「恵み深い言葉」マタイによる福音書13章53-58節

2020年12月6日
担任教師 武石晃正

 今朝はアドヴェントクランツのろうそくが2本灯されました。4本のろうそくはアドヴェントの4週の聖日を示します。この4週間は主を待ち望むことに思いを深めます。
 主のご降誕を祝うクリスマスの備えとしては、どなたがお生まれくださったのか、何ゆえに神が人としてお生まれになられたのか、と主ご自身とそのお働きについて思いめぐらせるでしょう。また再び来られることを待ち望む思いから、主が弟子たちを通して教会そして私たち一人一人に福音と愛のわざを委ねられたことを確かめ合うことでしょう。このように主にお会いできるのはいつかいつかと待ち遠しく過ごします。

 独り子である神が「人の子」として世にお生まれになり、どのような報いを受けられたのか4つの福音書はそれぞれの角度から記しています。弟子たちが目の当たりにしたイエス・キリストの証しを聖霊の導きによって教会が後代へと書き残しました。マタイによる福音書の短い箇所から主ご自身について、またこの証しを受け止めた人たちについて思いを寄せたいと思います。

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聖書朗読と説教は礼拝後にこちらへ公開します。


1.故郷で受け入れられない
 イエス様はユダヤのベツレヘムでお生まれになりましたが、母マリアとその夫ヨセフとともにガリラヤのナザレに住まわれました。ガリラヤとはイスラエルの北部の地域で、首都エルサレムがある南側のユダヤ地方から見ると気候風土や言葉の訛りが特徴的でした。異民族との影響も含めてこの時代でも「異邦人のガリラヤ」(4:15)とも呼ばれており、南のユダヤ地方と比べれば宗教的にも文化的にもおおらかな土地柄でした。

 3年半ほどの宣教活動の当初はこのガリラヤ地方でイエス様は「天の国」の教えとわざを示されました。出身地に近いところから働きを始められたということもありますが、バプテスマのヨハネが捕らえられたことで彼の弟子たちがユダヤ地方から散らされたという背景もあるようです。家業に戻ったヨハネの弟子たちを探し集めながら、たとえ話を用いて「御言葉を聞いて悟る者」だけをご自身の弟子とされました。
 ガリラヤを一巡されて故郷ナザレに戻られました。町々で行われた奇跡や生き生きと語られる神の国の教えについて、その噂は既に故郷にも届いていたようです。「あのイエスがバプテスマのヨハネの門下でラビになったらしいぞ」「ヨハネの弟子たちを集めてあちらこちらで預言や奇跡を行ってるそうだ」「今度の安息日にはイエスが会堂で聖書の話をするようだ」と、それぞれの思いで人々が会堂に集まるわけです。

 実際に聞いてみれば確かに新しい説き方で、年の若さもあって力強さも感じられたことでしょう。しかし見たところでは、ヨハネから洗礼を受けに行くと言って町を出て行ったときとほとんど変わらない、子どものころからよく知っているヨセフの家のイエスなのです。そこで人々は受け入れがたいという態度を露にします。「旅をしてきてちょっとは立派になったようだが、こいつのことは昔から知ってるよ。マリアんとこのせがれだろ、弟たちのことも俺たちが世話してやってるよ。妹たちの嫁ぎ先だってみんな内々の仲間だよ。イエスだけ特別っていうのも妙な話だよな」「ああ、そうだよな。まして神の子だとか奇跡だとか言われても受け入れがたいよなぁ」「そうだ、カファルナウムでやったっていう奇跡をちょっとここでも見せてくれよ。見たら信じてもいいぞ」と、このような具合です。
 朗読され説き明かされたのは旧約聖書であり、神様が遣わされた預言者の言葉です。今の私たちはイエス様が「聖霊によりて宿り、処女マリヤより生まれ」たと信じていますから、そのお言葉がまぎれもなく神の言葉であると知っています。しかし、たとえ当時のナザレの人たちがイエス様を神の子だと信じていなかったとしても、「自分より年が若いから」とか「昔から知っている人だから」とかそれだけの理由で聖書の言葉と説き明かしを軽んじてよいものではありません。また父なる神様が憐れみと恵みをもって施してくださる癒しの御業を、何かの出し物であるかのように要求するとはとんでもないことです。

 そこでイエス様は「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」(57)と、彼らに言われました。神の国を伝え良い業を行って旅をしてきたのに、久しぶりに帰ってきた故郷で受け入れられなかったのです。とても残念であり、実に情けない思いをされたことでしょう。
 ここで口論や議論になったとはマタイは記していません。母マリアたちがまだ住んでいたためでしょうか、町を責めたり叱ったりすることなく、本当に助けが必要な人だけを見舞って癒してくださいました(58)。主の憐れみと御愛の深さを覚えます。

2.恵み深い言葉
 この出来事についてルカによる福音書にはより詳しく残されています(ルカ4:16-30)。そこではイエス様の教えを「恵み深い言葉」(ルカ4:22)と記されています。マルコによる福音書も含めて3つの福音書が異口同音に証ししていることから、1世紀半ばの教会にとって特に大切な出来事だったと言えましょう。
 マタイによる福音書ではイエス様が何を教えておられたのか示されていませんが、ルカによるとそれは旧約聖書のイザヤ書の預言だったことが分かります。「油を注がれた」人物すなわち神様から遣わされたメシアについての預言を、渡された巻物を開いたイエス様がご自分のこととして「わたし」と読み上げられました。

 律法学者たちのように掟を掟として語るのではなく、ご自分の言葉として解放と慰めの預言を説き明かされたことでしょう。イエス様の口からでたのは戒めと裁きという厳しい言葉ではなく、恵み深い言葉だったのです。しかし残念ながら人々は都合のよい受け取り方しかしておらず、イエス様は彼らの本心を見抜きます。言い当てられて憤慨した人々は、なんとイエス様を町はずれの崖から突き落とそうとしたのです(29)。
 敬われないどころか自分の故郷で殺されかけるなど、なんと恐ろしいことでしょうか。思えば主イエス様のご生涯はお生まれになった時から波乱に満ちていました。宿に泊まれず飼い葉桶に寝かされ、翌年には命を狙われて国外へ一家で逃避行。人生の始まりは踏んだり蹴ったりでしたが、その上さらにお働きにおいては故郷でもこの仕打ちです。

 この後も3年余りユダヤ各地を行き廻られ、先々で多く人々に癒しのわざと恵み深い言葉を与えられました。ご自身の意思で人々を訪ね回られたとは言え、その一面には宗教指導者たちからの迫害を逃れて渡り歩かれたという事情もありました。しかし、このような迫害を含めて、一切合切を承知の上で、独り子の神が「人の子」として世においでくださったのです。
 ところで、時を経てこれらの出来事が福音書として記されたのは、主の昇天から30年は経った頃のことです。イエス様と直接お会いした世代の多くがこの世を去り始め、孫の世代へと信仰が受け継がれようという年代です。教会は迫害の渦中ですから弟子たちはエルサレムやユダヤの各地から故郷を追われ、移り住む先々で子を産み育てていきました。

 その様はちょうど旅先のベツレヘムで子を産み、追っ手を逃れてエジプトへと移り住んだマリアそしてヨセフの姿と重なります。おそらく初期の教会では降誕の出来事を受難の始まりとして、自らの信仰生涯と重ね合わせて受け入れたことでしょう。
 旅先で生まれ異国へと移り住み、語る言葉は故郷で受け入れられずに国を追われる生涯ですどれほど乏しく惨めな思いでしょうか。家族で逃げることができたならまだしも、弾圧によって両親が殺されたみなしごも数多とおりました(ヤコブ1:27)。しかし福音は神の子もまた迫害のただ中に生まれ、命を狙われて移り住み、みわざとお言葉のゆえに故郷を追われたことを伝えます。自分たちと同じ思いを味わわれた方が主キリストであるとは、初期のクリスチャンたちにとって慰めに満ち、恵み深い言葉だったに違いありません。

 現代の日本では信教の自由が憲法に謳われており、キリストを信じていることによって法の上で差別されることはありません。しかし暮らしの中ではどうでしょう。クリスチャンの家庭に生まれれば、生まれる前から祈られ祝福されています。同時に、生まれながらにこの世と違うのです。幼いうち、あるいはずっとキリスト教系の学校を進んでいるうちはまだよいかもしれませんが、信仰というものを理解されず受け入れてもらえない場面が成長するにつれてどんどん増えてきます。それは生まれた家、自身の生い立ちそのものが否定されるのですから、心が殺されるほどの思いをすることもあるでしょう。
 未信者の家に生まれ、後から教会に導かれる者のほうが多いかもしれません。みことばを通してキリストを受け入れたとき、その救いの喜びは非常に大きなものです。天使たちも共に喜びます。しかしその喜びを友人に語れば「神なんか信じてお前どうしたんだ」「宗教なんかやめておけ」と途端に水を差されます。洗礼を受けたいと親兄弟に告げようものなら「家を捨てるのか」「親や先祖を粗末にする罰当たり者」と罵られることもあるのです。

 生まれた国、育った土地で、キリストのゆえに人々あるいは家族から受け入れられないということをクリスチャンは経験します。これは福音が全世界へと広がり始めた当初から信仰の先人たちがみな通ってきたことです。私だけではないと知るとき、そこに慰めを感じます。何より私たちの救い主イエス様でさえ、その故郷において神の民イスラエルから受け入れられませんでした。この事実を伝える福音の言葉は、迫害や困難に直面するどの時代のどの国のクリスチャンにとっても恵み深い言葉です。
 
<結び> 
 アドヴェント、主を待ち望む期間を迎えております。約2000年前に神の子を地上にお迎えしたことを感謝しつつ、主が再び来られることを待ち望みます。
 イエス様が私たちと同じく、いや私たち以上に御名のゆえに苦しまれたので、私たちが困難に遭うときに同情をもって御父に執り成すことがおできになります。私たちのうちに与えれたご聖霊によって苦しみも呻きもご自分のものとして受けいれてくださいます。

 生まれながらに命を狙われ、国外逃亡や故郷からの追放さえも承知の上で、独り子の神が「人の子」としてお生まれくださいました。救いの手段をただ投げ与えるのではなく、悩み苦しみをともに負ってくださるためにキリストは世に来こられたのです。
 その口から出る恵み深い言葉に生かされながら、再び来られる日を待ち望みましょう。

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