「いやし主キリスト」マタイによる福音書15章21-28節

2021年2月7日
担任教師 武石晃正

 早いもので2021年も月替わりのカレンダーは1枚目がめくられました。立春を過ぎ、朝夕ごとに日が長くなっていることを感じます。
 教会暦は主のご降誕を祝うクリスマスから始まり、概ね2月からレント(四旬節、受難節)に入ります。今はその間の降誕節として週を数えつつ、キリストとはどなたであるのか、特に旧約聖書に示されている神様からの約束のことばに照らしながら福音書から学んでおります。
 本日の箇所もまたイエス様がイスラエルとの関係をもって説かれており、かつ福音書は異邦人に向けて広くその恵みを示しております。

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1.ティルスとシドンの地方にて
 公生涯と呼ばれる3年余りの歩みのうち、初期あるいは前半は主にガリラヤ地方でイエス様は天の国を宣べ伝えられました。律法と預言者そして洗礼者ヨハネが示したメシアとして、「荒れ野で叫ぶ者」ヨハネが整えまっすぐにした道筋を進まれました。
 キリストが世に来られたのは「律法や預言書」すなわち旧約聖書の中で与えられている神様の約束を完成するためであると、イエス様ご自身が宣べられました(5:17-18)。当時のユダヤの人たちも求めていたように、イスラエルを救い出すということです。究極的には失われた部族も含め、12部族をもって神の民が回復されることで律法が完成されましょう。

 預言者によって語られたことばが実現されることによって、ナザレのイエスが来たるべきメシアであることの証拠とされます(11:5-6)。実際にイエス様を通して非常に多くの人々がガリラヤ中でいやされました(4:23-25)。
 また預言者のことばによりますと、神様はさばきの日の前に預言者エリヤを遣わしてご自身の民を破滅から守られます(マラキ3:23-24)。このエリヤはかつて神の民が北王国と南王国に分裂していた時代に、主に北王国へ遣わされた偉大な預言者です。洗礼者ヨハネこそそれであるとイエス様は重ね重ね弟子たちに告げられました。

 このエリヤはかつてパレスチナに3年半の大干ばつが起こったとき、神の民イスラエルではなく異邦人の土地シドン地方のサレプタへ遣わされました(ルカ4:25-26、列王上17章)。エリヤの再来である洗礼者ヨハネが敷いた道をナザレのイエスが進み、ティルスとシドンの地方へと遣わされました。今のレバノンのあたりの地域です(巻末地図6)。
 マルコによる福音書と読み比べますと、イエス様がこの地を訪れた目的が見えてきます。イエス様はそこで「ある家に入り」(マルコ7:24)ました。ユダヤのラビは異邦人の家に入ることはしませんので、この家は現地に定住しているユダヤ人のものでしょう。異国の地に移り住んだ神の民へ、「天の国が近づいた」と告げ知らせに行かれたことが分かります。

 家々を回らなければなりませんので道を急ぎます。人だかりができては先に進めませんので、人々に知られないようにユダヤ人の家を回ります。ところが現地の人たちに気づかれてしまい、そこへ娘が悪霊に苦しめられているという母親がやってきました(22)。
 助けを求める彼女に何も答えず、イエス様は先へ進みます(23)。冷たいように見えますが、イエス様はヨハネの門下にあるユダヤのラビという立場にあります。みだりに異邦人と付き合いをすることはありません。また一人を許せば次々と人々の求めに応じなければならず、本来の目的を果たせなくなります。

 気を揉んだ弟子たちがイエス様に願い出ます。「追い払ってください」とは少し強い響きを感じますが、「放す」「帰す」とも訳せる語が用いられています。弟子たちは以前ガリラヤのカファルナウムの町でイエス様がローマの百人隊長のしもべを癒されたことを覚えています(8:5-13)。
 百人隊長に「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように」とイエス様が仰ったちょうどそのとき、家で伏せていたしもべが癒されました。今回も同じように一言かけていただくだけで苦しむ娘は癒され、ついてくる女を引き取らせることができましょう。

 ところがイエス様は「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とご自身の役割だけを答えられました。弟子たちが二の句を継ぐより早く、カナン人の女はイエス様の前にひれ伏しました。

2.カナンの女の信仰
 この後に一つの短い問答を挟んで、イエス様はおことば一つでこの女性の娘をいやされます。結果だけ見ればカファルナウムのローマ人の時と同様の対応がなされ、弟子たちが願ったとおりのことが起こったことになります。

 このカナンの女とイエス様との問答を探る前に、彼女の信仰に対するイエス様の評価を見てみましょう。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ」(28)と言われています。
 ここで「立派だ」と訳されている語は当時のことばで「大きい」という意味のメガスという形容詞が用いられています。現代の外来語やカタカナ語でも「メガ」とつくことばにも通じるように、単なる大きさではなく質や量を伴う大きさです。英語ではgreatが訳語に挙げられますから、「まぁ、立派」「よくできたね」との驚きや感動が含まれるでしょう。

 さて一言ずつ交わされた問答は「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とのイエス様のお言葉によります。子供とは神の家の子供、イスラエルのことです。小犬は異邦人を指しています。飼い犬で生活は共にしていますが、子供ではありません。いくら可愛がっているワンちゃんでも、お子様の食事のほうが最優先だということです。
 門前払いをされたような言葉で返されても、この女の人はその言葉の下に身を置きます。子供のパンを狙っているのではなく、主人からいただくものを待っているのだと主張します。主人に「待て」と言われたら、家族の食事が済んで残り物が下げられてくるまで「待て」ができるワンちゃんだと言うのです。

 もし弟子たちが願った時点でお言葉を与えてしまったら、やかましい野良犬にパン屑を投げつけて追い返したようなものです。その野良犬は空腹を覚えればまたあちらこちらへとうろつきまわることでしょう。
 しかし物欲しげな表情はしていても、自分の番が来て「ヨシ」と言われるまでワンちゃんがお座りして待っているとしたら、その姿を皆さんはどう感じますか。そんなに健気でお利口さんなワンちゃんだったら可愛くて仕方ないでしょう。

 子供より後回しにされようとも、「よくできたね」「お利口さんだね」と褒めてもらうことができます。そして主人の食卓からお下がりをもらうのです。投げつけられたパン屑ではなく、残り物でも十分なだけの食卓の恵みにあずかります。
 小犬だと言われたカナンの女は、小犬は小犬でもイスラエルの家の飼い犬あると受け答えました。これをイエス様は彼女の信仰と認めました。イスラエルの家の下に身を置いたのですから、そこは神様の権威が及ぶ領域つまり「天の国」なのです。

 こうして異邦人にも天の国が近づき、ひれ伏し拝むカナンの女に恵みが注がれました。キリストの恵みの言葉をいただいて、女も娘も救われました。

3.いやし主キリスト
 キリストが世に来られた目的は第一に旧約聖書で示された神様のおことばを実現することにあります。ナザレのイエスが救い主メシア、キリストであることのしるしとして癒しのわざがなされました。
 洗礼者ヨハネが獄中から弟子を遣わして「来るべき方は、あなたでしょうか」(11:3)と尋ねたとき、イエス様は癒しのわざがしるしであると預言者のことばを示されました(イザヤ35:5-6ほか)。イスラエルの聖なる方はご自分の民を単に救い出すばかりでなく、新しい創造のわざとして回復されます。魂をきよめ、肉体をいやす救い主です。

 いやし主としてのキリストのわざには二つの面があると言えます。一つは先に述べたようにしるしとしての奇跡です。神様から遣わされたことしるしとして、預言者やキリストご自身、使徒たちなど特定の者に付与されるものです。病をいやすばかりでなく、死者をよみがえらせ、生まれながらに失っていた機能を与える奇跡のわざです。創造主なる神様わざが瞬時に行われます。
 もう一つは救いの恵みとしてのいやしです。人間は“からだ”と“たましい”の両方を備えて一人のヒトとして存在します。肉体と魂の分離は死を意味しますから、体だけの人や魂だけの人はおりません。キリストの救いの恵みもまた同様に、魂だけでなく肉体にも及びます。きよめの恵みといやしの恵みが継続的また漸次的に与えられます。

 この世に生まれた肉体のほうは早かれ遅かれ死を迎えます。肉体を通して病も傷も、あらゆる試練にも遭われたイエス様だからこそ、わたしたちに同情し憐れみと恵みをかけてくださいます(ヘブライ4:15)。そしてこれは恵みですから、主が与えたいと願われるときに誰にでも与えられるものです。
 キリストは十字架の死によって罪を赦し、3日目のよみがえりによって永遠のいのちを示されました。イエス様はわたしたちの救い主であり、きよめ主またいやし主です。

<結び> 
 今年もまもなくレントを迎えます。主がその肉体によって受けられた試練や苦しみを覚える期間です。聖書はイエス様がお受けになった傷によって、わたしたちがいやされたと教えています(Iペトロ2:24、イザヤ53:5)。
 「天の国は近づいた」とご自身を示された神の独り子は、天の国の下に身を置く者を省みて恵みを注いでくださいます。キリストはわたしたちの魂の救いばかりでなく、肉体の弱さを思いやることができる大祭司です。
 この方から恵みをいただけるその時を期待し、心から信頼して待ち望みましょう。

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