「揺るがない希望」コリントの信徒への手紙第二1章3-11節
2021年1月3日
担任教師 武石晃正
明けましておめでとうございます。
元旦には12名の出席者をもって主の前に礼拝が行われました。コロナ禍のさなかにも関わらず、礼拝によって新年を迎えることができたことを感謝します。
教会暦ではクリスマスをもって新しい一年を迎えます。私たちは神の国に属しこの地に生きる者として、ふたつの暦によって月日を数えております。本日は2021年の最初の主日ですので、新年礼拝として主の招きに応じて集まっております。
新しい年です。元旦礼拝でも申し上げましたが、新しいという言葉の響きは私たちに何か良いものであるかと期待させるものです。しかし過ぎる2020年において、私たちは「新型」あるいは「新しい」と付されたものによって大いに困惑させられました。
その困難は今なお終わりが見えません。しかし振り返ってみますと確かに主が共におられ私たちを守り導いてくださったことを覚えます。主の導きをいただき、互いに知恵を寄せ合いながら2020年は主日礼拝を公の礼拝として休むことなく捧げられました。
2021年も恵みを増し加えられると、主にあって希望をいただいております。使徒パウロが困難を覚えながらも教会を励ました書簡から、私たちも希望の確信を受けましょう。
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担任教師 武石晃正
明けましておめでとうございます。
元旦には12名の出席者をもって主の前に礼拝が行われました。コロナ禍のさなかにも関わらず、礼拝によって新年を迎えることができたことを感謝します。
教会暦ではクリスマスをもって新しい一年を迎えます。私たちは神の国に属しこの地に生きる者として、ふたつの暦によって月日を数えております。本日は2021年の最初の主日ですので、新年礼拝として主の招きに応じて集まっております。
新しい年です。元旦礼拝でも申し上げましたが、新しいという言葉の響きは私たちに何か良いものであるかと期待させるものです。しかし過ぎる2020年において、私たちは「新型」あるいは「新しい」と付されたものによって大いに困惑させられました。
その困難は今なお終わりが見えません。しかし振り返ってみますと確かに主が共におられ私たちを守り導いてくださったことを覚えます。主の導きをいただき、互いに知恵を寄せ合いながら2020年は主日礼拝を公の礼拝として休むことなく捧げられました。
2021年も恵みを増し加えられると、主にあって希望をいただいております。使徒パウロが困難を覚えながらも教会を励ました書簡から、私たちも希望の確信を受けましょう。
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1.異教文化のただ中にあったコリントの信徒たち
私たちの救い主イエス・キリストが、復活後に多くの弟子たちに現れてから彼らの見ている目の前で天へ昇られました。ペンテコステの日に天から聖霊を与えられた弟子たちは、イエス・キリストの十字架の福音を携えてエルサレムからユダヤ、サマリアへと宣教に遣わされました。ナザレの一派と呼ばれた弟子集団は主に召された者として教会を名乗るようになりますが、一方でユダヤ教側から異端あるいは背教者と見なされて厳しい迫害を受けるようになります。
クリスチャンを捕えて牢に入れるという迫害の先陣にサウロという男がおりました(使徒9章)。ところがこのサウロがダマスコの町へ向かう途上で主が彼を照らし、サウロはダマスコで回心しました。もともとユダヤ教のラビだったサウロはユダヤの会堂を中心に第一回、第二回と小アジア半島からギリシャにかけて福音宣教の旅を重ねていきます。
福音の働きがギリシャへ達すると、そこはまったく異教の神々が満ちている場所でした(使徒17:16)。アテネからコリントへと使徒パウロは歩みを進め、そこで異邦人への宣教へと道が開かれます(使徒18:6)。
ユダヤの会堂であれば旧約聖書があるので、律法と預言者によって示されていた救い主がナザレのイエスであると説くことができます。しかし全くの異文化、異教徒への宣教は天地創造の主であることから噛み砕いて説かなければなりません。先へ先へと旅を続けたパウロにしては珍しく、コリントの町では1年半もかけて「人々に神のことばを教えた」(同18:11)のでした。
その甲斐あって、コリントではイエス・キリストを信じる人たちが増えていきました。パウロの不在時にも使徒ペトロやアポロという教師が関わることで、教会はどんどん大きくなりました。しかし大きくなると同時に難しさも増えました。
地理的にコリントは南北の陸運と東西の海運を結ぶ交易の要所であったので、経済や産業が発展すると共にあらゆる国と地域から様々な文化が流れ込む場所でした。単にギリシャの神々を祀っている異教の土地というだけではなく、ギリシャの中でも道徳的な乱れが目立った町だったと言われています。
富と権力が幅を利かせている社会の影響はコリントの信徒たち中にも根深く残っていました。聖書の言葉やキリストの福音を理解するにも、彼らが育ってきた文化や価値観による解釈が入ります。人数は膨らみましたが分裂分派の危機があり、富める者とそうでない者の格差があり、道徳的な乱れも含めてパウロを非常に悩ませるものでした。
現代の東アジアにも多神教の異教文化を背景に持ち、交易と産業で経済発展を遂げた国があります。道徳的にはコリントほどには乱れていなくとも、全世界から文化と情報が流れ込み溢れんばかりです。コリントの信徒たちを取り巻いていた環境は、現代日本にも通じるところがあるかもしれません。
2.困難の中でも揺るがない希望
コリントにおけるパウロの宣教は一筋縄にはいきませんでした(使徒18:9,10)。それだけにこの使徒のコリントの信徒たちに対する思いは深いものでした。パウロにしては長い書簡が2通も聖書に収められており、ほかに1通あるいは2通の手紙が送られました。
ユダヤのラビは神の民イスラエルの中で律法と預言者のことばを説き明かす者でしたから、全くの異邦人に対して伝道するということはもともと想定されていません。世界中を飛び回って改宗者を作っていましたが(マタイ23:15)、それはあくまでも国外に離散して現地の宗教や文化に埋もれてしまった同朋を立ち返らせるというものでした。ですからパウロにとってもコリントの人たちへの宣教はこれまでに経験したことも想定したこともない働きで、何もかもが手探りで模索しながら進められたことでしょう。
様子を伺いながら事を運ぶその姿を見て、ある人たちはパウロについて「手紙では重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」(10:10)と揶揄するのです。あるいはパウロにしても「あなたがたを愛すれば愛するほど、わたしの方はますます愛されなくなるのでしょうか」(12:15)と、気持ちが伝わらず、施した配慮への理解を得られないことに心を痛めています。
ことば一つで誤解を生じかねない、あるいは既に一部の人たちとはすれ違いになっている間柄です。またコリントの人たちの間には分派が起きやすい性質がありました。お互いのことに目を向ければアラばかり見えてしまうものです。しかしパウロは、自身が疎遠にされていたと感じた悲しみをコリントの人たちも感じていたのではないかと汲み取り、慰めの祈りをもって挨拶を送っています。
「わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように」(3)と天を仰ぐよう促し、その慈愛と慰めを思い起こさせます。苦難の中にいる「わたしたち」に与えられる慰めが、「あらゆる苦難の中にある人々」(4)すなわち「あなたがた」の慰めになるのだと、苦しみも慰めも共にするものと結びあわせる祈りです。
「あなたがたについてわたしたちが抱いている希望は揺るぎません」(7)と思いの丈が告白されます。苦しみも慰めも主のために受けたものであり、離れていてもお一人である主につながっています。同じ主につながっているので、誰かの苦しみも自分のものとして担うことができ、その人が慰めを受けるとき私の心も慰められるのです。苦しみも慰めも共にするとき、その中心に主がおられます。わたしたちの間に神である主がおられるのですから、希望が揺るぐことなどないのです。
この希望の確かさを裏付けするように、パウロは自身が被った苦難について証しをしています(8-10)。11章にはパウロが受けた数々の苦難が述べられていますが(11:23-28)、例えばルステラでの暴動でも投石によってパウロは殺されかけました(使徒14:19)。「神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救い出してくださったし、また救ってくださることでしょう」と、受けた恵みが将来への確証へと結ばれていきます。
「あなたがたも祈りによって援助してください」とパウロはコリントの人々を自身の働きへと招き入れます。もちろん祈って支えてもらいたいという思いはあります。むしろコリントの人たちが祈りによって苦難を共に担うことで、慈愛に満ちた父の豊かな慰めを味わってほしいというパウロの願いです。
悩み苦しみは避けられるものなら避けたいところですが、苦難を通していただくことで主の慰めや癒しを体験することになります。これらは知識として持っているだけでは、何の助けにもならないでしょう。信仰をもって歩み出し主の慰めをいただく中で、一つ一つの恵みがわたしたちの内にある希望を確かにしていきます。
3.「神が我々と共におられる」ことの希望
最後に、主イエス様のご生涯について思い起こしたいことがあります。イエス様ご自身というよりも、ご降誕にかかる一連の出来事としてエジプトへの避難したマリアとヨセフのことです(マタイ2:12-15)。東方の学者たちが帰った後、天使の御告げを受けたヨセフは幼子とその母を連れてエジプトへ向かいました。
次に御告げがあるまでエジプトに滞在せよと命じられたものの、それが何か月先なのか何年先なのか見当がつきません。現地には離散して定住した同朋のユダヤ人が住んでいるは言っても、故郷を離れ旅支度のまま異国の地へ移り住むのです。またエジプトにいれば安全ですが、ヘロデに命を狙われていることには変わりありません。
いつまで続くか分からない困難です。命の危険という不安感がいつも心の片隅をくすぐります。しかしヨセフとマリアの間には「神は我々と共におられる」という希望がありました。聖霊によって宿り幼子として生まれた方がおり、御父の目が注がれているからです。
この幼子が私たちの救い主となってくださり、御父の目はその愛する者たちへと今も後も変わらず注がれています。さらに私たちの内には主の聖霊が与えられているのです。父子聖霊による二重三重の御守りが備えられていますから、救いの希望は揺ぎません。
<結び>
年始のニュースではコロナ禍による神社への参拝者の減少について報じられています。改めて異教の神々を拝む人々の中に住まわされていることを覚えつつ、コリントの信徒たちが感じていた困難さと重なる思いがいたします。
私たちは昨年に引き続き新型コロナウイルスの蔓延という不安に直面しつつ、各々に悩み苦しみを抱えながら毎日を過ごしています。しかし困難を通ることによって、主にすがる思いが強められ、いただいた恵みをより多く数えることができることも知っています。
時が良くても悪くても神様が私たちと共におられ、いつも守ってくださるという希望をしっかりと握って2021年も歩ませていただきましょう。