「天の父への道」ヨハネによる福音書14章1-14節

2021年5月2日
担任教師 武石晃正

 2021年度を迎えて早くも1か月が過ぎました。先週の礼拝後には私たち宇都宮上町教会の定期教会総会が行われました。コロナ禍という一堂に会することが難しい時節柄ではありますが、委任状を含まずとも定足数を満たすことができました。また多くの委任状が寄せられ、当日その場に出席できずとも祈りによる参加も多数ありました。
 先だちまして礼拝中には1年以上見合わせておりました聖餐式が執り行われました。新しい様式では初めての聖餐式でしたが、キリストの一つのからだとそこに結ばれる契約の血を覚えることができました。

 さて今週は復活節第5主日です。復活節はキリストが十字架の死後3日目に復活されてから天に挙げられるまでの40日間、弟子たちに神の国について教えられたことを覚える期間です。主はやがてご自身のからだである教会を建て上げてゆく弟子たちに、そのお働きを委ねて行かれました。
 本日はヨハネによる福音書より「天の父への道」と題して、イエス様が地上において私たちへお示しくださった道について読んで参ります。

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1.天の父と子なる神
 使徒信条は冒頭で「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」と告白しています。本日の箇所でイエス様は「わたしの父」と呼んでおられますが、主の祈りにおいて私たちも創造主である神様を「天にまします我らの父よ」と呼びかけることが許されています。
 聖書は旧約聖書のはじめの書である創世記において、この父なる神が天地を創造されたことを示しています(創世記1章)。6日間として記されている一つ一つの創造のわざについて、「神は、これを見て、良しとされた」と祝福のことばが添えられています。神様はこの「良しとされた」世界の中に「ご自分にかたどって人を創造され」(同1:27)ました。

 「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」とご自身が作られた世界を人の手に委ね祝福し、お造りになったすべてのものをご覧になって「見よ、それは極めてよかった」と完成を告げられました。
 ところが最初の人アダムが神様の命令に背いたことで、人は罪の呪いの下に置かれてしまいました。ここから一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込み、死はすべての人に及んだのです(ローマ5:12)。同時に人の支配に定められた被造物もまた呪われるものとなり、滅びに定められました。「極めてよかった」と祝福された世界を台無してしまい、人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています(ローマ3:23)。誰もが父なる神様に会わせる顔がないのです。

 創世記には神様の前から追放された人類の歩みが記されています。その後モーセを通して神様から契約が与えられ、同時に十戒をはじめとする様々な掟が与えられました。子孫たちは約束の地カナンへ攻め入ったものの、自分勝手にそれぞれ自分の目に正しいとすることを行いました(士師21:25)。王様が立てられてからも、イスラエルは神様から遣わされた預言者らを拒み続けました。何度も救い出していただいたのに、その慈しみと恵みとを忘れて神様に背き続けたのです。
 こうしてイスラエルの歴史を通してあらゆる国々の民に対して、天地の造り主がおられることと、人が父なる神様に対して罪を犯していることが明らかにされました。この罪とその贖いについてはモーセによって与えられた律法が示していますが、律法は罪を犯す性質そのものを拭い去ることはできなかったのです。

 罪が満ちて神の前に暗闇のようになった世界へ、すべての人を照らすまことの光として御子キリストが来られました。ヨハネによる福音書は冒頭で「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」と天の父と子なる神について証言しています。

2.道であり、真理であり、命である
 福音書はイスカリオテのユダによる裏切りとシモン・ペトロの離反についてイエス様が予告されたところまでを、過越祭の食事いわゆる最後の晩餐の出来事として記しています。14章からしばらく一連の教えとして、特に教会に向けてイエス様の教えが綴られています。
 もちろん実際に弟子たちへ直接語られた教えではありますが、第1世紀の教会の事情を加味して記された様子を感じることができます。外部からの迫害ばかりでなく、密告や離反といった困難が教会の中に影を落としていた時代です。人を見れば疑いたくなるような、教会の中なのに心を騒がせざるを得ない状況だったのでしょう。

 キリストが天に昇られてから50年また60年と経つにも関わらず、一向にキリストにある死者の復活を見ることはありません。殉教せずに齢を全うすることができた者であっても、キリストと直接に出会った世代がこの世を去っていきます。誰も復活を見ることのないまま一つの時代が過ぎ去ろうとしていました。果たして復活は本当にあるのだろうか、キリストの教えは真実なのだろうか、と疑問が教会の中にも沸き起こります。
 だからこそ「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」とのイエス様の言葉を福音書は力強く呼び起こさせます。「わたしの父の家には住む所がたくさんある」と先に召された者たちが既に天の父のみもとにあることが明かされます。先に死んだ人たちはどうなったのか、焼かれながら死んでいった者や葬られずに野ざらしにされた者たちはどうなるのか、という具体的な疑問にもイエス様はあらかじめ答えを下さっていたのです。「あなたがたのために場所を用意しに行く」と言われてイエス様は天に昇られたのですから、この世を去るときにはイエス様が自ら私たちを迎えてくださるのです。

 「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」(4)また「今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている」(7)とイエス様は弟子たちについて語られました。福音書は教会に向けて「あなたがたは知っている」「既に父を見ている」と言っているわけです。読者である私たちの代わりにトマスが「わたしたちにはわかりません」と、フィリポは「わたしたちに御父をお示しください」と答えています。
 トマスについては「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ」(20:25)信じないと主の復活を疑ったことから、物語などではうたぐり深い人として描かれることが多いようです。しかし「そうすれば満足できます」と証拠を見せるよう主に求めたのはフィリポでした。トマスだけがうたぐり深かったということではないわけです。

 「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか」と言われていますが、福音書は読者に向けて「3年余りもイエス様と寝食を共にした使徒たちでさえ分からなかったのだから、後の時代に生まれたあなたがたが俄かに理解できなくても無理はないよ」と励ましているようです。我々だって分からなかったのだから無理もないよと言わんばかりです。
 だから心を騒がせないで、まずイエス様を信じなさいと勧めた上で、トマスの言として「どうして、その道を知ることができるのでしょうか」とイエス様へ質問を投げかけています。イエス様は「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のみもとに行くことができない」(6)と答えてくださいました。フィリポに向けられた「わたしを見た者は、父を見たのだ」とのお言葉も合わせると、イエス様の道とは天の父である神様を示すことだと言えます。

 その最たるところが父子聖霊による救いのみわざ、キリストが十字架におけて罪の贖いとして死に、3日目に復活したことです。キリストの身代わりの死によって人は神の前に罪が許され、キリストの復活において神の前に命が与えられます。これは神の御子キリストを信じるすべての人に与えられる真理です。
 しかしイエス様はご自分の道を十字架と復活に限っておられないことは明らかです。「わたしの内におられる父が、その業を行っておられる」(10)と述べられた後で、「わたしを信じる者は、わたしが行なう業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる」(12)と言われたからです。キリストを信じる者はキリストの業を行うのですから、その人の内にも御父がおられることになります。つまり、キリストを信じることによって神が人の内におられるようになることが「真理であり、命である」のです。

 「もっと大きな業を行うようになる」と言われていますから、「わたしが行う業」が十字架の贖いそのものではないことが分かります。キリストの贖いの業を上回ることなどありえないからです。ここでは、行なう業によって天の父が内におられると示すことにあります。イエス様がなされた数々の奇跡は正真正銘の神としての業でした。しかしイエス様はたったお一人であり、3年余りのパレスチナの地域という非常に限られた範囲にとどまりました。
 「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い」ますから、福音のことばを聞いてキリストを信じたあらゆる国と地域の人たちがキリストの業を行うことになるのです。迫害や弾圧のただ中で復活の希望も見失いかけた教会に向けて、福音書は語りかけます。心を騒がせずに神を信じキリストを信じるなら、天の父があなたの内におられ「もっと大きな業」を示してくださるのです。

<結び>  天の父への道
 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっており、父なる神様に会わせる顔がありません。しかし「わたしは道であり、真理であり、命である」と言われた方を通して、天の父に近づくことができるようになりました。
 キリストがその業によって天の父を示したように、キリストを信じる者がキリストの業を行うことで天の父を示すようになります。キリストが私たちにとって天の父への道となられたように、教会もまた世に対して天の父への道なのです。

 「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:19-20)

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