも希望を抱いています。
 本日はヨハネによる福音書より「復活の希望」と題して読み進めて参ります。

PDF版はこちら
聖書朗読と説教は礼拝後にこちらへ公開します。
 
1.大きな業がなされる(19−21節)
 朗読しました箇所はヨハネによる福音書5章の途中からでございますが、その直前の箇所はイエス様がユダヤ人たちと安息日について議論した記事であります。かなり物騒な展開となっておりますが、ユダヤ人たちが重要視していたのは安息日そのものや本来律法と呼ばれる神様の掟ではなく、彼ら自身の権威や尊厳でした。つまり天地を創られた偉大な神様のみこころよりも、人を殺めることはできても生かすことはできない非力な人間の都合でしかありませんでした。

 「そこで」(19)とイエス様は言葉を続けられた、というのが本日の箇所の始まりです。子と父という語が何度と繰り返されますが、子とは神の子キリストすなわちイエス様のことです。父とは天におられる父なる神様を指しています。「子は・・・自分からは何事もできない」とおっしゃられるように、神の子だからと言ってなんでも思い通りになさるのではなく、御父がなさることを御子イエス様がなさるのです。ユダヤ人たちに対しては、彼らよりも権威をもって話していることが、イエス様自身のおごり高ぶりではなく神様のみこころであることを説かれています。
 さらに目を引くことは神様が「これらのことよりも大きな業を子にお示しに」なるということです。旧約の時代から与えられている律法あるいは掟を人間が字句通りに守り行うことをはるかに超えた大きな業をなさろうというのです。そしてそれは「あなたたちが驚くことになる」ほどのものなのです。

 この驚くほどの大きな業というものについては、実はこのユダヤ人たちにとって全く聞いたことがないというわけではないのです。なぜなら旧約聖書には預言者の言葉として次のように書かれているからです。
 「お前がエジプトの地を出たときのように彼らに驚くべき業をわたしは示す」(ミカ7:15)
 イスラエルがまだ彼らの神がどなたであるかも知らず、律法もなかったときのことです。異邦人と何ら変わり映えもしなかった彼らを、神様は特別に選びご自分の民となさいました。この驚きについて預言者は「あなたのような神がほかにあろうか」と感嘆しつ、その驚くべき業をなされる神様について告白します。

 「咎を除き、罪を赦されるされる神」「神は(中略)いつまでも怒りを保たれることはない」「神は慈しみを喜ばれる」「主は我らを憐れみ・・・すべての罪を海の深みに投げ込まれる」(同18,19節より)。
 まだ律法がないうちから神様は彼らを選んで救い出されました。彼らが繰り返し背きの罪を重ねたにもかかわらず、何度と預言者を遣わしてその罪を除きお赦しなさいました。そして神様がお赦しになったものを誰も再び罪に定めることはできません。主ご自身がそれらを深海の奥底、人の手の届かないところへと投げ込まれるからです。

 イエス様と議論したユダヤ人たちはこの預言書のことばを受け止めていなかったのでしょうか。そのことは定かではありませんが、イエス様は御父が驚くべき大きな業をなされる方であることを彼らに明言されたのです。そしてその驚くべき業とは、咎を除き罪を赦す神様の憐れみの御業です。
 御子イエス様の十字架で罪の贖いが成し遂げられ、御父は御子を通して復活の御業をなされました。御子がご自分の民に命を与えることで、この驚くべき大きな業が成就します。

2.死から命へ移される(22-26節)  
 次いで、イエス様は御父から任されているご自身の権威あるいは役割を説かれます。御子は御父から一切の権威が任されているわけですから(22)、先ほど見ましたように旧約聖書で示されている神様のお働きをもそこに認めることができるのです。
 「はっきり言っておく」と強調されている24節と25節は、言い方を変えて一つのことを教えています。中心となる教えは、御子キリストに聞く者は死から命へ移されるということです。聖書において「聞く」ということはただ耳で音声を聞き取るだけでなく、従うとか信じるという意味があります。ですから「わたしの言葉を聞く」ことと「お遣わしになった方を信じる」ことは同じ意味であり、この方を信じる者は永遠の命を得るのです。

 また「裁かれることなく、死から命へと移っている」(24)、そして「死んだ者が神の子の声を聞く時が来る」と語られています。はたしてこれは死んで葬られた人が後から命を得るということになるのでしょうか。よく注意して読み取るならばお分かりになるはずです。「今やその時である。その声を聞いた者は生きる」(25)のです。
 聞いて信じるわけですから生きている間のできごとであり、葬られた人を指してはおりません。ここで言われている死んだ者とは神を信じずに滅びに至る者、死に定められているすべての人を指します。しかし生きているうちに永遠の命をいただくならば、死んでもそれを奪われたりなくしたりすることは決してありません。

 福音書の記事としてはまず論敵であるユダヤ人たちに向けられたことばでありますが、記された時点では著者を通して読者に対しても語りかけらます。当時の教会はすでに非ユダヤ系いわゆる異邦人が中心となっていましたので、律法と呼ばれる掟あるいは旧約聖書を背景に持っていない人たちがほとんどでした。ユダヤ人ではない異邦人へ向けられていることばですから、時代を越えても私たちがそのまま信じることのできる教えであります。
 御子を敬い信じる者は、裁かれることなく、死から命へと移されます。これは生きて命があるうちにいただく必要があります。死んでからでは間に合いません。いまわの際になってキリストの言葉を聞ける機会に恵まれるかどうか、聞けたとしても信じることができるでしょうか。主は「今やその時である」と私たちを招いておられます。いまキリストを信じ、永遠の命をいただきましょう。

3.復活の希望(27-30節)  
 さて最後に説教にも掲げておりますように復活の希望について読み取りましょう。
 イエス様は御父から与えられている裁きの権能について説かれました。「驚いてはならない」との前置きは「驚くようなことを話すので落ち着いてしっかりと心に留めなさい」という意味でしょう。また「時が来ると」と言われていますので、先ほどの「今や」と違ってやがてくる日の出来事です。やがての時ことですが、その時はかならず訪れます。すべての人が必ず死ぬように、主の裁きは確実に下されます。
 すでに亡くなられた人、そしてこれから亡くなられるすべての人について主は語られます。「墓の中にいる者」(25)という言い回しは慣用句ですので、お墓に埋葬された人に限っているわけではありません。死んだ人全般を指していますから、ご遺体の状態や埋葬の形式は問われていません。ですからここで言われている復活も、死体がそのまま息を吹きかえすとかご遺骨が組み合わされて肉がついていくとか、怪奇小説のような出来事ではないはずです。

 生前の善い行いによって復活の命をいただけるかのように29節の言葉から受け取られるかもしれません。しかし先ほど見ましたように24節では御子と御父を信じる者が永遠の命を得て裁かれることがないと宣告されています。神の言葉に聞き従う者はすでに神の前で良しとされているのです。29節ではむしろ、御子も御父をも信じず神の前で「悪を行った者」が裁きを受けることが強い戒めとして与えられています。
 生きているうちにみことばを聞き、御子キリストを救い主と信じたものには永遠の命が与えられます。生涯を終えて葬られますが、主の時が来ると復活して命を受けます。

<結び>
 使徒パウロの言葉です。
「 (私は)律法に則したことと預言者の書に書いてあることをことごとく信じています。更に、正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いています。この希望は、この人たち自身も同じように抱いております」(使徒24:14-15)

 信仰の歩み、神の言葉に従った正しい生き方をすることで、この世では損をすることも少なからずございます。死んだらすべてそれでおしまいだとしたら、これほど悔しいことはないでしょう。しかし死んだのち復活し、命をいただくのです。
正しい者も正しくない者も復活し、神の前に出なければなりません。神をも恐れず悪事を働いて栄えに栄えたまま死んで得をするということはないのです。
 主は世界を正しく裁き真実をもって諸国の民を裁かれます(詩96:13)。主を信じない者にとって死は恐怖ですが、信じる者には復活の希望があるのです。
 この復活の希望について生涯を通して身をもって証しし、また亡骸になってもなお証しできる者となりましょう。

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