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「魂の牧者」ヨハネによる福音書10章1-6節

2020年9月20日
担任教師 武石晃正

 「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」(詩23:1)
 聖書の中で最も愛され、最も多くの人々を励ました箇所の一つではないでしょうか。翻訳や理解の違いはあるとしても、キリスト教会ばかりでなくユダヤ教の人々も同じ詩編を持っています。信者さんでなくとも、ポストカードに添えられていたり、映画などの劇中で引用されたりと、何かの折に触れたことがあるという方も少なくないかもしれません。
 本日は詩編23編ではなくヨハネによる福音書より、「魂の牧者」とは私たちにとってどのような存在であるのかをご一緒に考えてまいりましょう。

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聖書朗読と説教は礼拝後にこちらへ公開します。


1.羊の囲いと羊
 新共同訳聖書では10章のはじめに「羊の囲い」のたとえという小見出しがついております。そこには羊飼いばかりでなく羊の群れがおり、時には盗人や強盗もやってくるというのです。囲いですから出入りするための門があり、羊飼いと羊はその門を通ります。

 日本では牧羊というものを間近で見る機会は少ないかもしれませんが、当時のユダヤの人たちにとっては比較的身近なものだったようです。とは言えパレスチナの風土ですので、日本の放牧場のように柔らかな緑の牧草が生い茂るような場所ではなく、羊たちは乾いた大地で枯れた草のようなものを食べるのだと聞いたことがあります。ガリラヤ湖畔は比較的なだらかで豊かな土地だそうですが、ユダヤ地方は気候も起伏も非常に険しい土地柄だと言われています。

 限られた植物を羊に食べさせますから、羊飼いは群れを率いて土地土地を巡って遊牧します。家畜小屋を背負って歩くわけにはまいりませんので、行く先々で野宿をします。岩肌の裂け目のような谷間や窪地に羊の群れを集め、その入り口に羊飼いが横たわります。切り立った岩肌や崖が囲いであり、羊飼い自身が門になるのです。「わたしは羊の門である」(7)とイエス様が仰るのはこのような情景です。ですからイエス様が「わたしは門である」と言われることと「わたしは良い羊飼いである」(11)と仰ることとは矛盾がありません。囲いの入り口に身を挺して門となり、命を懸けて羊を守る良い羊飼いなのです。

 羊という動物はなかなか個性的な生き物だそうです。目があまりよくないため、誰かについて歩かないと道に迷います。羊飼いについていく羊に別な羊がついていき、それを追ってゾロゾロと群れて移動します。耳はよく聞こえるようですが、草をはむのに夢中になると羊飼いの声を聞き逃してしまうこともあるようです。羊飼いによく世話をしてもらっていると、自分が主人や王様で羊飼いを召使であるかのように思い込むのだとか。実際に獣がやってくると身がすくんで動けなくなるのに、何事もないときは自分がライオンのように強いと思って威張っているそうです。

 これも受け売りなのですが、自分ひとりで生きていける、と草をムシャムシャはみながら群れから離れてしまう羊も実際にいるそうです。はたと立ち止まったとき周りに仲間の姿は見えず、足がすくんで動けない、羊飼いの声は聞こえてもどちらに向かえばよいのかわからないということになるそうです。人間の姿、いや私のことを言いあてられているようで気恥ずかしいようは不思議な思いがいたします。
 
2.門を通らない者
 さて朗読しました箇所には二つの立場の人が挙げられています。「門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者」と「門から入る者」です。先に門を通らない者について考えてまいります。
 門を通らない者は「盗人であり、強盗である」(1)と言われています。羊の囲いが遊牧先であるならば、人里離れたところにあります。通りがかりの出来心では済みません。ずっと付け狙っているその筋の手合いです。1匹2匹を連れて行こうというのではありません。囲いの中を混乱させ、群れを散らしてまとめて掠め奪おうというのです。

 ところでヨハネによる福音書はイエス様がたとえ話をされたという事実を記録しているだけでなく、この出来事をもって書かれた当時の教会に起こっている問題を取り扱おうとしています。「ファリサイ派の人々」(6)がイスラエルの中で行っていることを、教会の中で行っている人たちがいたということです。そしてこれを正典として受け入れるよう聖霊が働いていますから、今も後も地上に教会が続く限りいつでも起こりうることなのです。
 前回8章より「神に属する者」について読みました。「神に属する者は神の言葉を聞く」(8:46)と示されています。今日の箇所では「羊はその声を聞き分ける」(10:3)とありますので、羊と神に属する者は同じものを指しています。つまり教会です。

 取り扱いませんでしたが9章では生まれつき目の見えない人がイエス様に癒していただいたことが書かれています。この時代のイスラエルでは目が見えないことは親や先祖の罪の現れだと考えられていました。ですから目が開かれて見えるようになったことは、罪の呪いから解放されたことを意味します。癒された人はもはや罪の支配にはなく、本来であれば神の民として非常に喜ばしいことなのです。しかしファリサイ派の人々は彼を追放しました。
 神の恵みによって罪から解放されたという事実を目の当たりにしても、その恵みをファリサイ派の人たちは受け入れませんでした。彼らはこの癒された男を罪から解かれた者として受け入れず、なんと会堂つまり神の民としての交わりから「外に追い出した」(9:34)のです。同様の出来事が初期の教会の中にしばしば起こっていたことが伺えます。

 教会の中で誰かを罪に定めてしまい、その回復の機会を得られずに追放されてしまうということが起こりました。私もまだ信徒だったころに1度ならず居合わせたことがあり、そのことを思うと今でも悲しく心が痛みます。罪の赦しは恵みですから、主が働かれる時を待って受け取ればよかったのです。
 話が逸れてしまいました。福音書は、神に属する者(8章)の交わりにおける分裂や追放(9章)という問題を取り上げたうえで、羊飼いとなるように読者を羊の囲い(10章)へと誘います。門から入る者つまりイエス・キリストの門から入る者は羊飼いと呼ばれます。同じ囲いに入るにも、門を通らずに入る者とならないようにと戒められています。私たちはこれからも門から入る者でありましょう。
 
3.門から入る者
 では他方の「門から入る者」について考えてみましょう。「門から入る者が羊飼いである」(2)と言われているように、このような者が羊飼いと呼ばれています。羊飼いが一人だけとは限りません。むしろ牧童と呼ばれるような羊の世話をする者たちは何人もおりましょう。あるいは一つの囲いの中にいくつかのグループの群がかくまわれているのかもしれません。この箇所はあくまでもたとえですから、羊飼いの営みを厳密に言い当てているわけではありません。羊飼いのように見えても羊がついて行くか、逃げ去るか明らかであると言われています。

 聖書において羊飼いという言葉は、冒頭で紹介しました詩編23編のように主なる神様を指す場合が少なくありません。同時にモーセやダビデのように実際の羊飼いを指すこともあります。古代メソポタミアでは王の称号として羊飼いの語を用いた例もあるようですから、聖書が書かれた時代と地域において羊飼いという言葉はかなり広い意味での指導者や世話役を指すものでした。
 もちろんイエス様ご自身が「わたしは良い羊飼いである」(11)と仰っていますから、羊飼いがイエス様を指す語であるには違いありません。しかしここでは「わたしは門である」(9)とも言われていますので、イエス様はの出入口を守っている「門番」(3)の羊飼いなのです。つまり門番の赦しを得て羊の囲いに出入りできる、羊を連れ出す羊飼いが別にいることになります。

 羊の囲いを神の民あるいは教会であるとするならば、その羊を連れ出し先頭に立って行く者は「牧者、教師」(エフェ4:11)と呼ばれる者のことでしょう。ですから講壇に立つ者は、まず自らが「神の言葉を聞く者」であることが求められます。利己心や名誉欲などからではなく、門番であるキリストより出入りする赦しをいただきます。年数を重ねてもこの心がけを忘れずにお仕えし続けようと思います。
 ところで聖書は教師のためだけに書かれたものではありません。特にこの福音書は羊を飼うという主題を一貫して読者へと投げかけています。復活後のイエス様がシモン・ペトロに3度語り掛けられたことを覚えておられますか。主はペトロに「わたしの子羊を飼いなさい」「わたしの羊の世話をしなさい」「わたしの羊を飼いなさい」(21:15-17)と懇ろに語られました。当時の教会はもっぱら長老たちが群れのお世話をしていましたから、この羊を飼うという役割は長老たちが念頭に置かれていたことでしょう。とはいえ「わたしに従いなさい」(19)と結ばれていますので、立場の有無に関わらず主に従うすべての者たちへ委ねられた働きであることが分かります。

 このように福音書は羊の囲いのたとえを通して羊の囲いに門から入る者、羊飼いについて教えています。私たちはここから3つの羊飼い像を読み取ることができます。まずは指導的立場にある牧師あるいは教師、次いで教会の世話にあたる教会役員、そしてキリストの門から入るすべての人です。神の言葉を聞いて神に属するすべての人に、魂を養う役目が与えられています。

<結び> 
 魂の牧者とは、まず詩編に謳われているように主なる神様であり、人として世に来られたのが主キリストです。今やキリストのからだである教会に主の権威のいっさいが委ねられています。つまり教会そのものが魂の牧者です。
 からだはいくつもの部分から成っていますので、結びあわされている一人ひとりが「魂の牧者」の役割の一部を互いに担い合っています。それは神の言葉を聞いて主に養われる者が、自分自身を労いながら自分自身のように隣人を愛する営みです。
 神様がわたしを愛されるように、わたしがわたし自身を愛します。そしてわたし自身を愛するように隣人を愛します。イエス様には到底及びませんが、このようにして私たちも魂の牧者となれるのです。

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