「荒れ野の誘惑」マタイによる福音書4章1-11節

2021年2月21日
担任教師 武石晃正

 今年のカレンダーは例年とは違うところがありまして、その一つは祝日が変更されたことです。ほかにも2月の立春が例年より1日早まったことは記憶に新しいところです。
 これとは別に、年によって日付が変わる祝日は移動祝日(祝祭日)と呼ばれています。日本では祝日ではありませんが、イエス様の復活をお祝いするイースター(復活節)も移動祝日の一つです。

 主の復活をお祝いするに先立って、主が私たちのために負ってくださった苦難を覚えるレント(四旬節/受難節)の期間があります。レントはイースターからさかのぼり、日曜日を除いて40日を数えた「灰の水曜日」(今年は2/17)から始まります。
 世の中は移ろいやすく、生活の基準になるカレンダーさえ毎年のように変わります。移り変わる時代の中でも、イエス様のご愛は変わることがありません。神が人となられて負ってくださったお苦しみを福音書から思いめぐらせましょう。

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1.荒れ野の40日
 イエス様がおよそ30歳と見られていた頃、公のお働きを始められました。洗礼者ヨハネが捕らえられるまでの期間は、イエス様は故郷のガリラヤではなくユダヤかそれに近い南の地方でヨハネと同じ働きをしていました(ヨハネ3:22-24)。一派として働きをするにあたり、ヨハネたちと同じ荒れ野での生活に身を置かれることになります。
 そこで特に悪魔から誘惑を受けるために断食の40日間を定められました(1,2)。「誘惑を受ける」と訳されていることばは「試す」「試験をする」という動詞の受け身形です。語順としては「“霊”によって荒れ野に連れ出され」「悪魔によって試された」と記されており、神の子イエスにおいて神の霊と悪魔とが直接対決された様子が示されます。

 40日の断食が実際にどのようなものであるのか、想像もつきません。この40日という数字は聖書の中で、またイスラエルにとって非常に重いものです。天地創造の後に地上が悪で満ちたとき、神様は40日40夜の雨と洪水で大地をぬぐい去られました(創世記7章)。
 エジプトを脱出したイスラエルの民が約束の地を偵察したのも40日でした(民数記14:34)。彼らが主なる神様を信頼せずに背いたので、その日数に応じて40年の荒れ野での放浪が定められたのも40日でした。このように神に背く者への裁きや報いと深い関係を見ることができます。

 しかし40日は裁きばかりではなく、神様が恵みをお与えくださった出来事もありました。神の人モーセが雲に覆われたシナイ山で神様とお会いしたのも40日40夜でした(出24:18)。契約の板を砕いてしまい再びシナイ山で主と共にとどまったときも、40日40夜の間モーセは「パンも食べず、水も飲まなかった」とあります(出34:28)。神様が人類にご自身を現し、契約と掟のことばを授けてくださった日のことです。
 イエス様がどの思いから40日の断食に臨まれたのか、福音書には書かれていません。モーセのように父なる神様とお会いになったとの受け取り方もありましょう。裁きということでは、ご自身が負おうとされている罪の身代わりについて向き合われたと考えることもできるかも知れません。

 いずれであっても「悪魔から誘惑を受けるため」でありますから、40日間常に悪魔が横やりを入れて妨げようとしていたに違いありません。そしてこの断食の40日を終えたところへ、「誘惑する者」として悪魔がイエス様の前に現れたというところです。

2.3度の誘惑
 聖書に記されている限りでは、悪魔がイエス様と直接に言葉を交わしたのは荒れ野でのこの場面だけです。問答の順番に入れ替わりはありますが3つの誘惑はマタイもルカも同じ内容を記してています。40日もの断食において誘惑を受けられ、長い長い戦いがようやく終わったと思った矢先に、また悪魔やってきたというのです。
 悪魔の容姿について聖書から読み取ることはできません。しかし化け物や恐ろしい姿であるとか、見るからに悪人と思われるような人相や装いであれば、誰もが警戒することでしょう。言葉遣いや語り口調が挑戦的な人に対して気を許すことはありませんが、穏やかで丁寧に労わるように語りかけられたらつい耳を貸してしまうこともありましょう。

 少しだけ悪魔の言葉として脚色を入れてみます。「イエスよ、わたしはあなたが神の子であるとは知っていますが、まさか40日もの断食に耐えられるとは思いませんでした。私の甘言に乗らず、よくぞ成し遂げられました。ところで、断食の期間はもう終わりましたから食事にしませんか。私もあなたに付き添っていましたからヘトヘトで限界です。あなたは神の子なのですから、これらの石にパンになるよう命じてはいかがでしょうか」と。悪魔はなんとしてでも飲み食いだけのために神の力を使わせようと、罠を仕掛けるのです。
 「空腹を覚えられた」(2)とは小腹が空いたどころではなく、飢えを感じられたということです。自身も限界を覚え、また敵であろうと目の前の人物が自身と同じく疲労と空腹を訴えているとしたら、イエス様ならどうなさるとあなたは考えますか?いま思いついたいくつかの選択肢や可能性の中に誘惑があるかも知れませんね。

 もし仮に石をパンに変えただけであれば、そそのかされたことや目の前の人の必要のためという言い訳も成り立ちましょう。しかし悪魔の策略さはこの先にあるのです。40日の断食の直後で、荒野のただ中です。空腹だけなく喉も乾いており、ここには水がありません。どうしてパンだけを食べることができるでしょうか。
 石をパンに変えるところまでは仕方ないとしても、そそのかされてもいないのにご自分の意思で別の奇跡を行わせようとの誘惑です。モーセを通してイスラエルに与えられたように、神の子であれば岩から水を出すに違いありません。それこそ悪魔の思うつぼです。「ほら見ろ、こいつは自分の都合で神の力を使ったぞ。人の子として罪を贖うことはできないのだ」と。神が神でしかなければ人の罪を負うことができず、救いの道が閉ざされしまいます。

 主は聖書から「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」との言葉を引いて悪魔を退けました。神の子であっても人として歩まれたので、律法の下に身を避けることで守られたのです。
 ほかの2つの誘惑も実に巧妙です。聖書の言葉を用いて、悪魔はメシアの宣教が有利に進むような提案をします。高いところから飛び降りて天使たちが助けるのを見せたら、人々はきっと神の子であると知るでしょうと。

 また荒れ野でひれ伏したところで、誰にも見られることはありません。もし見られたとしても「あの時は空腹と疲労で倒れたところを助けてもらったのだ」と言い訳ができる場面です。十字架の死をも受け入れようというのですから、ちょっとひれ伏すぐらいの屈辱なら全人類の救いのために忍ぶことだってできましょう。
 しかし、神の子ご自身がただ主に仕えることを否んだら、その瞬間にこの世界の支配は創造主の手から悪魔の手に渡ってしまいます。のちに神の子とされた私たちが倣うようにと、イエス・キリストは聖書の言葉を用いて誘惑に勝たれました。紙一重のところに誘惑が仕掛けられますので、「蛇のように賢く、鳩のように素直に」なることが求められています(16:10)。

3.試みに遭わせず悪より救いい出だしたまえ
 キリストは荒れ野での40日間の誘惑に遭われた末に、追い打ちのような試練を受けられました。精神的には極限に追い込まれた中での判断、信仰が試されました。私たち人間の意思に委ねられている判断と、神の子だから辛うじて勝ち得た試練の違いもあるでしょう。
 肉体をもって生きる私たち人間がどれほど誘惑に弱いものであるのか、その限界まで試された方ご自身が祈りの言葉を与えてくださいました。その一つが「主の祈り」です。その一節に「我らを試みに遭わせず悪より救い出したまえ」とあります。何も苦難のない平穏無事な生活を祈れと言われているのではありません。試練というものがどれほど恐ろしいものであるのか、紙一重で立ち行かないこともありうる危うさを神の子が知っておられるのです。他の人にとっては些細なこと、そんな誘惑にも負けているのか思われることもあるでしょう。しかしその人にとっては神様との間でしか解決することができない試みもあるわけです。

 私たちが「主の祈り」をもって祈るのは、私もまたこの人もまた、主が救ってくださらなければ試みに耐ええない者であると知るからです。「我」ではなく「我ら」と共に生きる者として祈りの言葉を与えられた主は、40日間、その後3年余りの苦難の日々を歩まれました。
 どんなときでも私たちの苦しみや試練を受け止めて共に歩んでくださるために、自らが試みである誘惑に遭われてくださいました。その深刻さを十分に味わわれた主が、祈りの言葉をも授けてくださいました。


<結び> 
 ポンテオ・ピラトのもとで苦しめられ、十字架につけられた方は、死んで葬られました。しかし死んで終わりではなく、3日目の復活によって世と悪魔に勝利されました。
 キリストと共に生きるとき、弟子たちが困難に遭うことは主があらかじめ教えておられました。私たちは困難そのものを避けることができないとしても、困難の中で何を頼りとするのか、どなたにすがるのかが問われます。実に荒れ野の誘惑と同じです。
 誘惑も苦難も味わわれ、死をも打ち破った主イエス・キリストを仰ぎつつ、今年もレント(受難節)を歩ませていただきましょう。

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