「主の再臨の希望」マタイによる福音書24章36-44節
2020年11月29日
担任教師 武石晃正
本日よりアドヴェントに入りました。礼拝を始めるにあたって、講壇の前に備えられた4本のろうそくのうち1本目を灯しました。クリスマスの前の4週間、礼拝のたびに灯すろうそくを1本ずつ増やして参ります。するとクリスマスイヴの礼拝では最初から4本のろうそくを灯して、主のご降誕をお祝いすることになります。
1週ごとにクリスマスが近づく中、かつてユダヤの人たちが救い主のお生まれを心待ちにしていたことに思いを寄せることもありましょう。神の子が血肉をもってお生まれ下さったことで、人の友として歩まれたご生涯が始まりました。世に来られてすぐに贖いのわざをなさったわけではありません。30年余りの生活があり、愛する弟子たちとの交わりと残された大切な戒めの数々があります。そして、御父のもとに場所が用意できたら戻ってきてくださるとの約束した上で(ヨハネ14:3)、天に昇られました。
世にお生まれくださったからこそ弟子たちに与えられ、そして信じるすべての者に伝えられた大切なキリストの教えです。本日はその一つをマタイによる福音書より取り上げ、思いめぐらせたいと思います。
PDF版はこちら
聖書朗読と説教は礼拝後にこちらへ公開します。
担任教師 武石晃正
本日よりアドヴェントに入りました。礼拝を始めるにあたって、講壇の前に備えられた4本のろうそくのうち1本目を灯しました。クリスマスの前の4週間、礼拝のたびに灯すろうそくを1本ずつ増やして参ります。するとクリスマスイヴの礼拝では最初から4本のろうそくを灯して、主のご降誕をお祝いすることになります。
1週ごとにクリスマスが近づく中、かつてユダヤの人たちが救い主のお生まれを心待ちにしていたことに思いを寄せることもありましょう。神の子が血肉をもってお生まれ下さったことで、人の友として歩まれたご生涯が始まりました。世に来られてすぐに贖いのわざをなさったわけではありません。30年余りの生活があり、愛する弟子たちとの交わりと残された大切な戒めの数々があります。そして、御父のもとに場所が用意できたら戻ってきてくださるとの約束した上で(ヨハネ14:3)、天に昇られました。
世にお生まれくださったからこそ弟子たちに与えられ、そして信じるすべての者に伝えられた大切なキリストの教えです。本日はその一つをマタイによる福音書より取り上げ、思いめぐらせたいと思います。
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1.人の子は思いがけない時に来る
マタイによる福音書では、キリストがご自身を指して「人の子」(37)と呼ばれる場面がしばしばみられます。この「人の子」とは旧約聖書の預言書の中で来たるべき王を示す称号の一つです。イエス様の教えとしては大きく分けて2つの用いられ方があり、一つは聖書の言葉の成就としてご自身が来られたことを示される場合です。もう一つは来たるべき王として全世界を統べ治めるために世に来られることを指す場合です。前者は新しい契約を与えられた十字架と復活までの期間(初臨)であり、後者は再び世に来られる「その日」(36)と呼ばれる終わりの時(再臨)に当たります。
イエス様が地上におられた時点から見たときに、時代の終わりとは2つの余地がありました。一つは神様から先に与えられていた契約、いわゆる律法に基づく時代についてです。キリストの十字架の死によって旧約聖書に示された罪の贖いが完成されました。一定の猶予の後、都の陥落とともにエルサレム神殿が崩され(AD70)、「いけにえと献げ物を廃止」(ダニエル9:27)されました。こうして先の時代が終わりを迎えたのです。
先の契約の時代が終わるとそれまで契約の中心だったユダヤ人たちが歴史の表舞台から姿を消します。しかし「わたしの言葉は決して滅びない」(34)とのおことばのとおり、旧約聖書が廃れたりイスラエルの選びが取り消されたりするわけではありません(ローマ11:29)。時代はキリストによる新しい契約に移り、ペンテコステの聖霊降臨とともに教会が神の民としての役割を担うことになりました。もともとは主なる神様の選びにも契約にも含まれていなかった私たち異邦人が、ただキリストの恵みによって選びと契約に接ぎ木されたのです。
神様は天におられ、人は地上において神の民と呼ばれることになりました。その身分がイスラエルから教会に譲られました。地上で肉体を持って生きていることにはユダヤ人も異邦人も違いがありませんから、罪とその贖いの規定を除けば、先の契約の時代に起こったことは概ね新しい契約においても起こり得ます。ですから私たちは旧約聖書から恵みをいただくことができ、またキリスト以前の人々に思いを重ねることができるのです。罪人として生まれながらも神の祝福を受けることも、聖であるとされながらも罪や咎に悩むことも、ある者は背きある者はそこから悔い改めることも、これらすべてが神の民とされたからこそ取り扱われているのです。
このような次第で、当初ユダヤ人である弟子たちに与えられたこの終わりの日に関する教えが、私たち異邦人のキリスト者の内にも生きるのです。創世記に記されているノアの時代の洪水が弟子たちに対して過去の例証であるように、ユダヤ人へ突如襲った70年のエルサレム包囲と陥落は私たちにとって将来的な終わりの日の警告となるのです。洪水で滅んだ人たちも包囲されたエルサレムの人たちも、その日が来るまで「何も気がつかなかった」(39)わけです。
終わりの日について「人の子が来る場合も、このようである」(39)とイエス様は言われます。ノアや弟子たちのように神のことばをあらかじめ聞いた人たちは備えることができますが、そうでない人たちには終わりの日が突如としてやってきます。そしてどちらの時代でも同じく、聞いて信じて備えた者は命を得、聞いても信じなかった者が滅びに至りました。
福音書は今この教会の時代に、教会とその中にいる私たちに向けて「その日」に備えるようにと教えています。
2.一人一人に及ぶ「その日」
この時代の終わりは必ずしかも突然にやってくるわけですが、「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない」(36)とイエス様は言われます。人間が知らないのは仕方ないとしても、天使たちや神の子ご自身も知らないとは不思議な感じがいたします。弟子たちもずっと気になっていたようで、主が天に帰られる直前まで「主よ(略)この時ですか」(使徒1:6)と尋ねています。イエス様はこの場面でも「あなたがたの知るところではない」とお答えになられました。
備えていればいつであろうと心配する必要はなく、またいつであるか知らされたところで人間が神様に向かって早すぎるとか遅すぎるなどと口を挟むことはできません。あるいは知らない方がよいということもありましょう。もし正確な期日を知らされたら人類はどのような行動を取るでしょうか。あまりにも近い日付であればソワソワして落ち着いて過ごせないかもしれません。何百年も先だと知らされたら、自分が生きているうちには「その日」が来ないので、神を神とも思わぬ生き方をする人たちが出てくるかも知れません。
逆に「幾年の某月某日に世の終わりが来る」とか「私がキリストだ」とか言い出す人が現れたら、それは真っ赤な偽物であると断言することができるのです。明らかな期日をお示しにならないのは、迷いやすい羊が偽物を見抜けるようにとの神様の知恵なのでしょう。
神の民が「その日」に備えるためにイエス様はたとえをもって心得を示されました。畑にいる二人の男、臼を引いている二人の女です。畑が何を指し、臼は何某を暗示しているということではありません。当時の一般的な生活として、男性が畑仕事に精を出し、女性が家の中で粉を挽くという姿があったということです。「勤めに出たり家事をこなしたり、子どもたちが学校へ行くような普段の生活」が営まれているところへ、人の子が来ます。
創世記のノアたちは洪水の前に家族そろって箱舟に入ることができましたが、終わりの日は家族がそれぞれの場所で迎えることになる可能性があります。夫婦であっても、親子であっても、その時に互いに助けたり庇ったりすることが叶わないかもしれないということが言えます。
誰が連れて行かれ、誰が残されるのかは事前に見た目では区別がつかないようです。イエス様が話をされている相手はユダヤ人ですから、たとえ話の二人の人もそれぞれユダヤ人であることが前提にあります。律法や礼拝に関することは特に触れられていませんから、信仰生活における差異はないものとみなしましょう。すなわち、地上において神の民と呼ばれ、何ら問題なく生活している人たちを指しています。別に誰かを虐げたり悪事を働いたりしていたわけでもなく、いずれも普段どおりに働いている様子です。畑も臼も日常生活を表すたとえに過ぎませんから、どちらかが一生懸命働いてもう一人が怠けていたということでもありません。
それにも関わらず、一方は連れて行かれもう一方は残されるということが「その日」に起こります。明らかに罪を犯していることであれば、主は「悔い改めなさい」と勧告されたことでしょう。ここでは「目を覚ましていなさい」と繰り返し命じられています。つまり違いがあるとすれば、目を覚ましているかどうかということです。
一つ前の箇所では「あなたがたは、これらすべてのことを見たなら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい」(33)とも言われています。このお言葉と重ねると糸口が見えてくるようです。同じ暮らしをしていても、目を覚ましている者は「人の子」がいつ来るかいつ来るかと待ち望んでいます。言い換えれば、すべての思いが主をお迎えすることに向けられているか否かが分かれ目だということになりましょう。
私たち一人ひとりの生活も然りですが、教会の営みにも通じるかと思われます。礼拝を途切れさせず続けていくことは皆さんの心づくしの奉仕によるものです。また世の人々をより多く導いていくことは大変尊い働きです。ところが地上の営みを続け広げていくことに焦点が合ってしまうと、人の子が来る「その日」から視線が逸れてはしまわないでしょうか。畑仕事や臼挽きとしての普段の祈りや礼拝を怠らず、その上で主の再び来られる日を迎える備えを皆さんとともにできることは本当に喜ばしいことです。
<結び> 主の再臨の希望
確かに今の時代は厳しい状況にありますが、乗り越えれば再臨の主とお会いできるという希望が私たちにはあります。ゴールはすぐそこかもしれません。
「一人は連れて行かれ、一人は残される」。どちらになるか、自分でその時に選ぶことはできなくても、あらかじめ用意することはできるのです。むしろ今みことばを聞いた私たちは、主が再び来られる「その日」に希望をもって楽しみに待ちましょう。
アドヴェント、主を待ち望む期間を迎えました。約2000年前に神の子を地上にお迎えしたことを感謝しつつ、世の終わりにさえも希望を持つことができる幸いを喜びたいものです。
「だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである」(44)。
神さまから思いがけないプレゼントをいただけるかもしれません、楽しみですね。