「神の愛に応える」マタイによる福音書5章38-48節

2020年11月15日
担任教師 武石晃正

 先日(11/6)にはみふみ認定こども園の子ども祝福式が行われました。普段は楽しそうな歓声が園庭から聞こえてくるのですが、この日はクラスごとに礼拝堂へと園児さんたちが集まってくれました。全クラスが一堂に会するような賑やかさはないものの、一人一人の顔が見えてとても親しみを覚えることができたことに感謝しております。
 また本日は教会でもCSと礼拝のそれぞれの中で子ども祝福式を行いました。時節柄なかなか人が集まるところへ出てくることが難しい状況です。普段から教会に来ることができている生徒さんはもとより、お顔が見えない方々や教会員の皆さんのご家族様を覚えて祝福の祈りをさせていただきました。

 大人になった者たちも主の救いの恵みによって神の子どもとされておりますので、子としての身分においていつも神様から特別に祝福を受けています。子としての祝福の最たるところは「子は親に似る」つまり神様に似せていただくことでしょう。そのご性質の分け前をいただくことにあります。
 本日は神様のご性質のうち「愛」についてその一面を考えながら、お応えできることを思いめぐらせたいと思います。

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聖書朗読と説教は礼拝後にこちらへ公開します。


1.神のご愛
 ひとえに神様のご愛と申しましても、あまりにも大きくて豊かなので私たち人間には計り知れないものがあります。そして主は一人ひとりを覚えて最もふさわしい導きをなさいますから、そのご愛の受け取り方もまた十人十色と言えましょう。
 愛についての聖書に数多くありますが、そのうちイエス様のお言葉から一節をお読みします。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15:13)。これはイエス様がいよいよ捕えられ十字架にかけられようとする直前に、弟子たちへ向けて語られた教えの一部です。互いに愛し合うことを弟子の掟として与えた際のお言葉です。また、友のために自分の命を捨てることこそがご自身の最大の目的であると示されています。

 天地万物の創造者である神ご自身が人としてお生まれくださっただけでも畏れ多いのに、主従関係ではなく私たちを友と呼んでくださったのです。むしろ私たち罪人を愛してくださるがゆえに、罪の支配にあえぎ滅ぶばかりの私たちをもっとよく知ろうとして人と成られた一面があります
 オギャーと生まれて、1歳、2歳、3歳と年を重ねてお育ちになりました。一足飛びで成長できないもどかしさ、ご自身やご友人を含めて親子関係の難しいところもきっと経験されたことでしょう。私たちと同じく子ども時代を通っておられるので、子どもながらの無邪気な喜びようも知っておられ、ただただ涙が溢れてくるばかりの悔しさにも同情することがおできになるのです。

 ご自身は罪を犯すことはなくとも、ご友人が不慮または故意に罪を犯してしまったこともあるでしょう。生まれながらに罪の支配にあること、様々な矛盾に悩む姿を目の当たりにされました。私たち罪人が神様の前に罪を償おうとして命を差し出したところで、自分の罪のために死ぬだけなので何の贖い代にもならないことも肌身に感じてくださいました。
 これほどまで私たち罪人にトコトン付き合った上で、さらに弟子たちと3年半ほど寝食を共にされ、本来であれば辟易してもおかしくない場面で「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」(ヨハネ15:15)とイエス様はおっしゃるのです。こんな私たち「友」のために命を捨ててくださった、それがイエス様の愛です。

 ところでイエス様は弟子たちに「互いに好きになりなさい」とは言われませんでした。「好き」と「愛」とはどのような違いがあると思いますか。ことば遊びになりますが、「好き」という感情が大きくなると「大好き」になり、「大好き」のもっと大きいのが「愛」だという説明もできましょう。しかし「好き」の反対は「嫌い」です。「大好き」があれば当然「大嫌い」も出てくるわけです。そして神様にとって罪という性質は全く相反するものですから、どんな微細な罪であっても受け入れがたい「大嫌い」の極みなのです。
 この「大嫌い」が覆いつくしている世界に生まれて、私たちを友と呼び、命を捨ててくださったのがイエス様の示された愛です。ですからこの愛は裏表も分け隔ても「好き嫌い」という尺度もなく、すべてを覆うことができるのです。

 この愛をイエス様は弟子たちに掟として命じ、パンを割くようにして分け与えられました。キリストを信じ、弟子とされたすべての者にこの愛が分け与えられています。

2.求める者には与え(38-42節) とことん愛しなさい
 イエス様が身をもってお示しになられた愛の側面を踏まえたうえで、本日の箇所を確認いたしましょう。神様のご愛が示されている箇所であるとするならば、前半部分(38-42節)はご愛の深さあるいは懐の深さであると言えるかもしれません。

 新共同訳では前半は小見出しに「復讐してはならない」とあり、「目には目を、歯には歯を」という旧約の律法が引用されています(出21:24、レビ24:20、申19:21)。罪をに戒めるために与えられた掟です。そもそも復讐することは神様の御心ではなかったのです。
 これに気付かせるため、イエス様は少々大げさな表現を用いておられます。「右のほっぺをぶたれたら左も出してあげたらいいんだよ」「シャツを欲しがる人にはジャケットもくれてやればいいさ」と、私にはイエス様が両腕を大きく広げている姿が思い浮かびます。

 もし相手が嫌いとか憎いという負の感情だけでぶつかってくるときに、自分も同じ力で立ち向かおうとすると嫌悪や憎悪という感情に支配されてしまうでしょう。私たちの心の中にせっかくいただいている神様の愛が働かなくなり、愛が冷えてしまいます。
 ところで、1ミリオンはだいたい1.5kmほどだそうです。速足の人なら歩いて15分、荷物を担いでいれば2~30分の道のりです。ここからですと田原街道に出て一番近いコンビニエンスストアあたりになります。「強いて」とありますが、やんごとなき理由で懇願されたのか無理強いなのかは分かりません。友だちから「どうしても一緒に行ってほしい」と頼まれたなら私は断らずに付き合うことでしょう。
 ところがお店まで行ってみたものの、欲しかったものが品切れでしたという場面です。もう一つ先の店舗、ちょうど宇商の前のお店は在庫しているのでそちらを案内されたとき、私はどちらを選ぶでしょうか。約束はここまでだからと教会まで戻ってしまうのか、倍ほどの道のりをお付き合いして歩いていくのか、どちらを選ぶか問われます。

 無理をしたりほかの約束を反故にしたりではよくありませんが、助けが必要だから同行を頼まれたのであれば用足りるまで一緒に行ってあげられたら素晴らしいことです。なぜなら必要とされているのは私がその場所へ行くことそのものではなく、道中あるいは行先で私がその人の助けとなることだからです。
 「あなたに借りようとする者に、背を向けてはならない」。イエス様は私たちが償いきれない神様への負い目をご自身の命によって支払ってくださった救い主です。主からいただいた愛を思い起すとき、私たちも好き嫌いではなく愛のわざへと促されます。
 
3.天の父の子となるため(43-48節) 裏表なく愛すること
 後半部分は駆け足で読んで参ります。ここでもイエス様はユダヤの律法あるいは因習の言葉を引用しつつ、ご自身の愛によって戒めを正しく導かれます。「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(44)。

 愛しなさい祈りなさいと命じられて、ただちに敵や迫害者を受け入れられるほど私は「できた人間」ではありません。ですが、愛しなさいと戒められなければ憎むことしかできませんでした。祈りなさいと命じられなければ恨むことしかできないような者でした。
先にお分かちいたしましたように、イエス様は私たちが生まれながらに罪の影響を受けて、妬み嫉み(ねたみそねみ)も含めた負の 感情に囚われていることを百も承知でおいでです。実際に寝起きを共にしている弟子たちでさえ、家業を捨てて付き従っているとは言うものの「誰が一番偉いか」などと小競り合いを繰り返しているわけです。そういう姿をみて、人が簡単に愛せないことや誰かのために祈れないことをイエス様は知っておられます。
 それは私たちに無理難題を押し付けようというのではなく、「あなたがたの天の父の子となるためである」(45)と目指すところが明らかにされています。天の父が悪人も善人も、正しい者も正しくない者も分け隔てずに恵んでくださるように、子とされた者もまた良し悪しや好き嫌いで行動する必要がなくなるということです。

 徴税人(46)と異邦人(47)については新共同訳聖書の巻末に簡単な説明が記されています。罪人と同じく見なされ、あるいは主の律法を持たない人々として、ユダヤ人から憎まれたり疎まれたりしていた人々です。ユダヤ人が彼ら罪人たちと同じことをしているのであれば、律法を守っていようといなかろうと何ら違いはないということです。私たちもイエス様が命を捨ててまで愛してくださっているのですから、それにお応えして愛にふさわしく歩ませていただきましょう。

 「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(48)。
 完璧であれとは言われていません。子ですから小さくても弱くてもよいのです。私たちができないことのほうが多いことをイエス様はすべてご存じの上で、いつも愛を注いで助けてくださいます


<結び> 神様のご愛に応える
 愛しなさい、と命じられたからといって、愛することができるでしょうか。たとえそれが難しいことでも、主の御言葉が必ず成ると信じたとき、愛しなさいとのお言葉がわたしの内に成就します。
 
 主からいただいたご愛はなくなったり目減りしたりすることなく、いつまでも残ります。
 「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」

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