「復活の主に出会う」マタイによる福音書28章11-20節

2021年4月11日
担任教師 武石晃正

 先週はイースターとして主イエス・キリストの復活を覚える礼拝をいたしました。使徒信条において告白しておりますとおり、私たちの信仰はイエス・キリストの十字架による贖いと3日目の復活とにかかっています。

 昨年度におきましては宇都宮上町教会から4名の兄姉を主の御もとへとお返しし、昨日もまた一人の姉妹との別れを惜しむ式が執り行われました。この世における生涯としては再び会うことができませんので、愛してやまない方々との別れは深い喪失感と悲しみとを伴います。
 またご遺族への心遣いから葬儀などの席では言い控えますが、聖書は「罪が支払う報酬は死です」(ローマ6:23)とはっきりと教えています。罪の現実として私たちが必ず死ぬということについて、天におられる父なる神様も一人ひとりの死をご覧になって悲しまれることです。

 十字架の死と葬りで終わったのであれば、キリストのみわざも私たちの信仰も死んで終わるだけの無力なものに過ぎません。けれどもイエス・キリストは約束通り復活され、3日目に女性たちそして弟子たちに現れてくださいました。ここに私たちの希望があります。
 本日は復活の主に出会うこと、主の復活の恵みにあずかることについて福音書より思いめぐらせてみましょう。

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1.復活の主に出会うことができなかった人たち(11-15節)
 朗読しました箇所は新共同訳では2つの段落に分けられており、まずその前半部分を読んで参りましょう。
 空っぽの墓から町へ帰ろうとしたところで女性たちはイエス様に出会い、弟子たちへの伝言をイエス様から託されました(10)。彼女たちが主の弟子たちのもとへ行きつかないうちに、墓の番をしていた番兵たちが祭司長たちへ出来事のすべてを報告したということです(11)。すべてとは言っても、この番兵たちはイエス様が復活したところも、復活したイエス様ご自身をも見てはおりません。

 何と報告されたのかは分かりませんが、恐らく「早朝に大きな地震が起こり、墓を封していた石が転がりました。墓の洞穴の中を覗いてみると、遺体がなく空っぽでした。遺体をくるんでいた布だけが置いてありました。複数名で見張りをしましたが、かの弟子たちの姿を見た者はありません」というところでしょう。恐ろしさのあまり硬直してしまったほどですから、自分たちで何か判断をすることもできず、ただ見たままを話したに違いありません。
 報告を受けた祭司長たちは大いに困惑したことでしょう。彼らが描いた台本では、イエスの弟子たちが墓から遺体を盗み出し、空っぽの墓を指してキリストが復活したと言いふらすはずでした。ところが誰も盗みに来ないのに、遺体がなくなってしまったというのです。遺体を盗んだ疑いでイエスの弟子たちを捕えようにも、自分たちが手配した番兵たちのうち誰一人として弟子たちの姿を見ていないのです。

 祭司長たちは長老たち、すなわちでっち上げの裁判でイエスを死罪に定めた張本人たちと相談しました(12)。嘘を嘘で塗り固めるように、彼らは多額の金で兵士たちを買収したのです。その言い草は何とも稚拙なものでした。「弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んでいった」と言わせたとあります。
 数人が交代で夜番をしていたのに皆がみな寝入ってしまうということがあり得ましょうか。兵士たちは訓練を積んでいますから、もし仮眠をとるとしても墓の入り口の石に寄りかかるなどの工夫をするはずです。墓泥棒を防ぐための石です。掛け声もかけずにひょいと転がるようなものではありません。大の大人が「せーの」と気を入れてようやく転がります。転がそうものならゴロゴロと地面が響きます。気がつかないことなどありえません。

 仮に音を立てずに墓を空けることができるとして、もし本当に兵士たち全員が寝入っていたのであれば、遺体が盗まれた場面を見ることがありません。弟子たちかどうかを誰も知らないはずです。イエス様の裁判の時と同じく、何もかもが全くでたらめなのです。
 少し考えてみればすぐに分かりそうな話ではありますが、噂になってしまうとどこまででも広がります。兵士たちの間では「おい、聞いたかよ。あいつら墓泥棒にまんまと出し抜かれたんだってよ」「揃いも揃って居眠りしていたんだとさ」など、更に尾ひれがついたことでしょう。話半分だとしてもローマの兵士たちの会話です。こぼれ聞こえればユダヤの人たちの間にもまことしやかに広まります(15)。

 信じようとしない者はどんな理由をつけでも復活を否定します。疑う者はどんなことでも疑います。このような人たちは自分が拒んだ真実、自分がついた嘘、自分がかけた疑いのために復活した主に出会うことができません。主の復活を否定する者もまた、金を与えた者や受け取った者に加担することになるのです。
 素直に負けを認めてイエス様の復活を信じる者だけが、復活の恵みにあずかるのです。

2.復活の主に出会えた人たち(16-20節)
 一方、後半ではガリラヤへ行った11人の弟子たちについて記されています。他の福音書を照らしてみますと、一度イエス様はエルサレムで弟子たちに現れています(ルカ24章、ヨハネ20章)。その後で予め指示されていたように(マタイ26:32)、ガリラヤへ向かわれたということになります。
 かつては12人と呼ばれていた弟子たちのうち1人が欠けてしまいました。ほかにも多くの弟子たちがいたのですが、この11人だけがガリラヤにある「イエスが指示しておかれた山」に登りました(16)。

 具体的にどこにある何という山であるかは書かれていません。理由は定かではありませんが、かつてイエス様が「あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る」(ヨハネ4:21)と言われたことに関係がありそうです。あるいはこの山がどこであるか明らかになると、山自体が崇拝の対象になる恐れが出てきます。
 聖書全体を通してみたときに「山」とは祭壇を築く場所、つまり主なる神様を礼拝する場所として示されます。言い換えれば、神様がご自分を現される場所です。復活されたイエス様は弟子たちに対して、ご自身を父なる神と同一であることを示されたと言えます。彼らの神としてイエス様は弟子たちにお会いになったのです。

 17節はイエス様に再び出会った弟子たちの様子が記されています。復活したイエス様と既にエルサレムでお会いしていますから、驚きのあまりひれ伏したとか疑ったということではないわけです。山でお会いになることは先に申しあげたように、神である主としてご自分を示されたということです。弟子たちは慕っていた恩師の復活を信じたばかりでなく、この山において復活したイエス様を神ご自身であると信じたのでひれ伏したのです。
 弟子たちとて初めからすんなりすべてを受け入れることができたわけではありません。「疑う者もいた」とありますが、恐らくユダヤ的な言い回しなのでしょう。妄信的に崇拝したのではないということです。約束通り現れたのでイエス様を主であると信じてひれ伏してみたものの、まさか3年半も一緒に寝起きをした方が神ご自身だったとは信じがたかった、そのような心情が正直に綴られていると言えましょう。

 初めは半信半疑でも主の約束を信じ、みことばを信じて踏み出した者は復活された主イエス様にお会いすることができるのです。
 

<結び>  
 復活された主はガリラヤの山上で弟子たちにお会いになり、「天と地の一切の権能」をもって「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」とお命じになりました(19)。約束のことばを信じて従ったことで弟子たちが復活された主と出会うことができたように、弟子たちを通して語られるイエス様の言葉を信じる者は復活の恵みにあずかることができるのです。

 「弟子にしなさい」という命令は2つの行動によって成り立っています。一つは「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け」ること、もう一つはイエス様が「命じておいたことをすべて守るように教え」ることです。半信半疑でも洗礼を受けて入門し、主の弟子たちがそうであったように教え説かれる中で確信へと導かれます。
 教会は「福音を正しく宣べ伝へ、バプテスマと主の晩餐との聖礼典を執り行ひ」、この命令を実現します。こうして「主の再び来りたまふを待ち望む」私たちは、主の復活の恵みにあずかることになるのです。

 「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
 復活の主にお目にかかれるその日まで、希望を抱き、互いに励まし合いましょう。救いの恵み、きよめの恵みを受けながら歩める幸いを感謝します。

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