「天から降ったパン」ヨハネによる福音書6章41-59節

2020年8月9日
担任教師 武石晃正

 幼い頃、外に落ちている物を拾って食べちゃダメよ、と言い聞かせられたことはおありでしょうか。最近の子どもたちは拾い食いなどしないのかも知れません。
 かつて、今から3000年以上も昔のことですが、神の民イスラエルがエジプトから脱出し、荒れ野を旅していた時の話です。神様は彼らを養うために、マンナと呼ばれる白くて甘いせんべい菓子のようなものを毎日毎日天から降らせてくださいました。イスラエルの人たちは毎朝毎朝外に出て、地面に落ちている物を集めて食べたのです。
 家族を養うことをしばしば「食べさせる」という言い回しで表現されます。親が子どもに食事を与えて育むという意味でありますが、食べ物のことだけ考えているわけではありません。衣食住はもとより、心を育み生きていく力を養うこと、大人になるまであらゆる方向から成長を支えることでしょう。
 人間の親でさえ子どもにこれほどまで心を砕くのですから、主なる神様はどれほどの思いでご自分の民を養おうとされているのでしょうか。詩編のある個所には「味わい、見よ。主の恵み深さを」 (詩34:9)と謳われています。今日は「天から降ったパン」と題しておりますが、主の恵み深さをご一緒に味わい知ることができれば幸いです。

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聖書朗読と説教は礼拝後にこちらへ公開します。


1.永遠のいのちを与えるパン
 聖書の中でパンということばには、たとえなどを除くと大きく2つの用い方があるようです。一つは文字通り麦粉を練って焼いたいわゆるパンで、もう一つは食べ物あるいは食事全般を指すものです。日本語で「ごはん」や「メシ」と言うときに主食であるコメあるいは麦を炊いたものを指す場合と、食事を指す場合があるのと似ていますね。焼いたパンも炊いたご飯も食事の一部ですので必ずしも明確な使い分けをされないこともあるでしょう。いずれにおいても、その人の内に取り込まれ、消化され、肉となり血となるものを指しています。そしてその人を生かし、動かす力を与える物には変わりありません。

 イエス様は「わたしは命のパンである」(48)「わたしは、天から降ってきた生きたパンである」(51)「これは天から降ってきたパンである」(58)と繰り返しご自身をパンであると言われています。また「わたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる」(57)と説かれています。
 そしてご自身を命のパンであるし、その肉を食べ血を飲むようにイエス様は言われています。パンにせよそのほかの食べ物にせよ、食べることで命を養うことはできても、それ自体に命の源があるということではありません。食べて元気になっても、また疲れ、やがては死にます。けれども命のパンには永遠の命があります。それを受けた者は永遠に生きるのです(51)。生まれ持った肉体は滅ぶとしても、新たに生まれた内なる人は滅びることなく、主が「終わりの日に復活させる」のです。

 「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者」(56)と言われてそのまま思い浮かべるとぞっとする光景ですが、命のパンをいただいてキリストの命が私たちの内で肉となり血となると思えばいくらか受けとりやすいかもしれません。ユダヤの律法では血を飲むことが禁じられていますので(申12:23)、ユダヤ人たちにとってこの言葉はつまずきとなったことでしょう。しかし、血は命であるとも書かれていますから、主はわたしたちに食べ物としてばかりでなく命そのものをも与えてくださいます。

 この教えは聖餐あるいは主の晩餐の制定のことばを思い出させます。むしろ聖餐が主のみからだと永遠の命を思い出させるものであります。使徒パウロを通して教会に示された聖餐の制定のことばをコリントの信徒への手紙第一11章で読むことができます。 「主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き」(11:23,23)とあります。十字架にかかかる前日の出来事として、その30年ほど経って書かれた書簡の一節です。ある人たちはもしかすると、キリストが遺言としてこのような儀式を弟子たちに委ねたのだと思うかもしれません。

 けれどヨハネは実に興味深い一言を添えて一連の議論を締めくくっています。「イエスがカファルナウムの会堂で教えていたときに話されたこと」だというのです。カファルナウムとはガリラヤ湖のほとりの町ですから、初期のガリラヤ伝道でのことになります。十字架から3年も前ということです。また会堂で教えていたということから、イエス様がユダヤ当局から命を狙われる前であることがわかります。つまりイエス様はご自身に危機が迫ったから聖餐を制定されたのではなく、ご自身を世に示された当初から命のパンあるいは人の子の肉と血について教えておられたということになります。
 十字架を目前にしてご自身が死なれることを指しているのではなく、ご自分こそが命のパンであるとお示しになるために生涯を歩まれたのだと言えましょう。ですから、死んでもいつかきっと復活するので希望を持てという気休めのような教えではないのです。この永遠の命を与えるパンは、信じる者にいま命を与え、生涯あなたを神の前に生かし、死んでもなおその命は誰からも奪われることがないという約束だと言えます。
 
2.このパンを食べる者
 ではどのようにしてイエス様の肉を食べ、血を飲むことができるのでしょうか。実際にイエス様のお体を食べることはできません。というのも、主は弟子たちが見ている目の前で天に昇られたから、地上にその肉体は残っていないからです。もちろん、お体が地上にあったとしても、本当にイエス様にかじりつくわけにはいきません。21世紀に生きる私たちばかりでなく、福音書が書かれた当時の信者さんたちも、またイエス様から直接お言葉を聞いた人たちもみな、同じ疑問を抱いたことでしょう。
 ヨハネによる福音書が書かれた年代は諸説ありますが、早い年代でも紀元1世紀の終わりの90年代と言われています。70年のエルサレム陥落から20年以上も経ち、歴史の表舞台からユダヤ人が姿を消してしまっている時代です。今回お読みしている箇所はユダヤ人たちとイエス・キリストとの問答という展開ではありますが(41)、ユダヤ人であるから何であるかということを論じているわけではないようです。
 ここでユダヤ人として描かれている人たちはより深くキリストを信じようという人たちではなく、信じないあるいは拒否するためにその理由を探そうと問い続ける人たちのようです。それはイエス様に直接問い詰めたユダヤ人であり、ヨハネの時代に議論をしていた教会の人々と重なるものでしょう。そして後の時代にも疑問を抱くすべての人の姿です。

 さて、そのユダヤ人らとイエス様との問答の内容は6章26節から続く一連の出来事として書かれています。5000人の給食の奇跡に関連した内容です。「いつここに」「何をしたら」「どんなことをしてくださいますか」「ください」とイエス様に詰めかける人々の姿があります。一見すると熱心そうではあるのですが、本心から求めているのではなく屁理屈を重ねては上げ足を取ろうとしているようにも思われます。というのも、信じるのであれば「はい、信じます」の二つ返事で済むからです。信じて従ってから、弟子としていろいろと学べばよいことです。信じない理由あるいはイエス様を訴える口実を質問という形であれこれと探しているように見えます。

 朗読した箇所は新共同訳聖書では二つの段落に分けられています。41-51節と52-59節です。これら二つの段落をよく見比べてみますと、おおむね同じ展開であることがわかります。①ユダヤ人らのつぶやきと不満(41-42,52)、②それを受けて真理が説かれ(43-47,53-57)ます。その中心にあるのは「(キリストが)その人を終わりの日に復活させる」(44、54)ということです。そして③「これは、天から降ってきたパンであり」(49,58)このパンを食べる者は永遠に生きる(51,58)と結ばれます。大切な真理が角度を変えて2度繰り返して記されていることになります。
 二つの段落に共通する部分を取り除くと、前半部分ではイエス様が天の父なる神様から遣わされたこと、後半ではその肉を食べ血を飲むということが残ります。47節に示されています「信じる者は永遠の命を得ている」ということが、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む」と言い換えられていることになるのです。
 
 キリストの肉が裂かれ、血が流されるという、まさに受難受苦の予告です。ゴルゴタの十字架の上で神の前にささげられた全き犠牲(いけにえ)であり、私たちすべて罪人の贖いを示しています。主イエス様は受難週と呼ばれるあの1週間だけ十字架のことを覚えて歩まれたのではないのです。ガリラヤ宣教の当初からすでに十字架を背負って歩まれました。
 信仰告白あるいは使徒信条を通して私たちが告白しているように、キリスト教の信仰の中心は十字架につけられたイエス・キリストを信じることにあります。信じるということはキリストの生き方を自分のものとすること、その肉を自分の肉とし、その血を自分の命としていただくことです。つまりキリストの贖いの死を自分のとして受け入れた者だけが、永遠の命が得られる命のパンの恵みにあずかっているのです。

<結び> 天から降ったパン
 天地を創られ、全世界を「極めて良かった」と祝福された神様は、たとえ人間が背いて罪を犯したからといって冷たく見放されるような方ではありません。
罪が入ったために呪われた地上を憐れみ深くご覧になられました。40年間欠かすことなく荒れ野の只中でイスラエルの人々へマンナを与え続け、ご自身の誠実さと恵み深さを世にお示しになりました。
 神ご自身がひとり子として、この罪に満ちて呪われた世に人として生まれてくださいました。「これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない」(50)のです。
私たちの救い主キリストは、天から降ったパンなのです。ですから誰も天に上ろうとしたり、善行を積んで神様におねだりしたりする必要はありません。救いの恵み、イエス様の愛、永遠の命をありがたく頂戴するだけでよいのです。

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