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「王の職務」マタイによる福音書25章31-46節

2020年11月22日
担任教師 武石晃正

 教会の暦は聖霊降臨節から降誕節前の週を数える期間に入り、いよいよ来週からアドヴェント(待降節)を迎えます。アドヴェントはキリストが世にお生まれになったクリスマス(降誕節)に備える期間でもありますが、同時に主のご再臨を特別に覚える4週です。
 ろばの子に乗ってエルサレムに上られたイスラエルの王、罪人として十字架にかけられたユダヤ人の王が、全世界の支配者として再び世に来られます。すくい主、きよめ主、いやし主であるキリストが、今度はすべての国民を裁く王として来られます。
マタイによる福音書の短い箇所から「王の職務」と題して、王として来られるキリストについて思いめぐらせたいと思います。

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聖書朗読と説教は礼拝後にこちらへ公開します。

1.すべての国の民をさばかれる
 人の子(31)とは旧約聖書の預言で用いられているイスラエルの来たるべき王の称号です。イエス様はご自身をさしてしばしば「人の子」とお語りになります。この時代のユダヤの国はローマ帝国の圧政の下にありましたが、それ以前も含めると数百年もの間ずっと大国の支配下に置かれていました。バビロン捕囚から数えると500年以上になります。人々はこの窮地と打開し、イスラエルを神の国として独立させる王を待ち望んでいました。

 福音書はイエス様がダビデ王家の正当な血筋の家に生まれたことを系図で示し、王としてのキリストを示そうとしています。その頂点が21章のエルサレム入城の場面であると言えましょう。ロバの子に乗ったイエス様は「ダビデの子」つまりイスラエルの王として群衆の大歓声のうちに迎えられます。
 ところが、エルサレムでイエス様が説かれた教えは民族を挙げての蜂起ではなく、ご自身の奇跡などによる政権の打破でもありませんでした。この福音書のほとんどの記事はイエス様が旧約の律法についての解釈と適用についての教えあるいは問答されたことで占められています。律法を授けた統治者として、掟の心を説かれました。掟に反した者を厳しく取り締まるのではなく、言って聞かせてやって見せる心優しい王の姿です。

 その上で終わりの日や艱難、また再臨について説かれました(24章以下)。の罪をあがなうという祭司の職務は十字架で完成され、赦しときよめのわざが復活の後に聖霊降臨によって教会の働きの中でなされていきます。ご再臨によってこの時代が終わると、主は王の職務として支配とさばきがなされます。このさばきはイスラエルに限られておらず、「すべての国の民がその前に集められる」(32)と書いてあるように全世界に及びます。
 この様子は「羊飼いが羊と山羊を分けるように」と例えられています。旧約聖書では羊も山羊もいけにえとして供される動物ですから、きよいかきよくないかの違いを指しているのではないようです。同じ囲いの中でまぜこぜになって暮らしていた家畜です。動物たち自身にはその意図も分からず心当たりもないわけですが、持ち主である羊飼いが彼らを右左へと分けていくというのです。

 キリストが王の職務として裁きを行われるとき、それまでは何の区別もなく同じ場所に暮らしていた者たちが一方的に二手に分けられます。羊飼いが家畜を分けるように行われますから、王の一存で分けられ、私たちが口をはさむ余地はありません。しかも判決を聞くまでなぜそちらに分けられたのか誰にも分からないのです。とすれば、地上にいる私たちが互いに「あの人は羊だ、あの人は山羊だ」と分け隔てすることもできないようです。
 終わりの時にすべての国の民をおさばきになるため王は来られます。

2.わたしの兄弟である小さい者
 人々が右側と左側に分けられていきます。聖書の中でたとえ話による教えの結論は、どちらかを選んでくださいという二者択一ではなく、初めから一つです。ここでは厳しい裁きが下されることではなく、王は祝福するために私たちを招こうとされています。別な個所では「主人と一緒に喜んでくれ」(21)と喜びを分かち合おうとされる姿に通じます。

 この「右側にいる人たち」を祝福して、王は彼らから受けたという愛のわざをいくつか挙げていきます。祝福というと言葉が少し硬いので、「喜びながらお礼を言った」と受け止めてよいでしょう。けれど当の本人たちは全く身に覚えがないようで、「主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、(中略)牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか」(37-39)とキョトンとした様子。もっともな心境かもしれません。まず王様に会ったことがあれば忘れることはないでしょうし、王様が物乞いをしたり宿なしだったりというなど考えられません。
 王の言葉のうち人々の行いだけに目を止めると、生活に困っている人や何らの不利益を被っている人など社会的弱者を助けましょうとの勧めにも読み取れます。勿論そのような働きは尊いものです。しかし単に善行の勧めであればイエス様は宣教の当初から幾度もなさったことですし、福音書もあえて受難の1週間前に取り上げなくてもよいはずです。この箇所は艱難の時代の後に主が再び来られること、王の王による裁きが示されています。

 「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人」と記されています。イエス様が「わたしの兄弟」と呼ぶのはキリスト者のことであり(ヘブライ2:10-12)、「最も小さい者」とは洗礼者ヨハネより偉大だとされた天の国の民のことを思い出させます(11:11)。つまりこの「最も小さい者」はキリストの名のゆえに飢え、渇き、住まいを失った人たちを指すと言えましょう。
 裸とは、逃げまどい見知らぬ土地で追いはぎに遭ったとか、捕えられて罪人や奴隷として扱われたことでしょう。迫害の渦中では病にあっても医者に行くことも来てもらうことも叶いません。ある人たちは冤罪によって投獄され、あるいは私的に奴隷として繋がれることもありました。使徒パウロの書簡には彼が受けた数多くの苦難が記されており(ローマ8:35ほか)、同時代の多くのキリスト者たちもまた同様の仕打ちを受けたことです。

 もしユダヤ人やローマ当局から追われている人が訪ねてきて、その人がキリスト者だと分かったとしても、実際に手を貸すことは本当に勇気がいることだと思います。この人と接触しているだけで、「あいつも仲間だ」と目を付けられてしまうでしょう。食べ物を分け与えるとしても少量のパンをこっそり手渡したとか、宿とはいっても納屋のような場所の出入りを許しておく程度しかできなかった人もいるでしょう。病人を見舞っても奇跡で癒すこともできず、息を引き取るのを見届けるしかできなかったかも知れません。牢を訪ねても友を助け出すことができず、自分だけ帰ってきてしまったという罪責感だけが残ったかもしれません。一度は手厚く迎えたもの、何らかの限界によってやむを得ず寒空の下に追い出さなければならなかった悔しさもありましょう。
 「いつわたしたちは」という問いかけた人たちの胸中には、手を差し伸べたものの力が足りなかったという思いがあるのではないでしょうか。キリストの名のために迫害を受け、困難の中で宣教を続けた人たちと共に歩んだから出てくる問いなのでしょう。「王様、あなたの民に施したのですから十分な褒美をください」とは決して口にできないほど、小さな働きにしか思えないこともあるのです。

 翻って左側にいる人たちについて書かれていることに目を通すとき(41-46)、彼らの言い分が次のように聞こえる気がいたします。「私たちはいついかなる時も困っている人や弱っている人に施しをしてきました。もし王様、あなたがおいででしたらお構いしないことなど決してありません」と。愛のわざは目に見えるかたちで現れるものですが、王であるキリストの目は私たち人間には見えない真実を見ておいでです(サムエル上16:7)。
 旧約聖書の詩編には次のような一節があります。「主はすべて虐げられている人のために 恵みの御業と裁きを行われる」(詩編103:6)。この箇所に照らしますと、王の目がこの右と左に分けられた人たちの行いばかりに向けられていたのではないことが分かります。むしろその最たる関心は「この最も小さい者」に注がれているのです。ご自分の名で呼ばれる者が「最も小さな者」がどのような扱いを受けているのかと、一人一人を見落とすことなく覚えられた上で、最後の最後まで私たちの面倒を見てくださる王です。

<結び> キリストの「王の職務」
 今の時代が終わるとき、主イエス・キリストは「生ける者と死ねる者」つまり全ての人を裁くために王として世に再び来られます。イエス様は宣教の命令、愛の掟、数々の教えを与えてくださいましたが、言いつけるだけ言いつけてご自分だけ天に帰られたのではありません。裁かれると思うと厳しい感じがいたしますが、私たちの歩みをきちんと見ていてくださるということです。
 
 「わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい」(34)
 よくやったね、最後まで言いつけを守り通してくれてありがとう、と私たちを祝福し喜んで迎えてくださいます。私たちの主はご自身の民を守り導くだけでなく、最後にはちゃんとほめて祝福してくださる心優しい王なのです。

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