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「天国に市民権をもつ者」ヨハネによる福音書17章13-26節

2020年10月18日
担任教師 武石晃正

 過ぎる10/11の聖日の午後には担任教師就任式を執り行っていただきまして、祈りによるお支えとご出席をありがとうございました。関東教区総会議長である福島純雄先生が筑波学園教会からの遠路を駆けつけて司式をしてくださいました。また、備えにあたってご指導くださいました主任担任教師の横山基生先生、ご祝辞を賜りました栃木地区委員長の木村太郎先生、式の準備のために何日も前から尽力くださいました教会役員の皆様、当日も細かなところまでお力添えいただいたお一人お一人に、この場をお借りして心から御礼申し上げます。
 宇都宮上町教会へ赴いて半年を歩ませていただきました。お式辞とご祝辞をいただいて、改めてここから一歩を踏み出そうという思いを抱きました。ウィズコロナという難しい状況ではありますが、目の前の困難に目を止めるのではなく、その背後で働かれる主のみわざを覚えてお仕えしていきたいと願っております。

 さて本日はヨハネによる福音書17章より「天国に市民権をもつ者」と題して取り次がせていただきます。教会が、そして信仰者ひとりひとりがとても困難な時代に記された福音書です。世にあっても神の民としてあり続ける秘訣を探って参りましょう。

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聖書朗読と説教は礼拝後にこちらへ公開します。
1.神に属する者
 9月には8章から「神に属する者」と題してお話をいたしました(2020年9月13日礼拝説教)。その箇所に限ったことではありませんが、ヨハネによる福音書は読者に対して「あなたは神に属する者であるか、否か」と問いかけています。どちらを選ぶかという二者択一ではありません。せっかくいただいたキリストの救いという恵みからこぼれ出てしまわないようにと喚起しているようです。
 繰り返しになりますが、福音書が記された時代の教会は迫害という外側からの困難と、異端化という内側の問題に直面していました。主の弟子の一人シモン・ペトロが嵐の湖で主の招きに従って水の上に足を踏み出したという出来事をご存じでしょうか。彼は強風という外圧でよろめいたのではなく、恐れて信仰が揺らいだので湖に沈みそうになりました。外からの妨げと内なる弱さという点では、相通じるように思われます。

 さて、福音書は前回(10/4)お読みした10章後半よりキリストの受難受苦が色濃くなって参ります。朗読しました17章に入る前に、取り上げることができませんでした11章以降について少しだけ触れさせていただきます。11章では主が特に親しくされていたラザロという人物の死に際して、主ご自身もまた肉体の死に直面されます。死者をよみがえらせた奇跡についての単なる記録ではなく、近しい者との死別という哀悼の念を神の子が身をもって涙を流して味わってくださったことの証しでもあります。そのことを覚えた上で「この病気は死で終わる者ではない」(11:4)とのお言葉は、のちの時代に生きる者たちにとってもどれほど大きな慰めとなりましょうか。
 そして12章は「過越祭の六日前」(12:1)すなわち受難週を迎えます。実に21章ある福音書は章の数にしてその大半を十字架にかかられる直前の1週間のために割いています。ユダヤの最高法院におけるイエス逮捕の決定(11:45-57)に次いで、「葬りの日のために」(12:7)ナルドの香油が注がれます。刻一刻と死の備えが進められる一方、イエスはろばの子に乗りユダヤ人の王としてエルサレムへと上られました(12:12-19)。この出来事はユダヤ指導者層とナザレのイエスとの間の相容れない決裂を意味します。

 この先は17章まで小さな出来事と関連付けられながら、イエス様の祈りや短い説教が綴られます。今日この場では一つ一つ全てを取り上げるわけに参りませんが、人として肉体をもって世に来られた神の子が、その身をもって示された教えです。神の子である者が人として地上を生きるとはどのようなことなのかを、直接の弟子たちに「言って聞かせて、やって見せ」られたのです。
 17章は御子によるとりなしの祈りです。いよいよ御父のみわざを成し遂げて御位に就こうとされるときに、弟子たちを世に残して遣わす祈りです。御父のみわざが御子の手から弟子たちに委ねられていきます。弟子たちは福音を宣べ伝え、教会を建て上げ、主のみからだとしてそのわざを受け継ぎました。ですから主は直接の弟子たちばかりでなく「彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにも」(20)とりなしの祈りをされました。

 この祈りはイエス様が「天を仰いで」(7:1)なさいましたが、今は恵みの座にあって御父の前でとりなされています。「わたしが世に属していないように、彼らも世に属していない」(16)と言われます。御子が肉体をとりながらも神の子として生きられたように、この方を信じて神の子となる資格を与えられた者(1:12)も神に属する者として生きるのです。

2.天国に市民権をもつ者
 ところで説教題に掲げました市民権ということばですが、日常生活で用いることはほとんどないでしょう。福音書が書かれた時代はローマ帝国が地中海の東のほうを中心に植民政策を展開していました。この時代に生きていたわけではないので具体的に詳しいことまでは存じませんが、支配者であるローマ市民権を有する者とそうでない者と間には処遇に天と地ほども隔たりがありました。皇帝を神と崇めていましたから、ローマ帝国はあたかも神の国であるかのごとく振舞っていたのです。

 この福音書より少し前の時代に書かれたパウロの書簡に次のようなくだりがあります。「しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています」(フィリピ3:20)。新共同訳でお読みしましたが、以前の口語訳聖書では「わたしたちの国籍は天にある」(口語訳)と訳されています。
 英語の聖書では citizenship (NKJB, NIV, NASB) 市民権という単語が用いられています。翻訳される元のことばを調べてみますと「市民権がある場所」(poli,teuma)という語なので、「わたしたちの市民権がある場所は天にある」と少々しつこい直訳になります。福音書の時代にローマ市民権を有する人が植民地へ出向いて「俺はローマ市民だ」と大手を振って歩くのとは様子が違うようです。

 天国に帰れば市民権が有効です、この世では権利がありません、という実態を示しています。権利をもっていないこの世のことに心を奪われるべきではないとパウロは述べているのです。この世の国と天国は国交がありませんから、私たちがパスポートとビザをもって外国を訪れるようにはいきません。ある意味では敵国に潜伏しているような状態です。
 それなら市民権があって安全なところへいち早く帰りたいと思うのが人情です。しかしイエス様が御父に求めておられるのは、私たちをこの世から取り去って天国へと帰国させることではありません(15)。ご自身が神としての在り方を捨てて世に来られたように、今度はわたしたちを世に遣わされます(18)。

 天国に市民権を持つ者を、主は御心のままにお用いになるのです。

3.一つとされること
 生まれ育ちも見た目もこの世に属する者でありながら、市民権あるいは国籍を天国にもっているのですから、ただ生きているだけでは埋もれてしまいます。神に敵対する力の支配に置かれているのですから、単に埋もれるのではなく、敵地のただ中にいるのと同じです。羊が群れの中にいるうちはよいのですが、はぐれてしまうと帰り道が分からなくなるばかりでなく、外敵から襲われる危険性が非常に高くなるものです。

 イエス様は弟子たちのために「真理によって、彼らを聖なる者としてください」(17)と祈られます。聖なる者と言いますと何か浮世離れした崇高そうな人を思い描く方もおられるかもしれませんが、聖書では神様の御用のために備えられていることを聖と言います。「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である」(レビ19:2)と書かれています。
 神様のご性質にあずかることと言い換えることもできるでしょう。御父と御子との関係と同じくされることです。「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください」(21)と祈られています。一心同体、切っても切れない関係が主とわたしたちとの間にも結ばれています。

 私たちの信仰の強さ弱さや、創意工夫などによって一つになるのではありません。もしそのような類のものであれば、主は弟子たちに「あなたがたは一つになりなさい」と命じられたことでしょう。生い立ちも世代も職業もみんな違っていても、わたしたちもまた主のみこころをわが心として「一つにしてください」と祈り求めることができます。
 ヨハネによる福音書が書かれた時代に限らず、主の教会はどの時代にあっても様々な困難に直面してきました。ある時は弾圧や迫害、ある時は疫病の流行、またある時は内部での争いや分派などです。その都度、代々の聖徒たちは祈りの中で一つにしてくださいと求めました。聖なる教会、一つなる教会として覚えられるようになりました。

 神様はおひとりですから天国も一つです。帰るところも一つです。わたしたちが一つとされることで、天国に市民権を持つ者であると世に明らかになるでしょう。

<結び> 
 天国に市民権を持つ者はいつの時代もこの世にあってさまざまな困難に直面しています。御子ご自身も悩み苦しみについて身をもって味わわれました。
そのうえで主は次のように祈られました。

正しい父よ、世はあなたを知りませんが、わたしはあなたを知っており、この人々はあなたがわたしを遣わされたことを知っています。(25)
 わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです。(26)
 
 わたしたちもまた天国に市民権を持つ者として、御子と御父の豊かな愛の内にこの世へと遣わされています。

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