「祝福を受け継ぐ」ペトロの手紙第一3章8-12節
2021年1月1日
担任教師 武石晃正
明けましておめでとうございます。
教会暦ではクリスマスをもって新しい一年を迎えます。私たちは神の国に属しこの地に生きる者として、ふたつの暦によって月日を数えます。本日から2021年へとこの世の暦が改まりました。
新しい年です。新しいという言葉の響きは私たちに何か良いものであるかと期待させるものです。しかし過ぎる2020年において、私たちは「新型」あるいは「新しい」と付されたものによって大いに困惑させられました。その困難は今も継続し、終わりが見えません。
目の前の現状を見ると憂うばかりかもしれませんが、確かに主が共におられ私たちを守り導いてくださいました。その証拠に今日この年の初めの日にも主は私たちを招いてくださり、私たちは神の御前に出ることができました。
2021年も主が私たちと共におられ、恵みを増し加えてくださることと信じます。この祝福を期待しつつ、使徒ペトロの手紙から取り次がせていただきます。
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担任教師 武石晃正
明けましておめでとうございます。
教会暦ではクリスマスをもって新しい一年を迎えます。私たちは神の国に属しこの地に生きる者として、ふたつの暦によって月日を数えます。本日から2021年へとこの世の暦が改まりました。
新しい年です。新しいという言葉の響きは私たちに何か良いものであるかと期待させるものです。しかし過ぎる2020年において、私たちは「新型」あるいは「新しい」と付されたものによって大いに困惑させられました。その困難は今も継続し、終わりが見えません。
目の前の現状を見ると憂うばかりかもしれませんが、確かに主が共におられ私たちを守り導いてくださいました。その証拠に今日この年の初めの日にも主は私たちを招いてくださり、私たちは神の御前に出ることができました。
2021年も主が私たちと共におられ、恵みを増し加えてくださることと信じます。この祝福を期待しつつ、使徒ペトロの手紙から取り次がせていただきます。
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1.使徒ペトロとその手紙について
初めに筆者である使徒ペトロについて思いめぐらせましょう。主イエス様の公生涯において、その当初から弟子として行動を共にしたガリラヤの漁師です(マタイ4:18-22)。ガリラヤ湖畔の町ベトサイダ出身で、イエス様の弟子となる以前はバプテスマのヨハネの門下にありました(ヨハネ1:35-42)。
実はイエス様もこのヨハネからバプテスマを受けたことで、表向きにはヨハネの弟子という身分にありました。というのも、当時のユダヤではシナゴーグと呼ばれる会堂や公の場所で神の教えを説くためには、いずれかの学派に属したラビである必要がありました。
バプテスマのヨハネはイエス様が公の働きに出られるにあたり、自分の手元にあった弟子たちを送り出しました。形式的にはバプテスマのヨハネからイエス様が暖簾を分けられたことになります。つまりイエス様とペトロは同じガリラヤ出身者であり、同じくヨハネの門下にあったということです。このガリラヤの漁師の信仰の土壌や聖書理解の素地は、エルサレムやユダヤ地方の人たちよりもはるかにイエス様の教えに親しみやすいものでした。
イエス様の教えの多くは当時の人々の間に伝えられていたことわざやたとえ話を用いられていますから、同郷のペトロにとっては息を吸い込むように吸収できたことでしょう。また息を吐くようにのびのびと自由に人々へ語り伝えることができたに違いありません。
ところで宇都宮上町教会の今年度の標語聖句の中に「新しいことをわたしは行う」とあります。幼子としてお生まれになった神の御子が数多くの「新しいこと」をなさいました。イエス様ご自身でなされたこともあれば、使徒たち特にペトロによって明らかにされたことも数々あります。
ガリラヤ湖畔の野辺で5000人以上の人々がパンと魚で空腹を満たされた時、配るにも余りを集めるにもペトロの姿がありました。嵐の晩、湖の上で主の招きに従って水の上を歩いたのもペトロでした(マタイ14:13-33)。もちろんほかの弟子たちもおりましたが、特にペトロを通して主は「新しいこと」をなさいました。
主が当局に捕らえて大祭司の屋敷で尋問を受けたあの夜、ペトロは夜明けまでに3度もイエス様のことを知らないと否みました(マタイ26:69-75)。この一面だけを取り上げるとペトロの失敗であると思われるかもしれません。しかし見方を変えると、この時どの弟子たちよりも最も主の近くにいたのがペトロだということです。
足りない、小さいと言われるとしても、信仰が彼の中に生きて働いていたことは確かです。このペトロの「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ16:16)との信仰告白の上に主はご自身の教会を建てられました。主はペトロのために祈り、「あなたは立ち直ったら兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22:32)と教会の働きを委ねられました。
本日お読みした「ペトロの手紙」が書かれたのは、イエス様が天にお帰りになってから30年ほど経った頃だと見られます。ローマ帝国の中でキリスト教への迫害が強まってゆく年代です。人々の信仰がなくならないように祈り、ペトロは励ましの言葉を贈ります。彼が語る傍らで兄弟シルワノが書き記し(5:12)、書簡として先々の教会へ届けられました。
録音技術がない時代、口述筆記は語られた言葉を保存する唯一の方法でした。単なる書き文字ではなく、読み上げるときそれが語り手その人の言葉として再生されるものです。ローマの郵便制度は利用できませんので、弟子の一人が伝令として遣わされます。
ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地(1:1)の長老たちの前で、この書簡はペトロ本人の声として読み上げられました。これを聞いて現地の筆記者が書き記し、周辺地域の教会へと送られます。シルワノの筆のものは更に次の町へと向かいます。
ペトロを通して語られたイエス・キリストの言葉が、書簡として先々の教会へ届けられました。後に聖霊の促しによって新約聖書の正典として納められ、今や世界中で翻訳を介して読み上げられています。そして今日この日本でも読み上げられました。
2.祝福を受け継ぐ
説教の題は9節のことばから取らせていただきました。前後の文脈も広く扱うほうがなお良いのですが、本日は年の初めにあたり祝福の部分だけ取り上げます。
「終わりに」(8)とは手紙の終わりや全体の結論ではなく、その前に告げられた一連の勧めについてのまとめを指します。2章18節以下にそれぞれの立場にある者たちへの勧告がありまして、その中心となる思いです。あれをせよこれをせよという枝葉の部分に対して、幹となる教えがここにあります。
ユダヤ教徒やローマ当局からの迫害が厳しさを増し、各地の教会が困窮しています。そこへ「わたしの羊を飼いなさい」(ヨハネ21:17)と役割を委ねられた羊飼いが羊の群れを導きます。「皆心を一つに、同情しあい、兄弟を愛し」(8)と続きますが、美しい言葉を並べているわけではありません。
羊は群れているうちなら外敵が襲ってくる隙がなく、羊飼いの目もよく届きます。しかし群からはぐれてしまうと、たちまち野の獣や盗人の餌食となるでしょう。12弟子の中でも悲しいことが起きました。イエス様に仕えているものの「だれがいちばん偉いか」(ルカ9:46)との議論が起こり、常に彼らの関心事でした(マルコ10:41-44)。押し合いへし合いで心が一つでなくなった弟子たちの間には、サタンが入るだけの隙間がありました。
同情しあい、兄弟として愛し合っていれば立ち返る余地も残されます。3度も否むという背信を犯したペトロがまさしくそれにあたります。「神にできないことは何一つない」(ルカ1:37)との御告げとともに処女マリアに宿られた神の子は、「人間にはできないことも、神にはできる」(ルカ18:37)と言われました。この方にとって赦すことができない人はなく、十字架の血潮によってきよめることができない罪はないのです。私たち人間の目では到底赦されざる悪であっても、同情をもって迎えれば主が救ってくださるのです。
また「憐れみ深く、謙虚になりなさい」とペトロは続けます。私たちが何か優れたこと、神様の恵みと赦しに値することをしたからイエス様が十字架にかかってくださったのでしょうか。とんでもないことです。私たちが罪に対して全く無力であるので、ただ憐れみによって身代わりになってくださったのです。
「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません」(9)との勧告は、イエス様の山上の説教に通じます(マタイ5:38-42)。私たちは神の子どもとされていますから、どんなに立派な人だろうと神様から見れば子どもに過ぎません。いかに正しい言い分でも、やり合ってしまえばいわゆる子どもの喧嘩と見なされてしまうに違いありません。
やられたからやり返したのでは自分でその報いを得ることになりますから、天の恵みを受ける余地がありません。例えば友だちに玩具を取り上げられて悔し涙で帰ってきたのなら、この父は「よく我慢したな、今度またいいものをプレゼントしよう」と慰めてくれるでしょう。しかし仕返しをして帰ってきたなら、玩具も取られ、叱られるかもしれません。「かえって祝福を祈りなさい」と兄の立場でペトロが諭しているようです。
この手紙が読み説かれるすべての人に向けて「祝福を受け継ぐためにあなたがは召されたのです」と宣言されています。「そうすれば祝福されます」ではなく「受け継ぐ」のです。その時その時に祝福が注がれるのと違い、私たちのうちに祝福があるということです。むしろ私たちそのものが祝福の源になるので、そこにいるだけで周りが祝福されていくのです。なんと素晴らしい恵み、特権でしょう。
そして「召された」のですから、努力や功績によらず、神様からの一方的な選びによります。「この場所にいる人々を祝福したいので、あなたを選びました」と神様があなたを遣わされます。何か立派な行いをしなくてもよいのです。受け継いだ祝福を祈りましょう。
<結び>
ペトロは短い引用句を用いて教会とそこに集う人々を励まします(10-21)。詩編34編13-17節のようですが、少し言い回しが異なります。「詩編と賛歌と霊的な歌」(エフェソ5:19)と呼ばれる礼拝用の唱歌、いわゆる讃美歌の歌詞だとすれば、その中でも歌い継がれて誰でも口ずさむことができる愛唱の一節ということになりましょう。
この部分をもう一度声を出して読み上げまして、ペトロを通して語られた主のお言葉として結びます。
「命を愛し、幸せな日々を過ごしたい人は、舌を制して、悪を言わず、
唇を閉じて、偽りを語らず、悪から遠ざかり、善を行い、
平和を願って、これを追い求めよ。
主の目は正しい者に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。
主の顔は悪事を働く者に対して向けられる。」(10-12節)
2021年も主の目が注がれ、祈りが聞かれ、幸せな日々を過ごすことができますようお祈りいたします。平和を願い、祝福を受け継ぐ者として歩ませていただきましょう。