「信仰による勝利」ヨハネによる福音書7章1-17節

2020年8月16日
担任教師 武石晃正

 本日は「信仰による勝利」と題させていただいておりますが、ところで信仰とはいったい何であると言えましょうか。日本には「鰯の頭も信心から」という慣用句がございます。つまらないものだとしても信心によって非常に尊く見えるという意味だそうです。
 しかし聖書が教える信仰は、この信心と同じようなものなのでしょうか。もし同じだとすればゴルゴタの十字架に磔(はりつけ)にされたイエス様が、柊の枝に刺して玄関先に吊るされた鰯の頭と何ら変わらないというようなものです。
 まず初めに信仰とは何かを思いめぐらせてから、福音書を通して「信仰の勝利」について考えていきたいと思います。


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1.信仰とは
 信仰とは何か、まず日本語での意味から考えてみます。信心であれば文字が表すごとく信じる心ですから、その人が何ものかを自身の拠りどころとしている思いや感情を指します。信心の主体は信じているその人自身にあって、その対象は鰯の頭であろうと石ころであろうと大木であろうと何でもよいのです。一方で信仰は信じて仰ぐと書きますから、信じているその人よりも仰がれている対象が主体であるといえましょう。
 聖書の歴史の中でも、教会の歴史においても、事あるごとに真の信仰とは何であるのかが問われてきました。私たちが道を迷い出ないために、どなたをどのように信じているのかいつも確かめておく必要があるからです。ハイデルベルク信仰問答(1563年)の問い21では「真の信仰とは、何ですか」と問われています。その答えは「それは、神が、この世でお示しになったことを、すべて真実であると受け入れる堅固な認識だけでなく、聖霊が福音を通して、私の中におこす心からの信頼であります。それはほかの人々に対してだけでなく、私に対してもまた、キリストの救いのみ業のゆえに、ひたすら、全くの恵みによって、神が罪を赦し、永遠の義と救いを与えて下さった、ということであります」と示されます(引用聖書個所は省略)。

 「信仰とは〇〇である」と一言だけで表すことは難しいようです。なぜなら信仰の対象である神様があまりにも恵み豊かで憐れみ深い方であるからです。同じく問い22では「それでは、キリスト者は何を、信ずべきですか」と問われています。その答えは「福音の中で私たちに約束されていること、すなわち私たちが普遍的に承認している信仰告白である使徒信条の各条項で、私たちに要約して教えられている、一切のことであります」と示されます。私たちがどのような神様を信じているのかを最も短く言い表すとしても、使徒信条より省くことは適わないと言えましょう。併せて私たちは日本基督教団信仰告白において、使徒信条を含めたかたちで信仰を言い表しています。
 聖書に聞き、三位一体なる唯一の神を仰ぎ、公の礼拝と愛のわざとを行いつつ再臨を待ち望むこと。これが私たちの信仰であると言えましょう。

2.神の時を待つこと(1-9節)
 ヨハネによる福音書7章はイエス様がガリラヤにおられた頃の出来事です。ユダヤのしきたりでは年に3度、主の神殿へ参拝することが定められていました。その一つである仮庵祭が迫っていました。
 当時のイスラエルはローマの統治下にあり、北はガリラヤ、南はユダヤと呼ばれる地域に分かれていました。ガリラヤ地方はガリラヤ湖周辺のなだらかで肥沃な土地でした。シリアやフェニキアといった外国にも接しており、柔軟性がある文化だったようです。他方、南のユダヤ地方は起伏が激しく、気候も水利も厳しい土地柄でした。神殿があるエルサレムに近いのでより国粋的な色合いが強く、宗教的にも保守的で厳格な風潮でした。ですから、自分たちと異質なものを受け入れがたい風潮が強かったようです。そしてその宗教指導者たちは、彼らの権威を脅かすナザレのイエスに殺意をもって敵意を向けたのです(1)。

 しかし主が味わわれた苦しみはそればかりではありません。肉親である家族からも理解されず、故郷を追われるというこの上ない孤独をも経験されました。3節に登場する「兄弟たち」は、マタイによる福音書によれば一度はイエス様をその働きから連れ戻そうとした人たちです(マタイ12:46)。今度は命を狙われていると知ったうえで、もっともらしい口実をつけて兄をユダヤへ行くようにけしかけています。兄弟たちは「イエスを信じていなかった」(5)どころか、暗に殺意が込められているではありませんか。
 彼らに対してイエス様は「わたしの時はまだ来ていない」(6)と答えられました。この「時」という言葉には「適切な時、好機」の意味があり、ここではイエス様が十字架につけられるために定められた神様のご計画の「時」を指しています。いずれはユダヤ指導者らの手に渡されるとしても、今この時ではないと言われているのです。実際に、十字架の日まではこの出来事から3年ほどありました。つまりイエス様はその間ずっと命を付け狙われる恐怖と、家族からも理解を得られないという情けなさとをなめ続けられたのです。
 帰ることができる当てもなく、行方には死が待つばかり。このように絶望的な境遇に置かれつつ、主はご自身に定められた時を待たれました。福音書が記された時代において、迫害を受けた初期の教会や信仰者たちもまた同様に故郷を追われ、また家族からも断絶された者もありました。また現代の日本においてキリスト者はごく少数派であり、弾圧されていなくとも困難を覚えることがしばしばあるわけです。家族の中で自分だけが信仰者であるとか、学校や職場で信仰の友がいないとか、なかなか理解を得られないものです。その信仰の苦闘や悩みを主イエス様ご自身が味わわれたので、私たちを救うだけでなく深い同情によって憐れんでくださるのです。

 キリストが受けた苦しみ、受難と申しますと、真っ先に十字架刑やそこに至るまでの不当な裁判や鞭で打たれた場面を思い浮かべられることでしょう。使徒ペトロはその時の様子を「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました」(1ペトロ2:23)と証言しています。神の子としてご自分の権威をもって彼らに報復することなく、父なる神様が働かれる時を待たれたのです。こうしてキリストは私たちの罪人の贖いのために死にまで従われましたが、御父は三日目に死人のうちより御子をよみがえらせられたのです。
 主イエス様はその3年半といわれる公生涯を通して、御父が働かれる「時」というものを待つよう弟子たちに示されました。信仰とは神の時を待つことである、と福音書を通して私たちに示されています。

3.神の御心を行うこと(10-17節)
 さて、私たちは待つべき「時」の一つとして、「主のふたたび来たりたもうを待ち望む」と再臨の時を待つことを信仰として告白しています。では私たちの信仰とは、いつ来られるか分からない再臨の日まで、ただ時が過ぎゆくのを待っているだけのことなのでしょうか。どこかに隠れて、息をひそめて、頭を低くして、やり過ごすという生涯を送ればよいのでしょうか。
 イエス様は、「わたしの時」が来るまで逃げ隠れしていたわけではありません。エルサレムに上るまでは人目を避けておられましたが(10)、中日を過ぎて祭の勢いが落ち始めたころに主は神殿の境内で姿を現されたのです(14)。
 その教えに人々は驚きました。「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」(15)と。ユダヤの指導者らのもとで専門教育を受けていないのに、イエス様が堂々と聖書を解き明かしていたからです。福音書が書かれた時代においては、キリストの弟子たちもその反対者たちから同様の評価を受けていたことでしょう。ギリシャ・ローマの文化における所定の学問を修めていない人々が、ことばにも行いにも正しく立派であったからです。しもべの身分の者や蛮族と呼ばれる出生の者たちでさえも、つつましく穏やかで忍耐強いことは非常な驚きだったわけです。

 学問をしないといっても、全く聖書も読まずみことばも聞こうとしないというのでは困ります。しかしいくら聖書を学んで神様について知識だけたくさん詰め込んだとしても「御心を行おうとする者」とならなければ益とはならないのです。イエス様は「御心を行なおうとする者は、わたしの教えが神から出た者か、私が勝手に話しているのか、分かるはずである」(17)と説かれています。もちろん教えただけでなく、生涯を通じてご自身がまず御心を行われました。
 ここで主が示されているのは、定められた時が来るまで神の御心を行ない続けることだと言えましょう。ご再臨に限らずとも、主が定められたさまざまな時について、私たちはしばしば待たなければならない場面があるでしょう。主が働かれる「時」を私たちは期待しています。
 ただ待つばかりではなく、御心を行うことが私たちにはできるのです。コロナ禍で外出や集会に制限があったとしても、時が来るまで公の礼拝を守り、愛のわざに励むことができるのです。

<結び> 信仰による勝利
 信仰による勝利を得るためには、まず信仰がなければなりません。その信仰とは、鰯の頭を拝むような信心ではなく、創造主なる神様を知って、愛して、従うことです。
 神様を愛し、その御心を行うわけですから、神様が愛されている人々を私も同じ思いで愛することになります。神様に従うのですから、神様が「よし!」と仰るまでは「待て」の姿勢なのです。
 今は辛抱して待っているのですが、絶対にし損ねることがないご主人様がもっともよい時を見計らって、最善のことをなしてくださいます。今か今かと待ち望みつつ、待った分だけ勝利の喜びも大きくなると楽しみで仕方ありません。

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