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「神に属する者」ヨハネによる福音書8章37-47節

2020年9月13日
担任教師 武石晃正

 教会に通い始めて数年が経ち、高校生になってから洗礼を受けました。今から30年ほど前のことです。周りの友だちはもっていない何か特別なご褒美のようなものを神様からいただいたようで、とても嬉しかったことを覚えています。また教会の大人の人たちからも「よく決心したね」「おめでとう」と褒められたり祝っていただいたりしましたので、どこか誇らしい気持ちにもなりました。

 残念なことに、その喜びと希望だけの高揚感は長くは続きませんでした。クリスチャンとして正しくきよい生き方をしたいという思いはあるのですが、若さやわがままさのゆえにそれが一向に叶わないという現実が目の前にありました。この隔たりがあまりにも大きいので、本当に自分は救われているのか、神の子としていただいたのだろうかという不安感がいつも伴っていました。
 その不安感を覆い隠すように、日曜日はたとえ模擬試験などがあったとしても、礼拝には休まず出席しました。その一方で、救われているのだから何をやっても神様は赦してくださるはずだ、と平日には羽目を外すことが多々あった学生生活を送っていたことを思い出します。なんと不安定でアンバランスな信仰生活だったことでしょう。

 自分自身の力ではどうすることもできない罪の問題があるので、イエス様がわざわざ十字架にかかって私を救ってくださったのです。本来であれば救いの恵みをいただいて、きよめの恵みに与ることで、キリスト者の完全と呼ばれる全ききよめを体験できたはずなのです。そのことを十分に理解できず、自力で立派にやろうとしたために、随分と遠回りをしてしまいました。なんとももったいないことをしたものです。
 このような勘違い、思い違いをしていたのは私だけではなかったようです。実は新約聖書が書かれた時代から既に起こっていたことなのです。神様はこのようは思い違いをする者が絶えないことをご存じで、あらかじめ福音書の中で取り扱ってくださいました。

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聖書朗読と説教は礼拝後にこちらへ公開します。
1.神に属していない者
 説教の題を「神に属する者」と掲げましたが、これはヨハネによる福音書8章47節から取りました。「神に属する者は神の言葉を聞く。あなたたちが聞かないのは神に属していないからである。」とのイエス様のお言葉です。神の属する者とそうでない者とが分けられていますが、ここでは神に属していないからといって全くの異邦人や未信者のことだけを指しているのではありません。よく読んでみますとイエス様が相手にされているのは当時のユダヤ人、「聖書において証しせらるる唯一の神」を信奉している契約の民だとわかります。

 ヨハネによる福音書は他の福音書よりかなり後代に記されましたので、単にこのような議論をイエス様がユダヤ人を相手に行われたという事実だけを示しているわけではありません。むしろ書かれた時代の教会あるいはキリスト教世界における特定の立場の人たちを、登場するユダヤ人の姿に重ねて描いていると言えましょう。「アブラハムの子孫だ、契約の民だと主張しているあなたがたユダヤ人は、本当に神に属していると言えますか?」とイエス様がお尋ねになっているわけです。この問いを福音書の記者は読み手である教会の人々に投げかけているのです。「あなたがたは洗礼を受けてクリスチャンになり、神の子とされた身分にあるけれど、本当に神に属している者ですか?」と。いささか耳が痛い話です。
 「わたしの言っていることが、なぜ分からないのか。それは、わたしの言っている言葉を聞くことができないからだ」(43)などと正面から突き付けられたら、返す言葉もありません。ですが心配しないでください。もしここで耳が痛い、心が痛いと感じておられるなら、あなたはイエス様の言葉を聞いているのですから大丈夫です。そして福音書は誰かを裁くことではなく、赦すことを神のわざであるとしているからです。

 既に聖書箇所をお読みしておりますので逐一は挙げませんが、ユダヤ人たちへ向けられたイエス様のお言葉はとても厳しいものです。「悪魔である」「人殺し」「偽り者」などと他人に向けて口にすることなど憚られるものです。ここまで言わなければならないほどの問題が当時のユダヤ人たちの中にあったばかりでなく、福音書が書かれた時代の教会にも切迫したものとして存在したということです。
 繰り返しになりますが、神に属さないということが全くの未信者だけを指しているものではありません。この箇所ではアブラハムの子孫であるユダヤ人、あるいは洗礼を受けたクリスチャンを対象にして言われているのです。「わたしの言葉を受け入れない」(37)「わたしの言葉を聞くことができない」(43)「わたしを信じない」(45,46)と言葉が重ねられています。クリスチャンなのにみことばを聞かないのでしょうか、イエス様を信じていないのでしょうか。

 当時のユダヤ人たちは律法や掟を大切にするあまり、立派な行いによって自らを義としていました。クリスチャンも律法主義的に陥ってしまったり、行動主義的に偏ったりという恐れがあると言えましょう。みことばに聞くのではなく、みことばを振りかざして他人や自分をさばいてしまうこともあり得ます。かつての私のように自分の力で信仰生活を維持しようとすれば、イエス様にすがるということを忘れてしまいます。これではイエス様を信頼していない、つまり信じていないのとほとんど同じことになってしまいます。
 神に属していないと言れるとドキッとしますが、みことばを心で聞けなくなっていませんか、自分の力で頑張ってしまっていませんか、と立ち止まって振り返るのもよいかもしれませんね。

2.神に属する者
 では神に属する者とはどのような者でしょうか。「神に属する者は神の言葉を聞く」(43)と示されていますからその通りなのですが、聞くだけでよいと思われますか?

 神に属していない者と神に属する者とを見比べるとき、大きな違いは拠りどころをどこに見出しているかという点にあるかと思われます。それは過去に置くか未来に置くかという違いです。決して過去をないがしろにしてよいということを述べるわけではありませんが、神に属していないと言われている人たちは過去に執着するところに陥るようです。
 アブラハムはもちろん偉大な信仰者であり、神様から祝福の契約をいただいた方です。彼から始まる系図(マタイ1章)あるいはその血筋というものもそれ自体が悪いものではありません。正しい行いを熱心に追求することも大変な努力でしょうし、立派なことだと思います。しかしこれらはすべて過去であり、地上における物事です。これらに重きを置くということは、その人の心を神様にではなく人の営みの中におくことになります。

 主は別の場面で「尽きることのない富を天に積みなさい」「あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ」(ルカ12:33,34)と言われています。言葉で言うだけであれば簡単ですが、まだ見たことのない天に富を積むとは非常に難しいことです。この世における権利や富を手放して天に積むことだからです。使徒パウロの言葉を用いれば「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る」(1コリント13:13)ということに通じるでしょうか。これらの3つはすべて先に向かうものであり、天に掛かっています。
 いまだに見たことがないので、御声を聞かなければ進むことができません。進んでいる道が正しいかどうかは、誰も判断することができません。誰も天に行ったことも、神様を見たことがないからです。だから福音書は次のように証しています。「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」と。ですから神に属する者は、あるいは神に属しようとする者は、この独り子である神イエス・キリストの言葉を聞くのです。

 ところで以前にお世話になった心理学を専門とする方から聞いたことなのですが、「他人と過去は変えられない。自分と未来は変えられる」という言い方があるそうです。対人関係や自分自身と向き合うときによく用いられる表現なのですが、神様との関係にも通じるように思われます。過去が変えられないのであるならば不動のものとして存在し、ある人にとってはこれほど確実なものはないわけです。更に自らの行いも実績という「過去」として積み上げることができるでしょう。
 その過去というものを持ち出されたら話がそこで終わってしまい、対話の糸口が見えなくなります。それほど確かなものであるとすれば、神様に頼らなくても生きていけるのかもしれません。事実この世の多くの人たちが真の神様を知らず、頼ろうともせずに生きていることです。けれどもこのような生き方は、変えることができない他人を排除しようとするのでしょう。主が「わたしを殺そうとしている」と言われた言葉が、まさにその通りです。ある個所では「神の子を自分の手で改めて十字架につけ」るとも言われています(ヘブライ6:6)。これは神に属さない生き方です。

 未来を変えるということまではないとしても、行く先を主に明け渡すということはできるでしょう。目指すところは天であり、そこに神がおられるからです。行ったことがないところを目指すので、この方から教えていただかなければ進めないというわけです。行く先を明け渡すということは人生を神様に委ねることです。無理に自分を変えようとせずとも、ご聖霊の満たしを受けて導かれるならどれほど幸せなことでしょう。過去に縛られていた自分が神の恵みに委ねる生き方へと変えられていきます。
 過去に捕らわれ他人を裁く生き方から、未来も希望も天に置く生き方へと変えていただけるのです。それが神の言葉を聞く「神に属する者」の特権です。

<結び> 
 信仰とは、自分の力やこれまでの功績がより立派であるようにと神様からの栄誉を上乗せするためのものでしょうか。
 「力を捨てよ、知れ わたしは神」(詩編46:11)と主は国々の民へ呼ばわります。この手に握りこんでしまっている過去(それが良いものでも悪いものでも)へのこだわりを捨て、いつも先にある天の栄光を目当てに歩みましょう。
 私たちは聖霊によって神から生まれた、みことばを聞いて生きる、神に属する者です。

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