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「天の国は近づいた」マタイによる福音書4章12-17節

2021年1月24日
担任教師 武石晃正

 主イエス様の足取りをたどる降誕節も5週目となりました。四旬節あるいは受難節を迎えるまで、主に公生涯の初期のお働きを福音書から読み進めております。
 キリストとはどなたであるのか、本日はガリラヤで宣教を始められた箇所から探って参ります。

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1.ガリラヤでの宣教
 洗礼者ヨハネからバプテスマを受けたイエス様は荒れ野で40日の断食をされた後、しばらくユダヤ地方で働きをなされました(ヨハネ3:22以下)。この時点ではまだイエス様ご自身の働きとしてではなく、ヨハネの門下におられたようです。
 ヨハネが領主ヘロデに捕らえられ、その弟子集団は解散します。またイエス様ご自身もユダヤ地方でファリサイ派との衝突を避ける目的もあって、ガリラヤへと退かれました(12)。しかし故郷ナザレには長く留まらず、ガリラヤ湖畔のカファルナウムの町へ移り住まれました(13)。ナザレでは敬われなかったこともありますが、むしろ4人の漁師を探し出す目的があったためだと言えましょう(18-22)。

 このガリラヤという地方について、マタイによる福音書は旧約聖書からイザヤ書の預言を引いて説明を加えています(14-16)。ゼブルンとナフタリはイスラエルの12部族の名前で、その当時はキネレテ湖と呼ばれていたガリラヤ湖の西側に割り当て地を持っていました(巻末地図「4統一王国時代」参照)。
 ダビデ王によって樹立された統一王国も3代目において南北に分裂してしまいました(列王上12章)。南ユダは2部族、北イスラエルは10部族と12の部族が仲たがいしたのです。北王国は首都を置いた町の名前からサマリアと呼ばれるようになりますが、更に北にある「湖沿い」「かなたの地」と呼ばれる地方は湖の名前からガリラヤと呼ばれました。

 北王国では農耕や経済の繁栄を求めて積極的に異教の神々を取り込むようになりました。古代では国や民族と宗教というものは切り離すことができませんので、民族を越えた婚姻も増えていきます。土地に名前は残っていても、もはや血筋を辿ることができなくなります。主に立ち返る道筋さえ見失われ、神の民でありながら契約にも祝福にも属さない「異邦人」とまで呼ばれる次第です(15)。
 そして北王国をアッシリア帝国が攻め落としたことで、決定的に10部族は失われたものとなりました(BC722)。追って南王国も主なる神様へのそむきが高みに達し、懲らしめとしてバビロン捕囚の憂き目に遭います(BC586)。捕えられて引かれて行った者あり、エジプトや周辺地域へ離散して逃げおおせた者あり、ユダとベニヤミンの2部族は根絶やしにされずに済みました。

 捕囚から帰ってきた人たちはまずエルサレムを建て直しますが(エズラ記、ネヘミヤ記)、12部族をもって神の選びであるという契約も思い起こされます。ヤコブの子ら、12人の族長たちはみな兄弟です。兄弟の部族の名前が再び興ることを願って、心ある人たちが失われた10部族の割り当て地を取り戻そうとしました。
 ユダヤ人の移住を受け入れなかったサマリアとは、福音書にも見られるように争いや反目が残りました。ゼブルンとナフタリを含むガリラヤにはユダヤ人が住みつくことができたので、例えば南のベツレヘムに本籍がある王家の末裔がナザレに住んでいるという場面が福音書に見られることになります。

 イザヤの預言が記された時点ではガリラヤはエルサレムから見て最果ての地、「暗闇に住む民」「死の陰の地に住む者」(16)と呼ばれました。しかしイエス様がおられた年代では、イスラエル全12部族の回復を待ち望んで移り住んだ人々の子孫が暮らしています。そして異邦人と呼ばれる現地の人たちにも、ごく薄いかもしれませんが10部族の血が流れているかもしれないのです。
 メシアは預言者によって「ダビデの子」と呼ばれています。ユダ族から出た王ですが、統一王国を治める王です。神の国イスラエルを建て直すため、主は族長の数に合わせて12人を使徒として呼び寄せました(10章)。ある場面では「わたしは、イスラエルの失われた羊のところにしか遣わされていない」(15:24)とも語られています。

 ヨハネの弟子としてのユダヤでの働きを終え、イエス様はメシアとしてご自身の働きをガリラヤで始められました。「イスラエルの聖なる神」(イザヤ43:3)として、失われて滅んでしまったように見える人々に対しても、大きな光を照らすためガリラヤでご自身を示されました。

2.天の国は近づいた
 このガリラヤでご自身の民イスラエルに告げ知らされたお言葉が「悔い改めよ。天の国が近づいた」との呼び声です。イエス様に先立って洗礼者ヨハネが荒れ野で叫んでいたのと同じ文句です。ヨハネの教えを心に留めていた人がこの言葉を聞くなら、この声の主が「わたしの後から来る方」(3:11)と示されていた方であると分かるのです。
 本日の後半は、ヨハネとイエス様がイスラエルへ伝えた「天の国は近づいた」という呼びかけの言葉を掘り下げてみたいと思います。

 まず「天の国」の天という語は一般的には文字通り大空であり、太陽や月星が動いてゆく空間を指します。しかし聖書の中では特別な用いられ方があります。創造主である神様その方を指す意味で「天」という語が用いられるのです。
 これは律法つまり旧約聖書に書かれている教えを伝統的に守っているユダヤの人たちの用い方で、神聖なお名前を口にすることを避ける表現です。「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」(出エジプト記20:7)という十戒の教えに代表される掟です。
人の手の届かない、人知を超えた高みを指して「天」と呼び、そこにおられる唯一なる方を「天」の一語で示しました。ですから「天の国」とはすなわち「神の国」あるいは「主の国」と同じ意味で読み替ができます。

 次に「国」という語は「王国」と訳すことができる単語が用いられています。そしてそれは地理的な国土を指すだけでなく、支配者の権威が及ぶあらゆる領域を意味します。領土、領民、主権、経済そのほか支配者が持ちうるすべてを含んでいます。支配者の「力」そのものと考えてよいでしょう。
 したがってマタイによる福音書における「天の国」とは、遠く空の果てにある雲の上あるいはお花畑といったような来世的な「天国」と呼ばれるものとは様子が違います。天地の創造主でありイスラエルを贖う方が支配される領域を意味し、イエス様のたとえ話においては神様のご意思を指して用いられます。

 そして 「近づいた」とは、すぐそこまで来てしまっている状態を表します。玄関先までお客様が既にお見えになってしまった、という場面が思い浮かびます。しかしお客様ならまだよいのですが、近づいたのは「天の国」神ご自身の支配です。ご自分の民を取り戻すため「イスラエルの聖なる方」が実力行使に撃って出られ、その矛先が目の前に迫っているのです。
 かつてイスラエルが約束の地カナンに初めて攻め入った際、エリコという町での出来事を思い起されます。エリコには神の民が迫っていましたが、城壁に囲まれた町の人々はなすすべがありませんでした。イスラエルが鬨の声を上げるや城壁は崩れ落ち、町は一気に滅ぼされてしまったのです。あらかじめ神の民と和解をしていた1家族を除いては。

 天の国が近づいてしまったのですから、神様の力の前に人間はあらがう術はありません。ですから滅ぼされてしまう前に「悔い改めよ」と命じられているのです。ヨハネを通してユダヤに叫ばれ、イエス様がガリラヤへ呼ばわりました。こうしてイスラエル全土へ「天の国が近づいた」ことが告げ知らされました。
 神の子ご自身が既に世に来られていますから、もう後はありません。「悔い改めよ」とは「心を入れ替えよ」という単なる説得ではなく、むしろ「神の前に降伏せよ」との最後通告のように響きます。ヨハネが「斧は既に木の根元に置かれている」と告げたとおりです。
 聞き入れて素直に降伏する者は、武器や手に持っている者を手放します。ガリラヤの漁師たちが持っていた網を手放してイエス様に従った姿が、まさにここにつながります。

 こうしてイエス様はガリラヤで宣教を始めることにより、ユダヤ人だけでなくご自分の民全体の贖い主であることを示されました。そしてたとえ異邦人と呼ばれるような者であっても、悔い改めるなら滅びを免れることができるのです。


<結び> 
 聖書はイエス様がお生まれになったところから「新約」と呼ばれています。しかしその時点からすぐに新しい時代に切り替わってしまっていたなら、それ以前の神様の約束が果たされないまま捨て置かれてしまったことでしょう。もしそんなことになれば「わたしのほかに救い主はいない」とのおことばも反故にされ、わたしたちは聖書の言葉を何一つ信じることができなくなってしまいます。
 イスラエルを決して見放すことがない、約束を決して破ることがない方であるので、分け前にあずかる私たち異邦人もその確かさを信頼することができるのです。

 主イエス様はイスラエルの失われた羊に向かって「天の国は近づいた」と呼びかけ、ご自分の民を呼び集められました。その後、十字架上で「成し遂げられた」(ヨハネ19:30)と先の契約が果たされたことを宣言されました。イスラエルへの約束が果たされたので、今度はそれ以外の民にも恵みの扉が開かれました。
 神に似せて作られたすべての人類に「天の国は近づいた」と呼びかけられています。イエス・キリストを救い主として信じ、罪を悔い改めるなら、天の国のほうからわたしたちに恵みをもって近づいてきてくださいます。

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