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「恐れることはない」ヨハネによる福音書6章16-21節

2020年7月26日
担任教師 武石晃正

 親しい方から急に「ねぇ、大丈夫だからね」などと声をかけられたらどのような思いがするでしょうか。心配事の相談をしていた相手であれば励ましていただいていることを感謝できるのですが、何も心当たりがないときに突然「大丈夫ですよ」などと言われたら逆に不安なるかもしれません。ひょっとしたら大丈夫ではないことが知らぬ間に降りかかっているのではないか、という気苦労です。
 本日は「恐れることはない」とのイエス様のお言葉を説教題に掲げております。何も恐れるようなことがない時に「恐れるな」と誰も言わないものです。例えば幼い子どもが「ボク怖くなんかないんだからね」と強がりを言うときには、その内心には不安や恐れが満ちているわけです。主は私たちが恐れを覚えやすい者であり、何かにつけて不安を感じることをよくご存じでおられ「恐れることはない」と語りかけてくださいます。

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聖書朗読と説教は礼拝後にこちらへ公開します。

1.荒れる湖の上で(19−21節)
 朗読しました箇所はイエス様と弟子たちがガリラヤ湖に臨んだとある夕方の出来事です。同様の記事がマタイ、マルコの両福音書にも記されております。いずれもイエス様の奇跡の中でも有名な5000人の給食のすぐ後のこととして書かれています。

 マタイによると疲労困憊した弟子たちを労ったイエス様が彼らを小舟に乗せて、対岸へと送り出したとあります。群衆から逃れて湖へ舟を進めた弟子たちでしたが、ガリラヤ湖名物の突風強風にあおられて立ち往生してしまいました。ガリラヤの漁師たち4人をしても、二進も三進も参りません。どれほど漕ぎ出したところかと申しますと、巻末資料によると1スタディオンは185mとありますので、およそ5㎞内外といったところです。岸辺に立って水平線に隠れるほど遠く、湖のちょうど真ん中あたりのようです。元漁師のヨハネが記しているとあれば間違いないでしょう。

 深みに漕ぎ出したところで真っ暗闇での立ち往生、波風に揺られる小舟はまるで木の葉のよう。舟の縁に掴まっていても波しぶきは容赦なく降りかかってきますし、湖に投げ落とされそうになることも幾度もあったかと思われます。明けない夜はないと頭では分かっていても、朝を迎えるより先に湖の深みに引きずり込まれてしまいそうな恐怖に襲われます。ようやく空が東の方から色づき始めたころ、うねりと波間の向こうから不気味な影がこちらへ向かってくるのが見えました。
 その正体を私たちはイエス様であると知っているのですが、揺れる小舟の中にいる弟子たちにはそれがまだ分かりません。水の上を歩くことができる生き物など、ガリラヤの漁師たちでも見たことがありません。「幽霊だ!」などと口々に叫びながら弟子たちは恐怖におののきます。するとイエス様は弟子たちにやさしく語りかけられました。「わたしだ。恐れることはない」と。

 ある人たちはこの箇所を読んで「いくらイエス様でも水の上を歩くなんてことはあり得ない、弟子たちがきっと見誤ったのだろう」などというかも知れません。舟は沖合ではなく浅瀬にあって、波打ち際をイエス様が歩いて来たのだろうと考える方もおられるかもしれません。しかしガリラヤの漁師が4人も乗っていて、そのような見当違いをすることはあるのでしょうか。いささか確証を得がたいように思われます。しかも強風と突風にあおられて水面は大時化、浅瀬であったら舟はまたたくまに座礁してしまうことでしょう。また10人以上も乗っている舟が浮かぶほどの深さはあるわけです。たとえ浅瀬だといっても高波が寄せる中を人が歩いて舟に近づくことは叶わないでしょう。ですから湖の上をイエス様が歩かれたことを疑問に思われるのは仕方がないとしても、それを見誤りや作り話だということは状況から見てもむしろ難しいことだと思われます。

 私たちは福音書として読んでおり、イエス様を主と仰いでおりますから、奇跡の一つとして受け取ることができます。とはいえ薄暗がりの湖上で人影が波間から近づいてきたら、恐怖におののき大騒ぎとなるかもしれません。弟子たちは恐れるという一言では表せないほどにおびえており、そこへ主は「わたしだ。恐れることはない」と励まされました。そして主が舟に乗り込むと嵐は凪いで、弟子たちは無事に対岸へと辿りついたのでした。

2.「恐れることはない」
 普段の生活の中で「恐れることはない」という言い回しはあまり遣われないかもしれません。「心配ないよ」「大丈夫だよ」と声をかけていただくと、それだけでも随分と慰められ励まされる思いがいたします。では私たち人間はどのような時に「恐れることはない」あるいは「心配ないよ」「大丈夫だよ」という励ましをするのでしょうか。大きく3つの場面を挙げてみます。

 まず一つ目は事前に注意を促す時でしょうか。大きな事が起こるかもしれない、何らかの試練に臨もうという場面です。備えは十分だから心配しなくてよい、落ち着いて事に当たれば大丈夫、そのような励ましと言えましょう。

 次いで二つ目に考えられるのは、事が収まった後のことでしょうか。事態の収束を見て、もう大丈夫だ、心配ないと確認する場面です。試験に及第し、その先のことが保証されたような状況も想定されます。困難や試練を越えたと見なして、「もう心配ない」「恐れることはない」と安堵する場面です。

 三つ目には困難や試練の渦中にある場面を思います。この程度のことであればどうにかやり過ごすことができるだろう、という見立てをして「大丈夫だ」「恐れることはない」と励まし合うこともあるでしょう。あるいは例えば夜中の雷雨に子どもが怯えて泣き出したとき「心配ないよ」と優しく抱きしめるようなこともありましょう。しかし避難勧告まで出されてしまうとさすがに親であっても子どもの前で「恐れることはない」ということは難しいかもしれません。あるいは危機的状況が迫る中で平静や正気を保つために、「大丈夫だ」「恐れることはない」と自己暗示や強がりを言い聞かせることもないとは言えません。

 細かな場面を想定すればいくらでも話は広がりますので、あくまでも例として提示してみました。いずれの場合においても、何らかの無視できないほどの恐れがそこにあるわけです。過去のことだとしても繰り返すかもしれない不安や、一度得た安心が奪われる恐れを抱えているのです。ですから大丈夫だ、心配ない、恐れることはないと言い聞かせる必要があるのでしょう。
 しかし残念なことに人間の言葉において「恐れることはない」と言う際には、一旦「恐れる」という概念を呼び起こしてから「ことはない」と打ち消すのです。必ず恐れを記憶ことになりますので、言葉を重ねれば重ねるだけ恐れや不安が蓄積されることになります。

 ところが、神のひとり子である主イエス様は全能者でありますから、その恐れをも超えて私たちに働きかけられるのです。ちょうど突風にあおられて大きくうねる湖の上で、波がしらを跨いで歩いて来られるようにです。嵐のような風は吹き荒れているのです。うねりや高波は依然として寄せては返しているのです。風が強ければ強いほど、波が高ければ高いほど、それらをものともしない神の力強さを私たちは思い知ることになりましょう。このお方が「恐れることはない」とおっしゃるとき、恐れとなるものさえも足の下に踏み置かれているのです。

3.「恐れるな」(イザヤ書43章より)
 イエス様は神の子ですから被造物をも支配することがおできになります。ではか弱い人間に過ぎない私たちにはこの「恐れることはない」とのお言葉は大きすぎて受け取ることができないのでしょうか。

 創造主である方はこの世にお生まれくださる前に、預言者たちを通して幾度となく励ましの言葉をお与えくださいました。イエス様ご自身もユダヤ人として歩まれましたから、ご自身のことばを肉体の弱さを通して味わってくださったのです。そのうえで弟子たちに「恐れることはない」と仰せになりました。
 旧約聖書のイザヤ書に次のような言葉が記されています。「恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの」(43:1)「恐れるな、わたしはあなたと共にいる」(43:5)。全能者が救い出し、共にいてくださるなら私たちの魂を恐怖に陥れるものは何もないのです。 そして「わたしが事を起こせば、誰が元に戻し得ようか」(43:13)とも言われています。主が助けてくださったのなら、再び恐れという嵐の湖に投げ出されることはありません。

 イエス様は弟子たちに「恐れることはない」とご自身が彼らの神、主であることをお示しになられました。福音書はすべての読者に、イエスは主なる神であることを明らかにしています。
 弟子たちが舟に迎え入れたように、私たちはイエス様を神である主として心に迎え入れましょう。そのとき恐れではなく「わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの」「わたしはあなたと共にいる」との約束を受け取ることができるのです。

<結び>
 本日の箇所の最後は「すると間もなく、舟は目指す地に着いた」(21)と括られています。
 しばしば困難や恐れに直面すると、私たちはそれらを何とか解決しようと取り組みたくなるものです。弟子たちにとって突風や強風、うねりと高波が困難であり恐れの原因でした。しかし彼らの目的は波風をなんとかして押さえつけることではなく、「目指す地」へたどり着くことでした。
 私たちが困難や恐れに立ち向かおうとすると、嵐の湖上の小舟のように立ち往生してしまうことでしょう。そこで「恐れることはない」とイエス様は励まされます。恐れを見て何とかせよということではありません。波風に心奪われず、主イエス様を迎え入れて目指す地へと向かうのです。主を信じ、天を仰ぐとき、私たちのうちに平安と確信が宿ります。

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