「神からの真理」ヨハネによる福音書7章40-52節

2020年8月23日
担任教師 武石晃正

 先ほど教会学校の生徒さんから聞いたのですが、まだ8月の半ばというのに今年はもう夏休みが終わってしまったそうです。あまりにも短くて、気の毒なようで申し訳ないような思いがいたします。同時にコロナ禍の影響とは申しましても、日本の教育水準の高さに改めて驚きを覚えます。
 学生時代に教員を目指した中で、教育基本法というものに触れました。先日たまたま文科省のホームページを開いたところ、その前文に「個人の尊厳を重んじ、真理と正義を希求し、公共の精神を尊び」と掲げられているのを見つけました。また、第二条では教育の目標としてその一部に「真理を求める態度を養い」と定められています。この国は戦後の改正から70年余りもの年月をかけて、真理を求め続けてきたことになるわけです。
果たしてその真理とは何でしょうか、皆さんはどのような真理を学んでこられましたか。本日は日本国の教育ではなく、神の国の真理について聖書のことばから考えて参りましょう。


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1.真理とは
 真理とは何かと尋ねられて、すぐに答えられる方はおられますか。真理という語彙について、辞書などでその意味や定義を知ることはできるでしょう。パソコンやスマートフォンは便利ですから、ものの数秒で「いつどんなときにも変わることのない、正しい物事の筋道。真実の道理」(コトバンク「デジタル大辞林」『真理』 https://kotobank.jp/word/真理-82706)と調べることができます。
 しかし、これでは真理という単語について知ることはできても、真理そのものにたどり着くことはできないようです。実際のところ、もしこんなに手軽に真理というものにたどり着くことができるとすれば、人生で悩む人など誰一人いなくなるかもしれません。翻って、私たちの信仰という観点から迫ろうとしてみますと、日本基督教団信仰告白では旧新約聖書について「福音の真理を示し」と告白しています。聖書のことばが真理を示すと信じているのです。

 ここで聖書における「真理」について別な辞典を引いてみますと、「ギリシャ派の・・・第一義的な意味は、率直(公開性)である」とありました(「真理」『ウェスレアン神学辞典』、福音文書刊行会。1993)。正真正銘のもの、とでも言い換えられましょうか。また「ヘブル語では第一義的な概念は、支えているものである。真理は堅く立っていることを意味する」との解説もありました(同書)。果てなく高く大きく広がる天が落ちてくることがないように、また大地がたとえ揺るぐことがあろうとも崩れ去ることがないように、これらを創るだけでなく支えておられる神の御業を言い得ています。天地創造の神の知恵とも言えるでしょう。

 ヨハネによる福音書を読み進める中で鍵となることばの一つが「真理」です。冒頭である1章から、御子キリストについて「恵みと真理」と説かれています(1:17)。そして贖いのみわざの頂点である十字架に臨み、直前の裁きの場面においてポンテオ・ピラトがイエス様に一言尋ねます。「真理とは何ですか」(18:38)と。この問いに対する答えは記されておりませんが、読者の視線はローマの提督ピラトからみじめな姿のイエス・キリストへと向けられます。福音書は無言のうちに、イエス・キリストそこ神からの真理であると示しています。
 天地を創造し、それを支える神の知恵を真理であるとするならば、すべての真理は創造主なる神から出ているのです。この神の真理が人として世に来られました。真理は創造主であり、贖い主であるイエス・キリストの内にあるのです。この方によらなければ本当の意味での真理を受け入れることはできません。
 
2.真理を受け入れる人(ヨハネ7:40-52)
 恵みと真理についてヨハネによる福音書はイエス様の生涯を通して私たちに教えようとしています。イエス様と出会うさまざまな登場人物を示すことにより、読者に向かって「あなたは真理に対してどの立場を取りますか」と迫っています。福音書全体を通すことでより広く深く知ることができますが、この場では開かれている箇所に限って扱います。

 まずは群衆(40-44節)です。イエス様の言葉を聞いて「あの預言者だ」「メシアだ」と権威を認める立場と、理由をつけてそれを拒む立場です。イエス様が生まれた場所はベツレヘムの村でしたが(ルカ2:6)、そのことは知られていなかったようです。大工ヨセフの子としてガリラヤのナザレ出身と登録されていたせいかも知れません。この群衆は2分され対立してはいたのですが(43)、福音書はあくまでも一括りにしています。一方はイエス様を捕えようと思っても手をかけることをせず(44)、他方は権威を認めつつも信じて従おうとはしなかった人たちです。口ではいろいろと言うのですが、決断や決心をすることがありません。せっかく神からの真理に触れたのに、ただ通り過ぎてゆくだけです。
 次に祭司長たちやファリサイ派の人たち(45)です。彼らはユダヤ人の中で宗教指導者であり、ナザレのイエスに対して殺意を込めた敵意を抱いていました(7:1)。単に反目していただけではなく、実際にイエス様を捕えるように既に命令を下しています(7:32、45)。知行合一と申しましょうか、言ったからにはやり遂げようという徹底ぶりです。彼らは自分たちの正義感あるいは彼らの真実によって、神からの真理を受け入れず、抹殺することを決意しました。この世における既得権を守るために、神からの真理を拒む人たちです。

 続いては唯一その名が記されているニコデモです(50)。ここでは彼自身の立場はまだ明確にされていませんが、個人的にイエス様を訪ねたことがある人です(3:1-15)。彼なりにイエス・キリストを、つまり神からの真理を受け入れようと一生懸命に取り組んだようです。彼もまたファリサイ派の議員でしたから、律法やユダヤの掟をよく知っていました。ただ知っているだけでなく、まだ足りないなりにも神からの真理について、律法の規定つまり旧約聖書のことばによってとりなそうと行動に表しました。(51)。

 天地を創造された神様の真理は依然として据えられています。私たち人間がそれを知っていても知らなくとも、信じようと信じまいと、その真理が揺らくことはありません。神からの真理、イエス・キリストを通して世に現わされた恵みと真理に対して、私たちはどの立場を取りますか。見聞きするだけで受け流してしまうのでしょうか、何らかの事情や理由のために拒んでしまうのでしょうか。今すぐ全ては理解できずとも、この世のものではなく神からの真理を受け入れよと聖書は私たちに示しています。

3.神からの真理に生きた人
 最後にこのニコデモという方について思いめぐらせてみたいと思います。

 ヨハネによる福音書において固有名詞が挙げられている人物の登場は、単に事実関係だけでなく特定の意味が込められています。記された当時すでに諸教会に受け入れられていた伝承がありました。ニコデモの名は初期のユダヤ人教会の礎を築いた重鎮、今風に言えばレジェンドの一人として知れ渡っていたことでしょう。いわば「あのニコデモ先生が」と大人から子どもまで知っている名前です。
 しかしその偉大な先生も最初からすんなり弟子入りしたわけでなく、夜更けにコッソリとイエス様に会いに行ったのです。神からの真理をいかに受け止めようかと、人としておられるナザレのイエスを律法の書と照らして思い巡らせたことでしょう。信仰告白をしないまでも、次第にこの方を否むことができなくなりました。突き動かされる思いから、自分の立場を省みずに祭司長たちに反論するに至ったのです。

 この後、ニコデモは最も重要な役割を担うことになります。十字架の死を遂げられたイエス様の葬りに携わったのです(19:39)。この一行だけ読むと香料の類を持参しただけのようですが、実はここに彼の献身のすべてが結晶として示されています。ユダヤの律法では死体に触れた者は死のけがれをその身に負うので、きよめの期間を終えるまで聖なる祭りや聖なる食事から排除されます。その日は特別な安息日の前日だったとありますから(19:31)、この年はローマの暦における生活上の安息日とユダヤ暦による祭りの規定の安息日とがちょうど重なる年でした。ニコデモの年齢は不詳ですが、この年を逃すともう二度と巡ってこないかもしれないのです。しかもこれほど重要な年なのに、ファリサイ派の議員が祭りの期間に顔を出さないということはこの上ない不名誉です。祭りの期間に身を汚すという重大な違反は、ユダヤの議員にとって致命的です。彼は持てるすべてを投げうって、主イエス様の葬りに携わったのです。

 この方の死は自分の死であると、けがれをその身に負いました。この方がご自分の民から見捨てられたように、彼自身もまた聖なる民の特権を剥奪されることを選んだのです。父なる神はこの決心をよくご存じなので、あの12弟子たちでさえ携わることが許されなかった主の御からだの葬りをニコデモに委ねてくださったように思われます。
 人目を忍んで夜更けにこっそりとイエス様に会いに行ったようなニコデモです。初めは小さな一歩を恐る恐る踏み出したようなところがあります。しかしイエス・キリストの教えから離れることなくその道を求め続けた末に、彼は神からの真理をその身に負うことができました。そして彼にとって最も大切な時を神様が用いてくださいました。
 イエス・キリストにおいて現わされた恵みと真理を受けいれるなら、ニコデモと同じように私たちも相応しい時に用いていただけると信じます。

<結び> 神からの真理
 この世の教育によって真理をいくら求めたとしても、天地を創造された神様の真理にたどり着けるかは分かりません。しかし神様は私たちに聖書において証しをされつつ、主イエス・キリストとして恵みと真理を現わしてくださいました。

 このことをよく言い表している聖句を読んで、祈りましょう。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネによる福音書3:16)
 神からの真理とともに永遠の命を賜る主の恵み深さに感謝します。

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