「天の父の前で」マタイによる福音書10章28-33節
2020年10月25日
担任教師 武石晃正
今週から教会暦の週の数え方が変わり、本日は降誕節前第9主日となります。聖書の箇所もヨハネによる福音書から移りまして、降誕節までの礼拝ではマタイよる福音書を中心に天の御国とイエス・キリストについて読み進めて参りましょう。
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聖書朗読と説教は礼拝後にこちらへ公開します。
担任教師 武石晃正
今週から教会暦の週の数え方が変わり、本日は降誕節前第9主日となります。聖書の箇所もヨハネによる福音書から移りまして、降誕節までの礼拝ではマタイよる福音書を中心に天の御国とイエス・キリストについて読み進めて参りましょう。
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1.イスラエルの王として来られた方
ヨハネによる福音書では主イエス様において現わされる御父の御愛とその御業について、特に「だれにもできなかった業」罪の赦しのみわざが印象的でした。神の御子のご性質のうち、愛に重きを置いて記されています。主の昇天から半世紀以上が経ち、実際にイエス様と出会うことができた世代が地上からいなくなろうという年代に記されました。初めの愛から離れることがないようにと、教会とキリストを信じるすべての人々への励ましです。
一方でマタイによる福音書はそれより早く、紀元70年のエルサレム陥落を境に諸説に見解が分かれています。初期の福音宣教、初代教会の中で口伝えによって広まったイエス・キリストについての証しが後の世代へと文書として取りまとめられる必要がありました。ユダヤ人である弟子が記していますので、預言者たちを通して約束されたイスラエルの王としてキリストを捉えています。
この福音書では天の国とその支配、王であるイエス・キリストが一つの主題となっています。天の国とはユダヤ的な言い回しです。彼らは創造主なる方を名指しで呼ぶことは決してありませんので、天におられる方などと呼びました。ですから、天の国とはそのまま神の国と言い換えることができます。神の支配が及ぶ領域(場所、人、物)を指します。
福音書の舞台となっている1世紀初めのパレスチナ地方はローマ帝国の支配下にありました。当時のローマ帝国は皇帝を神と奉っており、あたかも神の国であるかのごとく地中海世界を広く支配していました。それぞれの地方には地域を治めるために総督がおかれ、ユダヤの場合は王が任じられていました。普く統べ治める帝国の支配と、そこから遣わされて具体的に地域を治める提督あるいは王という構造です。王と呼ばれる者であっても、帝国の支配の下にあり、皇帝の意向に従って国を治めなければなりません。
ユダヤの国はかつてバビロン捕囚に遭い、その後もメド・ペルシャやギリシャという大国の影響下に置かれていました。そして福音書の時代には強大なローマ帝国が一帯を征服しています。これらの権威に替わって、天地を創り主である全能者が支配することを人々は何百年もの間ずっと待ち望んでいました。そしてその支配が地にもたらされるために遣わされる王を、メシアあるいは救い主として求めていたのです。
マタイによる福音書はナザレのイエスを来たるべきイスラエルの王として示すため、「アブラハムの子ダビデの子」と呼んでいます(1:1)。天の国とは空の上の遠いところにあるのではなく、その支配は被造物世界全体に及びます。見える姿で御父のもとから遣わされ、天の国の支配つまりルールを布告されたのがイエス・キリストです。イスラエルの王として来られた方が、エルサレムで全世界の救い主となられました。
2.恐れてはならない
本日の朗読はマタイによる福音書10章28節以下ですが、26節から31節の短い章句の中に「恐れるな」という命令が3度繰り返されています。この福音書の主題が天の国や神の支配であるということを念頭において読むとき、「恐れるな」という命令が単に感情の揺れ動きのことだけを指しているわけではないことに気づくでしょう。
また旧約聖書では神様がご自分の民に特別なことを示されるとき「恐れるな」と語りかけられます。イエス様はご自身を神の子であると示すためにしばしば弟子たちに「恐れるな」と呼びかけられます。この箇所でも権威ある方としてお語りになっています。
28節の「体は殺しても、魂を滅ぼすこのできない者どもを恐れるな」とは、先に16節以下で予告されている迫害に際しての命令です。暴君と言われるネロの治世下におけるキリスト教徒への残虐な迫害については、キリスト教にあまり関心がない方でも一度は耳にしたことがあるかも知れません。ネロによる迫害の後、神の都エルサレムがローマ軍に包囲され陥落するという非常に大きな患難が起こります。福音書が記されたのはまさにこの迫害と困難の時代のただ中でした。
迫害による肉体の死ということは、キリストご自身が身をもってその苦しみを味わわれました。ユダヤ人たちから迫害され、ローマ兵によって殴られ鞭うたれ、手足を太い釘で十字架に打ち付けられて吊るされたのです。この方を信じて、その道をたどるのであれば、行く先で待っているのは同じく迫害なのです。「恐れるな」と命じられた方は弟子たちに言葉で言い聞かせただけでなく、ご自分でその道を通って手本を見せてくださいました。
自らも迫害を受けて殺されようというところで、さらに「恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」と弟子たちを励まされます。2羽で1アサリオン、今の日本の金銭感覚ではワンコインといったところでしょうか。これらの雀は愛玩用ではなく、庶民の食卓に上る新鮮な食材です。晩御飯のおかず程度の些細なものです。
人々が食べるために売られている雀の1羽であっても「あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない」とイエス様はおっしゃいます。飛んでいる雀が急にポトリと落ちてくるとか、調理されたものが食卓から転げ落ちるとか、そのようなことではありません。人が自分の腹を満たすために雀を屠ること、つまり一方的に命を奪うことを天の父が許されているということです(創世記9:3参照)。
毎日の食卓のために何気なく生き物のいのちを奪うように、迫害者たちはあなたの命を無造作に奪うことになるでしょう。時にはキリストの名のゆえに家畜以下、雀以下の扱いをされることもあるでしょう。それでも天の父はあなたのことを見ていてくださるのだ、と教えられます。
見ていてもらうだけでは不安でしょうか。でも多くの人は経験しているはずなのです。幼い子はよく親や先生に「見てて、見てて!」とせがみます。それはうまくできたらいっしょに大喜びしてくれることを知っているからです。もし失敗しても「大丈夫、また一緒にやってみようね」と受けとめてもらえるのです。だから見ていてもらうだけで、安心して何度でも挑戦する力が湧いてきます。父の許しはこのような安心をもたらします。
ところで「恐れるな」という言葉を読むときに私たちは一旦なんらかの恐れという感情を思い起こしてから、打ち消す動作を無意識に行っています。もしかすると「恐れるな」と言い聞かせるより、「大丈夫だよ」「お父さんが見ててくれるよ」などと自分を励ましてもよいでしょう。この程度の言い換えをしたところで、私たちをたくさんの雀よりまさっているとおっしゃられるイエス様がいちいち目くじらを立てることはないでしょう。
3.天の父の前で
後半の32節と33節を読んでまいります。32節は「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す」と説かれており、33節はその裏返しです。
日本語では一般的に後から言うことばのほうが主旨あるいは結論であるのですが、ここでイエス様が弟子たちに言わんとしているのは先のほうです。「イエス様に知らないと言われたくないから嫌な思いも我慢して証しをしよう」というのでは、義務的で律法主義的な信仰になってしまいそうです。
先にお読みしたように天のお父様、神様がちゃんと見ていてくださるから「恐れるな」「大丈夫だ」と自分に言い聞かせることはできるようになりました。とはいえ、実際に対面する人々の視線や反応というものは、直接受け取るだけにとても気になるのは確かです。「クリスチャンなのに」「牧師なのに」という言われ方をする場合も少なくありません。
迫害の中で「人々の前」すなわち私的なものを含めた尋問や取り調べ、あるいは法廷に引き出される場面があるでしょう。それらはネロの時代に限らず、大抵は一方的な不当な扱いを受けるものです。イエス様ご自身も経験されたからこそこのようにおっしゃるのです。あなたがわたしを仲間だというように、わたしもあなたの仲間だ、同じだよと。
多くの人に囲まれてたった独りで立たされることもあるでしょう。人前に立たされなくても置かれている場所(家庭、職場、学校のクラスなど)で自分だけがクリスチャンであるという孤立感は経験されたことがおありでしょう。そのような時も天のお父様が「ちゃんとみているから大丈夫、しっかりやってごらん」と見守っておられることを思い出します。うまく言葉が出ないかもしれませんが「わたしはクリスチャンです、イエス・キリストのものです」と言えたら、結果が良くても悪くてもイエス様は「よく頑張ったね」と受け入れてくださいます。
ルカによる福音書によれば、私たちは後に神の天使たちの前で裁きをうけることになっています(ルカ12:8)。人々の前で自分がイエス様の仲間だと言い表しているならば、もし天使たちの前で責めや咎めを受けるようなことがあってもイエス様ご自身が仲間だと「この人はわたしの仲間だ」と言ってくださるというのです。神の子ご自身が庇ってくださるなら、いくら天使たちだといってもそれ以上は何も責めることはできないでしょう。
今は世にあって人々の前にありますが、天の父の前でも既に同じくとりなしをいただいています。いつも見ていていただいていますが、それは見張りや監視の視線ではなく、幼子が何度でもチャレンジできるように温かく見守るまなざしです。
<結び>
新約聖書の後ろの方にあるヨハネの手紙第一より1節だけお読みして結びます。
「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。」(1ヨハネ4:18)
私たちは目に見える迫害がなくとも様々な困難に直面します。いつも見守って受け止めてくださる父なる神の御愛と、とりなしてくださる御子の恵みに感謝します。
ヨハネによる福音書では主イエス様において現わされる御父の御愛とその御業について、特に「だれにもできなかった業」罪の赦しのみわざが印象的でした。神の御子のご性質のうち、愛に重きを置いて記されています。主の昇天から半世紀以上が経ち、実際にイエス様と出会うことができた世代が地上からいなくなろうという年代に記されました。初めの愛から離れることがないようにと、教会とキリストを信じるすべての人々への励ましです。
一方でマタイによる福音書はそれより早く、紀元70年のエルサレム陥落を境に諸説に見解が分かれています。初期の福音宣教、初代教会の中で口伝えによって広まったイエス・キリストについての証しが後の世代へと文書として取りまとめられる必要がありました。ユダヤ人である弟子が記していますので、預言者たちを通して約束されたイスラエルの王としてキリストを捉えています。
この福音書では天の国とその支配、王であるイエス・キリストが一つの主題となっています。天の国とはユダヤ的な言い回しです。彼らは創造主なる方を名指しで呼ぶことは決してありませんので、天におられる方などと呼びました。ですから、天の国とはそのまま神の国と言い換えることができます。神の支配が及ぶ領域(場所、人、物)を指します。
福音書の舞台となっている1世紀初めのパレスチナ地方はローマ帝国の支配下にありました。当時のローマ帝国は皇帝を神と奉っており、あたかも神の国であるかのごとく地中海世界を広く支配していました。それぞれの地方には地域を治めるために総督がおかれ、ユダヤの場合は王が任じられていました。普く統べ治める帝国の支配と、そこから遣わされて具体的に地域を治める提督あるいは王という構造です。王と呼ばれる者であっても、帝国の支配の下にあり、皇帝の意向に従って国を治めなければなりません。
ユダヤの国はかつてバビロン捕囚に遭い、その後もメド・ペルシャやギリシャという大国の影響下に置かれていました。そして福音書の時代には強大なローマ帝国が一帯を征服しています。これらの権威に替わって、天地を創り主である全能者が支配することを人々は何百年もの間ずっと待ち望んでいました。そしてその支配が地にもたらされるために遣わされる王を、メシアあるいは救い主として求めていたのです。
マタイによる福音書はナザレのイエスを来たるべきイスラエルの王として示すため、「アブラハムの子ダビデの子」と呼んでいます(1:1)。天の国とは空の上の遠いところにあるのではなく、その支配は被造物世界全体に及びます。見える姿で御父のもとから遣わされ、天の国の支配つまりルールを布告されたのがイエス・キリストです。イスラエルの王として来られた方が、エルサレムで全世界の救い主となられました。
2.恐れてはならない
本日の朗読はマタイによる福音書10章28節以下ですが、26節から31節の短い章句の中に「恐れるな」という命令が3度繰り返されています。この福音書の主題が天の国や神の支配であるということを念頭において読むとき、「恐れるな」という命令が単に感情の揺れ動きのことだけを指しているわけではないことに気づくでしょう。
また旧約聖書では神様がご自分の民に特別なことを示されるとき「恐れるな」と語りかけられます。イエス様はご自身を神の子であると示すためにしばしば弟子たちに「恐れるな」と呼びかけられます。この箇所でも権威ある方としてお語りになっています。
28節の「体は殺しても、魂を滅ぼすこのできない者どもを恐れるな」とは、先に16節以下で予告されている迫害に際しての命令です。暴君と言われるネロの治世下におけるキリスト教徒への残虐な迫害については、キリスト教にあまり関心がない方でも一度は耳にしたことがあるかも知れません。ネロによる迫害の後、神の都エルサレムがローマ軍に包囲され陥落するという非常に大きな患難が起こります。福音書が記されたのはまさにこの迫害と困難の時代のただ中でした。
迫害による肉体の死ということは、キリストご自身が身をもってその苦しみを味わわれました。ユダヤ人たちから迫害され、ローマ兵によって殴られ鞭うたれ、手足を太い釘で十字架に打ち付けられて吊るされたのです。この方を信じて、その道をたどるのであれば、行く先で待っているのは同じく迫害なのです。「恐れるな」と命じられた方は弟子たちに言葉で言い聞かせただけでなく、ご自分でその道を通って手本を見せてくださいました。
自らも迫害を受けて殺されようというところで、さらに「恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」と弟子たちを励まされます。2羽で1アサリオン、今の日本の金銭感覚ではワンコインといったところでしょうか。これらの雀は愛玩用ではなく、庶民の食卓に上る新鮮な食材です。晩御飯のおかず程度の些細なものです。
人々が食べるために売られている雀の1羽であっても「あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない」とイエス様はおっしゃいます。飛んでいる雀が急にポトリと落ちてくるとか、調理されたものが食卓から転げ落ちるとか、そのようなことではありません。人が自分の腹を満たすために雀を屠ること、つまり一方的に命を奪うことを天の父が許されているということです(創世記9:3参照)。
毎日の食卓のために何気なく生き物のいのちを奪うように、迫害者たちはあなたの命を無造作に奪うことになるでしょう。時にはキリストの名のゆえに家畜以下、雀以下の扱いをされることもあるでしょう。それでも天の父はあなたのことを見ていてくださるのだ、と教えられます。
見ていてもらうだけでは不安でしょうか。でも多くの人は経験しているはずなのです。幼い子はよく親や先生に「見てて、見てて!」とせがみます。それはうまくできたらいっしょに大喜びしてくれることを知っているからです。もし失敗しても「大丈夫、また一緒にやってみようね」と受けとめてもらえるのです。だから見ていてもらうだけで、安心して何度でも挑戦する力が湧いてきます。父の許しはこのような安心をもたらします。
ところで「恐れるな」という言葉を読むときに私たちは一旦なんらかの恐れという感情を思い起こしてから、打ち消す動作を無意識に行っています。もしかすると「恐れるな」と言い聞かせるより、「大丈夫だよ」「お父さんが見ててくれるよ」などと自分を励ましてもよいでしょう。この程度の言い換えをしたところで、私たちをたくさんの雀よりまさっているとおっしゃられるイエス様がいちいち目くじらを立てることはないでしょう。
3.天の父の前で
後半の32節と33節を読んでまいります。32節は「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す」と説かれており、33節はその裏返しです。
日本語では一般的に後から言うことばのほうが主旨あるいは結論であるのですが、ここでイエス様が弟子たちに言わんとしているのは先のほうです。「イエス様に知らないと言われたくないから嫌な思いも我慢して証しをしよう」というのでは、義務的で律法主義的な信仰になってしまいそうです。
先にお読みしたように天のお父様、神様がちゃんと見ていてくださるから「恐れるな」「大丈夫だ」と自分に言い聞かせることはできるようになりました。とはいえ、実際に対面する人々の視線や反応というものは、直接受け取るだけにとても気になるのは確かです。「クリスチャンなのに」「牧師なのに」という言われ方をする場合も少なくありません。
迫害の中で「人々の前」すなわち私的なものを含めた尋問や取り調べ、あるいは法廷に引き出される場面があるでしょう。それらはネロの時代に限らず、大抵は一方的な不当な扱いを受けるものです。イエス様ご自身も経験されたからこそこのようにおっしゃるのです。あなたがわたしを仲間だというように、わたしもあなたの仲間だ、同じだよと。
多くの人に囲まれてたった独りで立たされることもあるでしょう。人前に立たされなくても置かれている場所(家庭、職場、学校のクラスなど)で自分だけがクリスチャンであるという孤立感は経験されたことがおありでしょう。そのような時も天のお父様が「ちゃんとみているから大丈夫、しっかりやってごらん」と見守っておられることを思い出します。うまく言葉が出ないかもしれませんが「わたしはクリスチャンです、イエス・キリストのものです」と言えたら、結果が良くても悪くてもイエス様は「よく頑張ったね」と受け入れてくださいます。
ルカによる福音書によれば、私たちは後に神の天使たちの前で裁きをうけることになっています(ルカ12:8)。人々の前で自分がイエス様の仲間だと言い表しているならば、もし天使たちの前で責めや咎めを受けるようなことがあってもイエス様ご自身が仲間だと「この人はわたしの仲間だ」と言ってくださるというのです。神の子ご自身が庇ってくださるなら、いくら天使たちだといってもそれ以上は何も責めることはできないでしょう。
今は世にあって人々の前にありますが、天の父の前でも既に同じくとりなしをいただいています。いつも見ていていただいていますが、それは見張りや監視の視線ではなく、幼子が何度でもチャレンジできるように温かく見守るまなざしです。
<結び>
新約聖書の後ろの方にあるヨハネの手紙第一より1節だけお読みして結びます。
「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。」(1ヨハネ4:18)
私たちは目に見える迫害がなくとも様々な困難に直面します。いつも見守って受け止めてくださる父なる神の御愛と、とりなしてくださる御子の恵みに感謝します。