「キリストの杯」マタイによる福音書20章20-28節

2021年3月21日
担任教師 武石晃正

 昨日(3/20)はこの礼拝堂においてみふみ認定こども園の卒園式が行われました。保護者の皆さんと職員の先生方に見守られながら、30名の園児たちが巣立っていきました。式次第の中では「卒園児お礼の言葉と歌」として、思い出の唱歌を交えながら「がんばったこと」などを述べる園児たちの立派な姿が印象的でした。
 大人になるにつれ、楽しいことや嬉しいと感じることのほかに苦しいこと辛いことも増えてくるように思われます。あるいは喜ばしいことや感謝すべきことがたくさんあるのに、困難や苦労ばかり心に留まってしまうということも私たちにはあるかもしれません。

 神様は私たちにいつも喜んで感謝できることを望んでおられますが、「せっかくこんなに良くしてあげているのにどうしてもっと喜ばないのか」などと責めることなどなさいません。イエス・キリストは救い主として罪を贖われたばかりでなく、私たちが感じる「辛さ」「苦しさ」という思いをもそのご生涯を通して味わい担ってくださいました。


PDF版はこちら

1.王座の右と左を求める弟子たち
 マタイによる福音書は20章の中ほどから、キリストの十字架までの最後の一週間に入ります(20:17以下)。イエス様は弟子たちをつれていよいよエルサレムへと向かおうという場面です。
 イエス様が洗礼者ヨハネの下で活動していた頃からの弟子に「ゼベダイの息子たち」と呼ばれる2人の兄弟がいました(20)。彼らはガリラヤ出身のヤコブとヨハネで、シモン・ペトロ仲間でした(4:12)。当時のユダヤでは庶民に苗字(姓)はなく、系図によって一族の名や父親の名で呼ばれていたということです。

 ここで突然のようにヤコブとヨハネの母親が登場しますが、実はイエス様の弟子は12人のほかにも大勢おり、女性たちの集団もありました(27:55)。その女性たちの弟子集団の中心にいたのがマグダラのマリアと主の母マリア、そしてゼベダイの子らの母でした。大工と漁師のおかみさんがイエス様ご一行の切り盛りをしていた様子が伺えます。
 その「おかみさん」の一人が息子たちを連れてイエス様の前にひれ伏したというのですから、それはただ事ではありません。なんとその願うところは、革命が成功した暁には息子たちに国を支配させてほしいということです。同じ出来事についてマルコによる福音書では息子たちが直接に申し出たように記されています。息子たちの将来を案じた母親の勇み足ということではなく、自分たち家族ほどイエス様のもとでお仕えしてきた者はいないという自負での現れでありましょう。

 「あなたがたは、自分が何を願っているのか分かっていない」(22)とのお言葉には、ご自身が進もうとされている道を弟子の誰にも理解されていないことへのイエス様の嘆きが感じられます。「杯を飲むことができるか」との問いは、実際には次の問答での「しかし」を導くための呼び水として投げかけられています。つまり「あなたがたの願っているものはわたしの知ったところではない」というのが、イエス様のお答えということになります。
 二人の弟子たちとその母親は肩透かしのように退けられましたが、他の10人の弟子たちは彼らに腹を立てたと言います。なぜ腹を立てたのでしょうか。「この大一番の前に何をお門違いの願いをして先生を困らせたのか」とイエス様を思ってのことでしょうか。そうではないようです。彼らもまた自分こそイエス様の右腕、左腕であると競い合っていたわけです。今回はたまたまゼベダイの息子たちだったというだけで、ほかの誰が同じ願いをしてもおかしくないのです。

 この問答の直前までイエス様は12人を呼び寄せておられましたが(20:17)、もう一度この弟子たちを呼び寄せられました(25)。「いいかお前たち、頼むからもう一回ちゃんと話を聞いてくれ」と、3年余り寝食を共にしながらも伝わらなかった思いを切々と訴えることになります。
 「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、 いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい」(26,27)との教えは、信仰者の歩み、奉仕者の心得として引用されることが多いものです。ところが、この言葉を発せられたときのイエス様のお気持ちとしては、どれほど情けない思いをされたことかと今さらながらに思わされます。


2.キリストの杯
 朗読された箇所だけ見ますと、弟子たちがいつものように誰が一番えらいのかと小競り合いをし、イエス様がいつものようにいさめられたという場面のようです。しかし、それまでとの大きな違いは少し前の箇所に示されています。

 エルサレムへと向かう途中、イエス様はご自身に付き従う多くの弟子たちのうち12人だけを呼び寄せられました。彼らは後に使徒と呼ばれ教会の礎となる人たちです。ガリラヤで宣教を始めたときからずっと一緒に歩んできた12人、何も隠し事をせず打ち明けることができる弟子たちです。
 この先ご自身に起こる出来事をとして「人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである」と告げられました(18,19)。これまでにもイエス様はユダヤの指導者たちから殺されそうになったことは何度かありますが、ここからは状況が全く変わるのです。

 ユダヤの祭りの時期になるとエルサレムとその一帯は治安を守るためにローマの兵士たちが普段以上に多く配置されました。特に過越の祭りはイスラエルがかつてエジプトから救い出された記念、すなわち建国記念日です。独立や解放を求めてユダヤ人が暴動をおこしかねないので、ローマの提督であるピラト自らが駐留して警護にあたりました。
 更にこの年の過越祭は「特別の安息日」(ヨハネ19:31)を迎えます。ユダヤの暦による過越の安息日と日常生活における週の7日目が重なるという、数年に一度の特別な過越祭です。メシアを求める民衆の期待感は爆発寸前、対するローマ兵は暴動を未然に防ぐべく都の外から厳重に警戒しています。

 祭りの期間に自らの手を汚したくないという思いはともかくとして、ユダヤの指導者たちは石打ちや突き落としという暴行が許されなくなります。従ってナザレのイエスを亡き者にするためには、ローマ人に引き渡して処刑させるしかありません。むしろ彼らはどんな手を使ってでも重罪人に仕立て上げることでしょう。
 投石によって打ち殺されるなど考えるだけでも恐ろしいことですが、ローマ兵の手に渡されたなら想像を絶するような苦しみが待ち受けています。ローマ人以外は人とも思わないような男たちが気晴らしや娯楽のように何日も何日も拷問し、その挙句に見せしめとして十字架で磔(はりつけ)にすることになります。

 「わたしの杯」とイエス様がおっしゃるところは、信仰のゆえに苦しめられながら殺されるということにあります。ゲツセマネの祈りと知られる祈りの中でも「この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と祈られています(26:39)。本当に恐ろしくて仕方がないという思いを受け止めてほしかったので、気の置けない弟子たちだけに苦しみを告げたのです。きっとこの仲間たちなら分かってくれるだろう、と。
 それなのに誰一人として耳を傾けませんでした。苦しめられて殺されるのだと命に関わる話をしているのに、自分の地位や名誉を求めてきたのです。イエス様はどれほど悲しい思いをされたことでしょう。惨めで情けない思いだったに違いありません。決して十字架や苦しみを代わってほしいと頼んだわけではないのです。ただ気持ちを受け止めて、最後までついてきてほしいと願われたのです。

 もしあなたが重い病気にかかって、余命いくばくもないと宣告されたとしましょう。誰彼にとは話せませんから、本当に腹を割って話せる親しい人にだけ打ち明けることでしょう。そこでこのように言われたらあなたはどう感じますか。「治らない病気なら仕方ないね。イエス様を信じているから天国に行けるのは心配ないけど、保険の受取人とか財産とか分かるように書いておいてね」と。
 病気を治してくれとか代わってくれと頼んだわけではないのです。不安と苦しみを分かってほしいだけなのです。できることなら苦しみを分かったうえで最期までそばにいてほしいのです。「苦しい時はわたしのことを思い出してね、祈ってるから」これだけの一言でもどれほど支えになることでしょう。

 互いに腹を立て言い争っていた弟子たちは再び呼び寄せられたとき、イエス様のお気持ちを汲むことができたでしょうか。主は「多くの人の身代金として自分の命を献げる」とのご自身の役目を明らかにするため、「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい」と噛んで含むように言い聞かされました。


<結び>  
 イエス様がお受けになった苦しみは、十字架上の死とそこに至るまでに受けられた鞭打ちなど数多くの暴力、言葉による暴力であることは間違いありません。そればかりでなく、一番の理解者であるはずの愛する者たちに理解されなかったことに苦しまれました。
 御子が御父のふところにおられた時から、お心を痛めて悩み苦しまれたことが聖書からわかります。最初の人アダムからして、心を閉ざし耳を貸さず、自ら罪と死を選び取ってしまいました。私たち人間は誰もがその子孫であり、生まれながらには神様のお心を知ることなく生きて、キリストを苦しめ続けてきました。それにもかからず、主はいつも救いの御手を差し伸べ、立ち返る者をとがめだてせずに受け入れてくださいました。

 キリストの杯、その片方の側面は信仰ゆえに受ける苦しみです。そしてもう一方は愛する者に心が通じなくても愛し続けること、裏切られても赦し続けることです。その中身はイエス様が十字架上で流された血潮です。そのお心を知らず、ご愛を裏切り続けた私のために、そしてあなたのために流された血潮です。

コンテンツ

お知らせ