FC2ブログ

「聖霊に従う生き方」ヨハネによる福音書8章3-11節

2020年8月30日
担任教師 武石晃正

 「キリスト教」ってなぁに?と幼い子どもに聞かれたとして、皆さんは何と答えますか。本当に小さなお子さんであればキリスト教という言葉自体も知らないかと思われますので、小学生や中学生としましょうか。
 辞書を引いてそこに示されている定義を告げることもできるでしょうけれど、それはあくまでも文字の上での意味に過ぎません。私たちが信じているキリスト教というものを言い当ててはいないかも知れません。正確ではなくとも自分の言葉で言い表すことはできますでしょうか。

 ある方は「イエス・キリストを神と信じ、その教えに従うこと」だと答えるかもしれませんし、別の方は「キリストという概念を中心に体系立てられた、聖書に基づく生き方を教えること」と考えるかもしれません。キリストを神と信じ心から愛するのか、聖書の言葉を格言としキリストを道徳的な理想像として掲げるのか、いずれも「キリスト教」の一面ではありますが受け止め方が随分と違うような気がいたします。
 同じ聖書の言葉を取り上げたとしても、それによって人を生かすも殺すも用い方ひとつにかかってくるわけです。「文字は殺しますが、霊は生かします」(第二コリント3:6)との使徒パウロの言葉を念頭に置きながら、ヨハネによる福音書を読み進めたいと思います。

PDF版はこちら
聖書朗読と説教は礼拝後にこちらへ公開します。
1.文字に従う生き方 
 新共同訳聖書ではヨハネによる福音書の7章53節から8章11節までを〔 〕(亀甲括弧)でくくられています。この部分は初期の写本には含まれていなかったと知られていますが、言い換えれば特別な必要があって神様がこの章句をも正典として教会にお与えになったと言えます。福音書がまとめられた時代において、多くの教会が共通して抱えていた緊急的な課題があったのだと考えられます。
 この箇所の内容から推察すると、聖書の言葉とくに旧約聖書の用い方によって教会が分裂の危機に瀕したり、せっかく悔い改めて救いの恵みに与った魂が裁かれて失われてしまったり、あるいはその両方ではないでしょうか。悲しいことにこれらの危機的な課題は当時の一過性のものではなく、いつの時代においてもどこの国においても共通して起こりうるのです。ですから“教会の拠るべき唯一の正典”として与えられたのだと言えましょう。

 さて福音書はイエス様がエルサレムの神殿で教えを説かれていたところへ、律法学者たちやファリサイ派の人たちが詰め寄ってきたことで状況が一変します(3)。この人たちは律法つまり旧約聖書の専門家であり、人々を指導したり相談を受けたりしていました。世間的にはいわゆる立派な人たちです。その彼らが連れてきたのはなんと姦通の現場で捕らえられたという女性です。周りの人たちはさぞびっくりしたことでしょう。
 彼らの訴えはこうです。「先生、この女は姦通しているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。あなたはどうお考えになりますか」(5)。申命記22:22-24について追及しているようですが、それにしても随分とずさんな申し立てに思えてなりません。今どきの若い者たちの言い回しを借りれば「ツッコミどころ満載」といったとろでしょうか。

 彼らが専門家だというのであれば、律法に明記されていることの解釈を赤の他人に委ねることなど到底考えられないことです。わかりきっていることなら自分たちで判断し、決断を下せばよいだけのことです。またこの女性を律法において汚れていると見なすなら、神殿の境内という神聖な場所に連れてくるべきではありません。むしろ律法では町の門に引き出して対応するように書かれています(申22:24)。お門違いも甚だしいのです。
 もし本当にこの女性が姦通の現場で押さえられたのだとしたら、相手の男性もその場にいたはずです。また律法では「男もその女も共に」「その二人を」取り除くように書かれていますから、この女性だけ捕えたのであれば片手落ちです。ましてや男性にまんまと逃げられたのであればなんと間抜けなことでしょう。しかもイエス様が神殿で教えておられたのは「朝早く」(2)とありますから、大の大人が雁首そろえて朝っぱらから一体何をやっているのかと呆れるばかり。姦通という事の次第もありますが、律法学者たちがあまりにもみっともないので子どもたちに聞かせられる話ではありません。

 彼らは真理を求めていたのではありません。書かれているように「イエスを試して、訴える口実を得るため」にこのようなことを企てたのです。神のことばを用いて誰かを陥れたり裁いたりしようとすること自体、その動機からしても見当違いなことです。アブラハムの子孫だ、神の民だと自負していていた民族でありましたが、父なる神の前において親の子心子知らずとは言いえて妙かと思われます。
 ところで私たち人間は生まれながらにして神を知ることはできず、自らが罪を負っていることも聖書によらなければ気づくことさえできません。そして罪はどんなものであっても、神の前では死を意味します。私たち自身も罪の性質をもって生まれ、罪を犯しえますが、同時にアダムにおいて全人類が罪に定められているからです。旧約の規定に照らして石で打ち殺されることがなかったとしても、どんなに立派に生きぬいたとしても、誰もが必ず死ぬのです。

 神様は律法や預言者を通して罪を示し、死に至るものであると警告されました。それは人間が罪に気づき、悔い改めて、神様のもとへと立ち返るためです。最初から滅ぼすつもりだったら律法も与えなかったことでしょう。文字ばかり追いかけてしまうと、主の恵み深さを味わい知ることを忘れてしまうのかもしれません。律法あるいは旧約に限らず新約を含めて「神の言(ことば)」である聖書を杓子定規に用いるならば、それは文字に従う生き方であり、他者をも自身をも生かす力にはならないのです。

2.聖霊に従う生き方
 もう一方である聖霊に従う生き方について考えて参りましょう。
律法学者たちに対してイエス様はどうしたのかと申しますと、「かがみこみ、指で地面に何か書き始められ」ました(6)。何を書かれていたのかは記されておりませんが、彼らと正面から対峙することを避けられたのかも知れません。けれども彼らはその指先を見たときに、大切なことを思い出すべきでした。律法はモーセが定めたのではなく、神様がモーセに与えたものだったということです。そして2枚の掟の板は神の指で記されたものでした(出31:18、34:1)。指先で文字を書かれている神の子の姿に、読者も改めてキリストが聖霊によって来られた神すなわち律法の付与者であることを気づかされるのです。

 さて、モーセに律法を与えられた方は、「彼らがしつこく問い続けるので」身を起こされました(7)。この時、非難のことばの礫(つぶて)はすべてイエス様に向けられており、あの捕らえられてきた女性のことなど既に誰も気にかけていなかったようです。主は矛先を一身にお受けになったところで、ようやく口を開かれました。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
 キリストは道徳論や美徳を示すために世に来られたのではないのです。まずは肉体における弱さや誘惑を十分に味わわれ、私たちに心底からの同情を示してくださいます(ヘブライ4:15)。そればかりか、みことばが御心にそぐわない用いられ方をされ、傷つけられる人々のことを自らがかばってその責めを受けてくださったのです。
もしかすると私たちは聖書のことばを用いて誰かを責めてしまうことがあるかもしれません。その誰かとは自分自身であるかもしれません。それが他者にであれご自分にであれ、責めをぶつける手前でイエス様がかがんでおられることを見出せるなら幸いです。少なくとも一人また一人と立ち去ったユダヤ人たちと同じ程度には気づくことができたからです。

 主は最後に一言、連れてこられた女性に勧告しています。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」(11)と。律法の制定者は、この女性に罪があることを見過ごされたのではありません。罪は罪として明らかにしつつも、裁くことなく、悔い改め立ち返るように導かれました。
 聖書の言葉を書き文字通りに一元的に解釈すると人を裁くことになります。そこには人の知恵ではなく神の霊感、聖霊による助けが必要です。御子キリストは「聖霊によりてやどり」この世にお生まれになられたのです。では何のために主はこの世に来られたのでしょう。信仰告白では「我ら罪人の救ひのために人と成り」と謳っていますが、福音書にも主ご自身の証言としてはっきりと記されていることばがあります。それは「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マルコ2:17)、また「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」(ルカ19:10)ということです。ただ単にことばを授けて、命じて、従わせるだけの冷たく硬い神様ではないのです。招いて、そこにいなければ捜し出して、救ってくださる慈しみと恵みに満ちた方なのです。

 聖霊によってやどられた方の生き方、それを受け継ぐことが聖霊に従う生き方だと言えましょう。本日の章句はこのことを特に強く覚えさせられる箇所の一つです。そして聖霊はこのことが神からの真理であると教会に示し、教会は「拠るべき唯一の正典」また「信仰と生活との誤りなき規範」としてこの箇所を受け入れているのです。

<結び> 
 最後に霊想書の短文から短く紹介して結びます。
 「自分が持っていないものを人に差し出すことなんてできないわ」「神様は私を責めておられるだろうか?神様は私に対して無慈悲で過ちを赦さない方だろうか?」(『アパルーム』No.418、p.69)

 まず大切なのは私たち自身が主から罪の赦しを受け、確信していることです。書き文字で示される義務的なものではなく、全き愛による神様からの完全な赦しです。私たちが主からの愛を十分に受け取り、赦しときよめの恵みに浴しているなら、自分自身をも他の誰をも裁くことはありません。
 聖霊に従う生き方は、私たちを罪の支配からも誰かを裁くことからも自由にします。

 「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」

コンテンツ

お知らせ