「救いのしるし」マタイによる福音書12章38-42節

2021年4月18日
担任教師 武石晃正

 唐突ですが、皆さんは所得税の確定申告を今年なさったでしょうか。例年は3月15日までのところ、今年は4月15日まで延長されたそうです。先週あたりは駆け込みでお忙しくされた方もいらっしゃるかもしれません。
 納税をするにしても還付を受けるにしても、申告書や帳簿とは別に支払いがあったことの証拠となる領収書もそろえておく必要があります。普段から備えていれば困ることはないのでしょうけれど、締め切り前に慌ててしまうこともありましょう。

 とは申しましても、日常生活の中で「証拠を見せなさい」と求められることは滅多にないことかもしれません。信頼している間柄であればいちいち証拠を求めないでしょうし、疑いをかける人は証拠を見せられてもまた次の疑いをかけるものです。
 神様に信頼する人はみことばを聞いて信じます。信じない人は証拠を求めてなお疑います。本日の箇所には神の御子にしるし、すなわち証拠となるものを求めた人たちの姿が記されています。

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1.しるしを求めた人々
 朗読しました箇所は「すると」という接続詞によって、それまでのいきさつを受けて記されています。悪霊に苦しめられていた人から悪霊を追い出したイエス様のわざを、ユダヤの律法学者たちは悪霊による働きではないかと疑いをかけたばかりのことです。
 恵みのわざを拒み聖霊に逆らう者たちに対して、イエス様は「木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる」(33)と言って彼らの本心を暴かれました。言われて黙っているような人々ではありませんから、「それではお前のわざが聖霊によるものなのか、その証拠を見せてみろ」と食ってかかります。翻訳のうえでは「先生、しるしを見せてください」と丁寧な言葉遣いで記されていますが、実際は「証拠を出してみろ」と迫るような口調だったかもしれません。

 聖書の中で「しるし」とは奇跡や不思議な業と同様に用いられており、ヨハネによる福音書では「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」(ヨハネ4:48)と一緒に使われています。旧約においても「神はエジプトで多くのしるしを与え」た(詩編78:43)と、しるしという言葉が創造主なる神様の特別な力を指しています。
 エジプトでの出来事とは、異民族による強大な支配の下にあったイスラエルを神様が選び出し、救い出された御業です。イエス様がこの世におられた当時、パレスチナはローマ帝国という世界規模の権力の下にありました。ユダヤの人たちは自らが置かれている苦境をかつてのエジプトでの苦しみに重ねていたわけです。

 人々は外国の支配から救い出すモーセのような指導者を求め、また約束の地を奪い返すヨシュアと、永続的に支配するダビデの王位を救い主メシアとして待ち望みました。律法学者たちがイエス様に追及したことは「もし本当に神から遣わされたメシアだというのなら、モーセのようにローマの支配からイスラエルを救い出し、ヨシュアやダビデのように約束の地を取り戻して見せよ」「しかしそんなことは到底無理だ、あるはずがない」ということになります。
 しるしを求められたイエス様は同じ時代に生きる者として、彼らの意図しているところを理解しておられます。その上で急に「預言者ヨナのしるし」を持ち出します。ここで預言者ヨナについて少し補って触れておきましょう。

 このヨナは旧約聖書のヨナ書の主人公で、当時イスラエルの敵であったアッシリア帝国の首都ニネべへ遣わされた預言者です。神様の命令に従わず船に乗って別方向へと逃げますが、嵐に襲われた船から海に放り投げられ「三日三晩、大魚の腹の中にいた」のでした。魚に吐き出されて陸に上がるとヨナはニネべに向かい、「あと40日すると、ニネべの都は滅びる」と三日がかりで叫びまわりました。すると異教徒であったニネべの人々は王様から庶民に至るまで戒心したので、12万人もの人々が滅びを免れたのでした。
 実に大きな働きですが、イエス様と敵対しているユダヤ人たちにとってニネべという異国の救いは興味がないわけです。むしろこの時代の人たちにとってヨナという預言者は、かつてイスラエルが非常に苦しめられ領土をほとんど失いかけたときに遣わされた預言者なのです(列王下14:23-27)。

 ヨナを通して語られた神様の言葉によって、イスラエルは北の端から南の端までその領域を回復しました。言葉ひとつで罪を赦し、病を癒すことがメシアのしるしだと言うのなら、ヨナのように言葉によってこの国を救って見せよ、というしるしを求めたようです。
そこでイエス様が「預言者ヨナのしるし」を持ち出したのです。たしかにヨナは彼らが求めるようにイスラエルの領土を回復しましたが、その言葉を聞いて救われたのは異邦人であるニネべの人々でした。一方でイスラエルの人々は「主の目に悪とされることを行い」罪を犯していたのです(列下14:24)。実に「よこしまで神に背いた時代の者たち」と呼ばれる通りです。
 モーセの時代の人々は数多くのしるしを経験したにもかかわらず、「罪を犯して、死骸を荒れ野にさらした者」(ヘブライ3:17)となりました。ヨシュアの時代にもヨルダン川がせき止められたり、エリコの城壁が崩されたりと不思議な業が現わされました。しかし士師記を見る限り、苦しいときだけ神様に救いを求めるような時代でした。ダビデ王そして預言者ヨナの時代もまたしかりです。
証拠を求めるということは初めから疑っているのです。しるしを見たとしても、その時は目を奪われてもすぐに逆らうのです。イエス様は聞いて信じた者たちへ遣わされた預言者としてヨナを取り上げ、三日三晩の出来事をしるしとされました。

2.聞いて信じた人々
 ところで、聖書のうちイエス様が世にお生まれになる以前の時代について記されている部分を、私たちは旧約あるいは旧約聖書と呼んでいます。その時代は神の民イスラエルが中心に置かれています。
 新約の時代に入ってもユダヤの人たちは他の民族を異邦人と呼び、契約の民であることを誇る自分たちと区別しました。ですから預言者ヨナについてもアッシリアのニネべで大勝利を収めたにもかかわらず、自分たちの祖先の領土を回復した勝利者として記憶されているようです。

 イエス様はユダヤの人たちにしるしとして、「ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子は三日三晩、大地の中にいることになる」(40)と言われました。ここではまだ十字架とは明言されていませんが、「死にて葬られ、三日目に死人のうちよりよみがへり」になることです。しるしを求める者たちは疑いをかけるだけですから、三日目の復活を見ても聞いても信じません。しかし聞いて信じる者には救いのしるしなのです。
 先に述べましたように旧約聖書は主に神の民イスラエルが中心に置かれています。しかし、与えられているしるしとして預言者ヨナはアッシリアの首都ニネべに遣わされ、異邦人が王から庶民に至るまで彼の言葉を聞き入れたことが記されています。

 イスラエルの人たちはエルサレムの神殿を誇っていました。その神殿を奉献したソロモン王のもとを「南の国の女王」(42、列王上10章ではシェバの女王)が訪れたことをイエス様は指摘しています。彼女はソロモンの知恵を聞き、主をほめたたえてから故国へりました。
 古代において王や女王はその民族の神あるいは神の化身という立場ですから、その彼女がイスラエルの神を拝むということは彼女の民族が主を拝むことを意味します。エルサレム神殿で礼拝をしていた人々は王様から庶民に至るまで神様に背き続け、その結果としてのバビロン捕囚という罰を受けました。しかし本来は神の契約にないはずの「南の国」の人たちが救いの恵みにあずかりました。

 ヨナを通して語られた神のことばを聞いて戒心したニネべの人たち、ソロモンを通して語られた神のことばを受け入れた南の国の女王とその民は、裁きの時に裁かれる者ではなく裁く者として立ち上がるとイエス様は言われます。異邦人であっても神のことばを聞いて信じる者は神の民とされるのです。
 そして「ヨナにまさるもの」「ソロモンにまさるもの」が死んで三日目に復活されたのです。この三日目の復活は聞いて信じる者にとって救いのしるしだと主は示されました。
 


<結び>  救いのしるし
 イエス・キリストについての弟子たちの証言をさして、彼らが見たのはキリストの復活ではなく空っぽの墓であると指摘されることがあります。証言としては証拠が不十分であるとする見方です。
 しかしイエス様は預言者ヨナのしるしとして、3日目の復活が証拠であると予告されました。事実「3日目に死人のうちよりよみがへり」になられました。約束が果たされたことがその証拠なのです。約束ですからこの方を信頼する者だけが受け取ることができます。

 旧約の時代でも預言者ヨナは異邦人の地ニネべに遣わされ、ソロモンの知恵は南の国の女王によって恐らくアフリカへともたらされました。時代や民族に関わらず、聞いて信じる者ならだれにでも与えられる恵みです。
 主はご自身を「ヨナにまさるもの」「ソロモンにまさるもの」と示されました。ニネべや南の国の人ばかりでなく、この方に聞いて悔い改めるならだれでも救いの恵みにあずかれるのです。

 この言葉の確かさは、預言者のしるしがキリストにおいて成就したように、キリストご自身が約束された通りに3日目に復活されたことにあります。十字架の贖いの死と、三日目のよみがえり、これがわたしたちに与えられている揺るぐことのない救いのしるしです。

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