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「キリストの十字架」マタイによる福音書27章27-56節

2021年3月28日
担任教師 武石晃正

今年もいよいよ受難週を迎えました。主イエス・キリストが「ポンテオ・ピラトの下で苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ」たことを特に思い起す週です
天地万物の創造主である全知全能の神様が聖霊よって人の子として世にお生まれになり、神としての特権を捨てておよそ30年あまりを歩まれました。本日はまずイエス様が十字架に向かわれる直前の1週間を思い、その後に朗読箇所からキリストの十字架へと視点を向けて参ります。


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1.十字架までの最後の週
 およそ30歳でイエス様は洗礼者ヨハネよりバプテスマを受け、公生涯と呼ばれる神の国宣教の歩みに入られました。郷土のガリラヤから始まった3年あまりの伝道旅行は、ユダヤそしていよいよ首都エルサレムへと向かいます(20:17)。
 当時ユダヤ人の祭り、特に過越祭の期間にはエルサレムとその一帯はローマ兵による厳戒態勢が敷かれました。普段はカイザリアを拠点とする総督みずからが現地へ駐留するほどです。祭りの賑わいと一触即発の緊張感が漂うところへロバの子に乗った「ユダヤ人の王」が現れ、群衆の大歓声の中を都へと上って行きました(21:1-11)。

 過越祭はかつて神の人モーセを通して神様がご自分の民をエジプトから救い出されたことを記念する祭りです。イスラエルの建国を記念するものですが、ローマ帝国の支配下にあっては独立あるいは領土奪還への思いが一層強まる時期です。高まる圧力を抜くためにも、ローマの総督が罪人を釈放しユダヤに身柄を返すという計らいをしたほどです。
 熱狂的に興奮した群衆はナザレのイエスを独立の指導者として担ぎ上げて、いつ蜂起するか知れたものではありません。あるいはイエス自身が過越祭の「特別の安息日」を狙って、群衆の前でダビデの王権復古やイスラエルの独立を宣言しないとも限りません。どちらにしても、これらはローマ皇帝に対する重大な反逆行為にあたります。

 首都エルサレムという場所柄によりローマ帝国は首謀者を処刑するだけでは済まさないでしょう。良くてユダヤの自治権の剥奪、つまり王を排除し完全に植民地化されることです。あるいは国ごと取りつぶされることにもなりかねません。
 ユダヤの指導者側の様子を考えてみましょう。大祭司らはナザレのイエスのうわさを聞きつけ、この危機的状況を回避すべく危険因子を未然に取り除く算段をいたします(ヨハネ11:48)。期限は過越祭の「特別の安息日」の前日までです。逆にいえば、これまでに何度も取り逃がしたものの、この年の過越には必ずナザレのイエスはエルサレムに姿を現すのです。安息日の前日までにイエスを捕えることができれば事が一件落着です。

 確実に仕留めるため、エルサレムに入ってからも2,3日イエスを泳がせました。その間にイエスとその一向を油断させつつ、内通者を見つけ出します。報償は銀貨30枚で手が打たれました(26:15)。
 一方、弟子たちは「ダビデの子」との宴に文字通り酔いしれていました(26:30)。大歓声の中を都へ上ってきました。明日にでも彼らの主が奇跡を起こしてイスラエルの王になり、自分たちはその側近として国を治めるのだと期待に胸を膨らませます。

 その華やかな舞台に歩を進めるのと裏腹に、イエス様の胸中には苦しみと恐怖が迫っていました。例えるなら首に縄をまかれたままいつ床板が抜けるか分からない絞首台の階段を一歩一歩登って行くような心境でしょうか。何も喉を通らないほどの恐れと緊張を噛み殺し、主はパンと杯を弟子たちに配られたのでした。
 祭りに関わるユダヤの暦は新月から始まる陰暦が用いられます。過越の安息日はその月の14日、満月に差し掛かる日に当たります。イエス様が捕らえられたのはその2日前ですから、過越の食事が終わるころには空高く銀色に輝く月が辺りを昼間のように照らしていました。多くの人々が夜更けまであるいは明け方まで祭りの余韻に浸る季節です。

 月の光でどれほど明るいとは言え、人違いをすれば肝心のイエスを取り逃してしまいます。内通者と指導者らはもっとも確実な方法として、ユダヤ流の親愛なる挨拶である接吻が合図と決めました(26:48)。接吻と訳されますが、肩を抱き合って頬を寄せるものかも知れません。その男の頭には数日前に高価な香油が注がれたばかりですから(26:4-11)その匂いで替え玉や誤認ということはあり得ません。実際のところ、彼らの算段どおり見事にイエスを捕えることとなりました(26:47-56)。
 捕えられた主は夜通しユダヤの最高議会で尋問と暴行を受け続けました(26:57-68)。月夜とはいえ逮捕してから召集したのでは間に合いません。織り込み済みの段取りで議員たちが集められたのでしょう。不当な裁判によって形式的に判決が下され、あくる朝ローマの総督にイエス様の身柄が引き渡されました。

 ローマの総督の目から見ても無理がある判決でした。しかし群衆の暴徒化を避けるため、既に死罪と定まっていた男の代わりとしてイエスを十字架につけることになりました。扱いにくく厄介なユダヤ人らを黙らせたという点において、ローマの総督ポンテオ・ピラトとユダヤの王ヘロデが利害の一致を認め合いました(27:11-31)。
 人の命を命とも思わないような権力者たちでさえ手を洗いたくなるほど汚い手口で、人々はこの方を十字架へと追いやりました。しかしこれら一切のことは御父がお定めになったことでした。


2.キリストの十字架と死 (27:32-56)
 兵士たちによって鞭打たれ、殴りつけられ、卑しめられたイエス様は、とうとう処刑場へと引かれていきます。苦しみの中、その口から愛する弟子の名前がこぼれ出たのでしょう。シモンという名を聞いた兵士は通りに呼びかけると、振り向いた男がいました。「お前がシモンか、代わりにこれを担いで行け」と、力尽きて惨めなこの罪人が背負うはずだった十字架の横木を無理やり背負わせました(32)。

 エルサレムの外にあるゴルゴタと呼ばれる処刑場へたどり着きます。既に2人の強盗が十字架にかけられています。その間にイエス様は磔(はりつけ)にされ、「これはユダヤ人の王イエスである」と頭上に掲げられました(37)。弟子たちが競い合うように求めていた「王座」の右と左には、御父が定められた者たちがおりました。
 ここには弟子たちの姿は見当たりません。弟子たちの手の届かないところで、救いのみわざは神ご自身だけの方法で進めらたのです。

 磔にされている者たちも、下から見上げている者たちも、口々にこのユダヤ人の王を罵ります。「神の子なら、自分を救ってみろ」「他人は救ったのに、自分は救えない」「そうすれば信じてやろう」「神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ」と。随分とひどい言葉です。
 クリスチャンであれば身に覚えがあるのではないでしょうか。何かのきっかけで証しをした時や、あるいはただクリスチャンだというだけで「神様を信じているなら祈って助けてもらえ」「人の面倒は見るのに自分のことで悩むのか」「祈った通りになったら信じてやろう」などと心ない言葉をぶつけられることです。一度や二度ではないはずです。

 未信者の家族の中や学校や職場など自分だけがクリスチャンであるという場面であれば、どこからも助けを得られず祈りも聞かれないような、孤独と寂しさを覚えることです。ましてクリスチャンである家族や友人からこのような言葉をかけられようものならば、神様に目を留めていただいていないのではないかという惨めさに打ちひしがれそうです。
 逆に私たちがイエス様に向かって「この祈りが叶ったならあなたが神であると信じましょう」「あなたが神でしたらどうして私を助けてくださらないのですか」「本当にあなたがおられるのでしたら今すぐ私を助け出してください」と、呻き、つぶやき、時には罵るように叫ぶこともあるでしょう。その後に救い主を疑ってしまったことで、私たちの心は後から責めやうしろめたさに苦しみます。

 十字架上でイエス様は「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれました(46)。神の子ご自身が罪の代価となられたばかりでなく、後に復活の命をうけて生きるすべての信仰者が味わう孤独と苦しみをも十字架上で釘付けにしてくださったのです。
 この後、主は再び大声で叫び、息を引き取られました(50)。けれど十字架はキリストの死で終わるものではありませんでした。神殿の垂れ幕が裂けました。この垂れ幕は大祭司が年に1度だけ入ることができる至聖所の幕です。神と人とを隔てていた幕が裂けたことで、キリストの十字架による神との和解が示されました。同様にエルサレムが建っている岩が裂けたことは、神殿を中心とした祭儀律法の廃止を示しています(ヘブライ10:9参)。

 それまで異邦人と呼ばれ神様の契約から外されていた人たちが「本当に、この人は神の子だった」とキリストを仰ぎました。旧約聖書に示されていたすべての罪とその償いが、ここに完成しました。イスラエルの契約が完成したことで、すべての国民に新しい契約が与えられたのです。

<結び>  
 イエス様は救い主キリストとして、ユダヤ人の王という罪状書きの下に死を遂げられました。神ご自身が人となり、その血潮とお命を注がれました。この注がれた血潮によって律法と契約とが全うされ、神様と私たち人間との隔たりが取り除かれました。
 罪が許され、神にお会いすることができるようになったいま、キリストの十字架と復活を信じる者には聖霊によって永遠の命が与えられます。

 12人の弟子たちでさえ誰一人ゴルゴタまでの道を歩むことができなかったように、私たちは誰一人自分の力や意思によってはキリストの十字架への道を歩むことはできません。強いられるように背負わされて、イエス・キリストと歩む道へと導かれます。

 最後に使徒ペトロの手紙のことばをお読みします。
「そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。」(Iペトロ2:24)

 キリストの十字架、その贖いのみわざと恵みに感謝します。

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