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「天の国の掟」マタイによる福音書5章17-20節

2021年1月31日
担任教師 武石晃正

 世の中は受験シーズンの真っ最中とのことで、学生の時分を思い返しました。進学や就職という目標へと向かっているには違いないのですが、勉強しなければならないと強いられると気分が重くなったものでした。
 日常生活全般におきましても、「しなければならない」と押し付けられたり「こうあるべきだ」と決めつけられたりするのはあまり心地よいものではありません。「成功するといいですね」「うまくいくかやってみましょう」と期待や励ましをかけられると、不思議と元気が湧いてきます。実際によい結果を出せることもあれば、だめでも次につながります。

 教会は聖書について「信仰と生活との誤りなき規範なり」と告白しています。しかしその聖書には「しなさい」「ねばならない」という命令文がいかに多いことでしょうか。主がどのような思いで「掟」を与えられたのか、イエス様の教えから探ってみたいと思います。

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1.天地が消えうせるまで有効な掟
 この箇所はイエス様の宣教活動の中で初期のことになります。山上の説教として知られる一連の説教の中で語られたとマタイによる福音書は示しています。8つの幸い(2-10)や地の塩と世の光(13-16)の教えは、人々にとって新鮮な響きがありました。イエス様がそれまでに各地でなされた癒しのみわざと相まって、人々の間には様々な憶測が飛び交います。
 そこでイエス様は「わたしが来たのは」と口を開き、ご自身が世に来られた目的を説かれます。「律法や預言者を(略)廃止するためではなく、完成するため」に来られたのです。「律法や預言者」とは今の聖書における旧約聖書と言ってよいでしょう。

 旧約聖書の預言者の書にはイスラエルの救いの成就として、その一つに新しい天地の創造が示されています(イザヤ65:17など)。また主なる神様がイスラエルと新しい契約を結ぶとも書かれています(エレミヤ31:31)。ですから救い主メシアが現れたことによってそれまでの「律法や預言者」が廃止されるのではないか、と人々は考えたのでしょう。
 実はこのような誤解をしたのはこの当時のイスラエルの人たちばかりではありません。この出来事から数十年の後に福音書が書かれましたが、その当時の教会の中にも「イエス様がお生まれになったのだから、預言者や律法の役目は終わったのだ」と考えた人たちがいたようです。そのため福音書はイエス様のおことばとして記しており、また使徒パウロも書簡の中で「キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために」(ローマ10:4)と言っています。律法が有効であるからこそ、キリストの救いが変わらず確かなものであると示されます。

 実にイエス様は「すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない」と、神様の救いのご計画が確かなものであり、そのご愛は変わることがないことをお示しになりました。

2.律法学者やファリサイ派の人々の義
 さて、福音書においてもっぱらイエス様の論敵として登場する「律法学者やファリサイ派の人々」ですが、実際にはどのような立場の人たちだったのでしょう。彼らの義にまさっていなければ天の国に入ることはできないとはいったい何を意味するのでしょうか。

 この人たちはいわゆるユダヤ教の指導者でした。時代をさかのぼること更に数百年、南ユダ王国は攻め落とされてバビロン捕囚の憂き目に遭います。エルサレムが陥落して神殿も崩されましたので、神殿や儀式を中心とした礼拝を続けることができなくなりました。囚われた先や離散した先でも神の民として生きていくために、ユダヤの人たちの信仰は律法という掟のことばを重んじるようになりました。
 ところが捕囚先のバビロンあるいは離散先のエジプトなどは、全く異教の世界です。そのただ中に置かれてしまうと、創造主である神様からいただいた掟のことばを理解しようにも、取り巻いている異教的なものが入り込もうとするのです。「ほかに神があってはならない」と信仰の純粋さを保つため、律法そのものを間違いなく書き写す写本の技術と、それらを解釈するために伝承が形作られて行きました。

 バビロン捕囚からの解放後も、帰還したパレスチナは異邦人が占領しています。ユダヤの人々は更にギリシャ、ローマという異邦人の支配下に置かれ続けました。律法を正しく実践できるようにと数々のきまりが付け加えられ、律法学者らがそれを指導しました。
 異邦人によって汚され、また罪がはびこる時代から身を清めようとする一派も起こります。きよさを求め、罪やけがれを切り離そうと熱心な人たちです。「分離する」「切り離す」
という動詞から転じてファリサイ派と呼ばれる一派が現れました。

 どちらももともとは神様からいただいた掟、律法を正しく守り行おうという姿勢から発生したものです。イエス様と対立した人たちも、当人としては熱心に律法や掟を守ろう真面目に歩んでいました。聖書をよく知っていて、皆さんのため大きな声で祈ります。病人がいれば見舞いに行き、神様への捧げものも率先して携えていきます。ユダヤの人たちからも尊敬され、慕われていた人たちです。
 ところが彼らは受け継がれた伝統を大切にするあまり、伝承やきまりごとを守るために律法を読むようになりました。伝統にそぐわない箇所は省かれたり、曲げて解釈されたりするのです。しかし伝統に基づいていますから、彼らとしては正しく解釈しているにすぎません。なぜケチをつけられるのかとナザレのイエスに腹を立てる次第です。

 「一点一画」とは律法が書かれたヘブライ語のヨッドという文字だと言われています。漢字のウ冠やワ冠の右端、ハネの部分のような形です。たったその1画があるかないかで時制や主語、文章の切れ方などが変わってしまい、全く違う意味にもなるそうです。
 「最も小さな掟」は「最も短い掟」とも訳すことができます。長い文章の間におかれたたった数文字による命令文かもしれません。しかし長くても短くても天の神ご自身がお与えになった命令ですから、人間の都合で勝手に省いてはならないのです。

 律法学者やファリサイ派の人たちは自分たちの伝統、あるいは熱心さをもって義としていました。もちろん伝統に照らすことは聖書を正しく読む助けとなります。その一方で信条や教理というものに固執してしまうと、聖書のことばを省いたり曲げたりしてしまう危険も生じます。
 せっかく聖書をいただいているのですから、わたしたちは天の国に入ることができる読み方を心がけたいものです。

3.天の国の掟
 天の国とは創造主なる唯一神の支配が及ぶ領域、神の所有とされたもの全般を含みます。そこに入るということは、御心に適っていると言い換えることもできましょう。
 聖書には命令や掟はたくさん書かれていますのでどこから取り掛かればよいのか、と糸口が欲しくなります。イエス様に「律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」と質問した人が福音書には登場します(22:36)。3つの福音書がそれぞれに違う立場の人を記していますので、恐らくもっともっと多くの人々が同じ質問したのでしょう。どれが一番大切な教えなのかと知りたくなる気持ちを神様はちゃんと受け止めてくださっています。

 「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である」とイエス様は申命記から示されました。教会学校の暗唱聖句や、掛け軸や色紙などに掲げられることも多い聖句の一つです。
 もちろんイエス様が仰っているので間違いはないのですが、「愛しなさい」と命令されて愛することができるものでしょうか。もし仮に「心を尽くすのだ、思いを尽くすのだ」と自分を強いるとするならば、それはもはや愛ではなく義務感です。義務感であればファリサイ派の人々の義と同程度であり、「天の国に入ることができない」と言われています。

 この一文だけを掲げると「一点一画」どころか前後がごっそり抜け落ちます。イエス様も「これだけ守ればよい」と答えたのではなく、律法全体と預言者が基づいている掟だと説かれました。申命記10章から前後を補いますと、モーセを通して「今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か」とイスラエルが問われている文脈です。その心は「主の戒めと掟を守って、あなたが幸いを得ること」であると結ばれています。
 つまり第一の掟は「神様があなたの幸せを願っておられるから、ほかのものに心を奪われてはならないよ」という祝福なのです。それをもって第二の掟を読むならば「あなたが神様に幸せを願われているように、あなたは隣人の幸せを願ってあげなさい」と通じます。

 人の目は標語のように分かりやすい言葉に留まりやすいものです。丁寧に聖書と向き合うとき、「一点一画」のように見落とされがちな御言葉に出会うことができます。「最も小さい掟」であっても神の口から出る一つ一つの言葉であり、わたしたちを生かす掟です。


<結び> 
 「まさっていなければ」と言われて善行や立派なそぶりを求めしまえば、せっかくの福音のことばも律法主義的になってしまいます。
 自分勝手な解釈を避けるため基本信条や信仰告白に照らしながら聖書を読むことは有益です。もし更に背後にある神様のご目的、あるいは神様がわたしたちに期待されていることまで汲み取ることができたらなんと幸いなことでしょう。

 律法と預言者を完成された方は、変わらない御思いから新しい掟を与えられました。
「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34)
 一点一画や最も小さい掟をも全うする、新しい天の国の掟です。

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