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「キリストの復活」マタイによる福音書28章1-11節

2021年4月4日
担任教師 武石晃正

 新年度を迎えまして、最初の主日をイースター(復活節)としてお祝いできますことを感謝とともにお喜び申し上げます。
 昨年のこの時期を思い返しますと、新型コロナウィルスの感染が蔓延し始め、首都圏を中心に緊急事態宣言が順次発表されたことでした。現在も状況が好転したとは決して申せませんが、宇都宮上町教会としては礼拝堂を閉鎖したり礼拝を完全に休止したりせずに昨年度を歩ませていただくことができました。主の特別なご加配と癒しの恵みであることを覚えつつ、皆様のお祈りとご協力あってのことと感謝を申し上げます。
 本日はマタイによる福音書より主イエス・キリストが復活を示された朝の出来事に思いを深めて参ります。

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1.復活の朝のできごと
 その年の過越の祭りは「特別の安息日」でしたので、エルサレムとその一帯は前日まで非常ににぎわったことでしょう。人々は祭りの興奮の勢いで罪のない方をいけにえとして十字架につけました。昼間にもかかわらず一帯が暗くなり(ルカ23:44)、主は大きな叫びとともに息を引き取られました。
 十字架から降ろされた遺体は心ある人に引き取られ、ユダヤの慣習に従ってミイラにするため亜麻布に包まれました。墓所はエルサレムの郊外にあり、岩肌をくりぬいた洞穴のようなものでした(27:60)。墓荒らしから守るため、墓穴の入口は大きな円盤状の石を転がしてふさがれます。

 亡骸をよい状態でミイラにするためには防腐性のある香料などを用いて何日もかけて処理する必要があるそうです。しかし彼女らが慕ってやまないナザレのイエスは打撲や鞭による裂き傷で生きたまま既に傷んでおり、安息日が迫っていたために十字架から降ろされても埋葬するまでに十分な処置をする時間はありませんでした。
 「さて、安息日が終わって」(1)と記されています。当時のユダヤでは一日は日没ともに終わります。週の初めの日が始まりますが、間もなく夜になりますのでマグダラのマリアたちはそわそわしながら夜明けを待ったに違いありません。一刻でも早くイエスの亡骸の手入れをしたいと思ったのでしょう、誰が墓石を動かすのかも考えず女たちはとにかく墓所へと急ぎました(マルコ16:3)。

 そこで大きな地震が起こり、墓の入り口の石は転がされました(2)。福音書はそれが主の天使のわざであったことを示しています。その輝かしい姿がまるでイエス様がかつて3人の弟子たちだけに示されたお姿のようです(17:2)。墓の番をしていた大の男たちは、恐ろしさのあまり死人のように硬直してしまいました。
 天使は女たちに「恐れることはない」と声をかけました。福音書において天使が直接に関わっているのは特別な使命があるときだけです。「かねて言われていたとおり、復活なさったのだ」とその真相をイエス様ご自身が預言した言葉の成就であると告げました。聞いて信じていたら女たちは墓に来なかったのでしょうか。

 イエス様の言葉を信じなかったとか疑ったということではないのです。人類史上初のことなので誰にも予想も理解もできないことだからです。むしろ聞いて信じない人は見ても信じません。彼女たちはイエス様の言葉を聞いて心に留めていたので、天使の言葉に促されて目で見た出来事を信じることができました。墓の中には収めたはずの遺体がありません。主は確かに復活されたのです。
 続けて天使は弟子たちへの伝言を女たちに託しました。「あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる」(7)と。復活の後にガリラヤへ行くことはイエス様が前もって教えておられた通りです(26:32)。

 この「先に」とは単に時間的に早いことを示すよりも、彼らを伴って先を進むという意味があるようです。イエス様は最後の晩餐の後で、弟子たちがご自分から離れていくことを「すると、羊の群れは散ってしまう」と預言書の言葉を用いて予告されました。その上で復活とガリラヤ行きを告げられたのです。「先に」とは羊飼いが羊の群れの前を進んでいく情景に重なります。
 さてマグダラのマリアたちは恐れつつも、天使の知らせに喜びながら弟子たちのいる家に向かって駆け出しました。するとその先にはイエス様が待っていてくれました。先に行くとは言われていますが、一度も顔を合わせずにガリラヤへ向かわれるとは言われていないのです。

 預言書にあるとおり羊飼いが打たれたことで羊たちは散らされてしまいました。しかし復活した羊飼いは愛する弟子たちに真っ先に会いたいと思われたので、墓所に現れてくださいました。マリアたちはその足にすがって復活と再会とを喜びました。
 そこでもう一度イエス様は女たちに弟子たちへの伝言を委ねられました。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」。出発した最初の場所で待っているよ、そこから再出発してみよう、と弟子たちを招かれているようです。

2.キリストの復活
 できごととしては今みなさんとご一緒に記事に目を通したままです。掘り下げれば大切な要素がいくつでも見つけることができましょう。限られた時間ですので本日は3つだけ取り上げてみましょう。
 一つ目は、キリストの復活は見て信じるのではなく、聞いて信じるということです。キリストの復活に限らずとも、私たちは物事の真実を何によって信じるのでしょうか。何事でも自分の目で確かめなければ信じることができないとおっしゃる人もおられるかもしれませんが、果たして私たちは見た物すべてを見通すことができるのでしょうか。

 聖書は空っぽになったイエス様の墓を復活の証拠として示しています。その場に居合わせた者、目の当たりにした者であっても、誰しもがキリストの復活を信じたわけではありません。第一目撃者は番兵たちでした。彼らについて「恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった」と書かれていますが、主の復活を信じるには至りませんでした。
 では誰が復活を信じることができるのしょうか。女たちは天使の言葉を聞いて、しかも「かねて言われていたとおり」と以前に聞いたイエス様の言葉を示されて、信じるに至りました。見て信じるにしても、事前に聞かされていなければ神のわざであると気づくことができないのです。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(ローマ10:17)と聖書に書かれているとおりです。

 二つ目は、復活によってイエス様が私たちの先を歩んでくださるということです。「あなたがたより先にガリラヤへ行く」(7、26:32)と言われたように、イエス様はいつも弟子たちそして私たちの先を進んでくださいます。牧草地でめいめいに草をはんでいた羊たちが羊飼いの声を聞いて一匹また一匹とついて行くように、キリストの言葉を聞く者たちが一人また一人と群に加えられていくのです。
 ガリラヤの漁師たちとその仲間がもう一度集められ、その弟子たちの声を聞いた多くの者が更に加わりました。後にペンテコステの日に聖霊が降り、教会として全世界へとキリストの復活が告げ知らされることになったのです。いつも復活したキリストご自身が教会と共におられ、先を進まれます。時代を経てわたしたちも主の教会に加えられました。

 三つ目は、キリストの復活がまぎれもない事実であるということです。事実が事実であるならば何も弁明するまでもないのですが、聖書の後の箇所に記されているとおり復活のその日から早々にでまかせの噂が広められました。信じようとしない者はどんな理由をつけでも復活を否定しますし、疑う者はどんなことでも疑うのです。
 実のところ、イエス様が葬られた墓を見張っていた番兵たちは復活の場所にいたにもかかわらず、彼ら自身も信じなかったどころか金で買収されてしまいました(15)。キリストの復活を事実として認めない、つまり信じないとか否定するといったことは、買収し買収された者たちに加担することに通じます。

 神などいるはずがない、キリストが神であるはずがない、復活などあるはずがない、とすべて憶測だけで否定されてしまいます。しかし復活したイエス様に出会った人がいるのです。イエス様の「足を抱き、その前にひれ伏した」(9)人たちがいたのです。ほかにも多くの弟子たちが復活されたイエス様に会っており、あるものは食事を共にしました。私たちの救い主イエス・キリストは間違いなく復活されたのです。

<結び>  
 復活の主イエス・キリストを心からほめたたえます。

 使徒信条として告白しているとおり主イエス・キリストは確かに「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがへ(え)り」ました。
 世界の常識は天動説から地動説に置き換えられましたが、この信条が覆されることはありませんでした。天地がひっくり返るほどのことが起こったとしても、キリストの十字架と復活とは事実として揺らぐことはありません。

 復活された主は出会った女たちを通して弟子たちを招かれました。「行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしと会うことになる」(10)。ガリラヤでイエス様と再会した弟子たちは、この羊飼いの声を聞いて再出発しました。
 キリストを救い主として受け入れた者にはいつもこの復活の恵みが伴います。十字架の贖いと復活とを信じるなら、誰でもキリストともに再出発ができるのです。

 日々生かされ、新たにしていただける幸いを感謝します。本日は主の復活を覚え、イースターおめでとうございます。

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