「キリストの昇天」ルカによる福音書24章44-53節
2021年5月16日
担任教師 武石晃正
黄砂の飛来が落ち着き始めたこの時期、一雨あがった後に空を仰ぎますと非常に青々としてすがすがしい思いがいたします。秋の澄み渡った空とはまた違い、ツヤがあり迫ってくるような深みを感じる青空です。
大空を見上げるとき、しばしば使徒信条の一節から主イエス様が「天に昇り」たもうことを思い起こします。また日本基督教団信仰告白より「かしこより来たりて」また「主の再び来たりたまふを待ち望む」と主のご再臨を待ち遠しくも感じます。
本日はルカによる福音書より復活されたイエス様が弟子たちと過ごされ、見送られながら天に昇られたことについて思い巡らせましょう。
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担任教師 武石晃正
黄砂の飛来が落ち着き始めたこの時期、一雨あがった後に空を仰ぎますと非常に青々としてすがすがしい思いがいたします。秋の澄み渡った空とはまた違い、ツヤがあり迫ってくるような深みを感じる青空です。
大空を見上げるとき、しばしば使徒信条の一節から主イエス様が「天に昇り」たもうことを思い起こします。また日本基督教団信仰告白より「かしこより来たりて」また「主の再び来たりたまふを待ち望む」と主のご再臨を待ち遠しくも感じます。
本日はルカによる福音書より復活されたイエス様が弟子たちと過ごされ、見送られながら天に昇られたことについて思い巡らせましょう。
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1.救いの完成とその証人
ルカによる福音書の記者であるルカについて、使徒パウロは彼自身の同行者であり(2テモテ4:11)、医者であったことを記しています(コロサイ4:14)。このルカは福音書に続けて使徒言行録を記しました。もちろん他にも書簡や文書を記したことと考えられますが、聖書にはこの2巻が収められています。
福音書と使徒言行録を上下2巻としてみますと、ルカは上巻ではイエス・キリストについて、下巻にはその弟子たちについてそれぞれに分けて記したと言えます。福音書と使徒言行録それぞれに昇天の出来事が記されていますが、表現が違って見えるのはイエス様を中心に置いたか弟子たちの側に視点を寄せたかの違いだと言えましょう。
復活したイエス様は弟子たちと40日間ともに過ごされ、彼らに託してゆく教えを説かれました(使徒1:3)。「モーセの律法と預言者の書と詩編」(44)と3つ並べてありますが、これはユダヤの慣習に倣った当時の聖書の区分です。これら3つをもって旧約「聖書全体」を指します。
十字架の死による罪のあがないと3日目の復活により、救いのみわざをすべて終えられて、イエス様は改めて聖書からご自身についてその全貌を説き明かされました。3年余りをかけて聖書から丁寧に教えた上で、実際に身をもって受難受苦と復活をお見せになり、その後でもう一度おさらいをしたことです。
教えを聞いただけの人や奇跡や十字架を見ただけの人は、誰もそれらが本当に神様から出たものであると悟ることがありませんでした。「そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた」(45,46)と書かれているように、教えを聞き、みわざを見て、みことばによって確かめてはじめて弟子たちは悟ることができました。
聞いて、見て、もう一度聞いて悟るということは、イエス様の直接の弟子たちに限ったことではありません。聖書のある個所には「神は、一度告げられた。二度、私はそれを聞いた」(新改訳、詩篇62:11)と書かれており、神の民すべてに当てはまります。みことばを聞いた私たちが、恵みの業を見せていただき、もう一度みことばによって確信をいただきます。これを何度も何度も繰り返してキリストに近づいていくのです。
「これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである」(44)とのイエス様のお言葉は「ほら、どうだい、ちゃんと聖書に書いてあった通りだろ。教えた通りになったよね」と勝利の喜びを弟子たちと分かち合っているようです。
「あなたがたはこれらのことの証人となる」(48)とありますが、元の言葉を調べると「となる」という動詞はありません。強いて補うなら「君たちはこの勝利をその目で見ていてくれたよね、いっしょに喜んでくれたよね」と、彼らが間違いなく第一目撃者であることを法廷における「証人」として言い表しているようです。
イエス様と一緒に喜びに満たされた弟子たちに、しばらく準備の期間が与えられます。感情的な高まりや興奮の勢いだけに任せて出て行ったなら、気持ちが冷めたり困難に遭ったりした時にただちに立ち止まってしまいます。人の思いから出た働きは5年10年とは続けられても、20年30年と経てば情熱や体力の衰えとともに勢いを失うかもしれません。
罪の赦しを得させる悔い改めがあらゆる国の人々に宣べ伝えられるまで、神の国の働きは続きます。人の意欲によってではなく、高い所からの力に覆われるからです。この後、弟子たちは主の教えのとおりペンテコステの日まで都にとどまり、祈り備えます。
2.キリストの昇天
さていよいよ主は託すべき務めをすべて弟子たちの手に委ねられました。イエス様にとっても弟子たちにとってもあっという間の40日だったことでしょう。ベタニアの辺り(50)と地名が示されていますが、ベタニアはエルサレム郊外にあるオリーブ山の東のふもとにある町です。
この町にはイエス様が特別に親しくされていた家族がおりました(ヨハネ11:1、6)。エルサレムとは歩いて行き来ができるところにありますので、イエス様が都に上られる折にはシモンあるいはラザロと知られる彼の家を定宿としていたと思われます(マタイ21:17)。
母マリアとヨセフと暮らしていた頃からイエス様は過越祭に毎年エルサレムに上られていますので(ルカ2:31)、ラザロたちとは家族ぐるみあるいは親戚のような付き合いだったのでしょう。福音書がオリーブ山ではなくベタニアというゆかりの地名を用いたことから、イエス様が愛する者たちとの別れを惜しまれた様子が偲ばれます。
このように福音書はイエス様の足跡を最後までたどって、第二巻の使徒言行録へと繋ぎます。言行録では都から見た地名「オリーブ畑」を用いることで、エルサレムから始まりあらゆる国々に向かう弟子たちの働きへと読者の視線を導いています。
主は弟子たちを「手を上げて祝福され」ました(50)。そのお言葉は使徒言行録に記されています。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(使徒1:7)。
語順の入れ替えはあるものの、福音書で説かれていた教えと同じ働きが託されています。最後の数日にあたりイエス様は、別れを惜しんでいるとはいえ半ば不安げな様子の弟子たちに向けて「くれぐれも頼むよ、ちゃんと助けは送るから、よろしくやってくれよ」と何度も何度も噛んで含むように励まされたのかも知れません。
いよいよ天に上げられるイエス様を弟子たちは伏し拝んで見送ります(52)。そこへ主の使いが現れて言いました。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」(使徒1:11)。
天に昇られたイエス様は弟子たちを置き去りにしたわけではないのです。彼らはかねてより聞かされていた「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」とのお言葉を思い起こしては、イエス様が天に昇られた目的に胸躍らせました。その様子は「大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」(52,53)とある通りです。
何を彼らは思い出したのでしょう。弟子たちは「これらのことの証人」ですから、彼らを通して私たちも同じ「大喜び」を受けとることができるのです。キリストつまり救い主であるイエス様は昇天されて何をなさったのでしょうか、3つ挙げてみましょう。
まず一つ目は使徒信条において「天に昇り、全能の父なる神の右に坐したまへり」と告白しているとおりです。右の座とは支配者の権威そのものを現します。キリストはすべての支配、権威、勢力、主権の上に置かれ、すべてのものの上にある頭として教会に与えられました(エフェソ1:20-22)。
キリストは天に昇り、すべてを支配する王、またすべてを執り成す大祭司となられました。すべてですから「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(使徒4:12)。
次にイエス様は「わたしの父の家には住む所がたくさんある」と告げた上で、「あなたがたのために場所を用意しに行く」と言われたことを思い起こします(ヨハネ14:2-3)。ご自身を信じて救われた者が御父のもとへ行く道と、そこに住む場所を備えてくださったのです。私たちがこの世を去るときにはイエスご自身が迎えてくださるという希望です。
そして3つ目に、イエス様は御父に願い、弁護者である聖霊を遣わして永遠に私たちと一緒にいるようにしてくださいました(ヨハネ14:16)。弁護者とは助け主とも訳される語で、ただ言葉で守るのではなく力をもって支えてくださる方です。
聖霊についてイエス様は「高い所からの力に覆われる」(49)とも「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」(使徒1:8)とも言われています。外側から守られ、内側からいのちをいただくのです。母親のお腹に守られ、へその緒から命を受ける胎児のようです。また母の腕に包まれながら乳を吸う赤子のようです。救いにあずかる者は聖霊によって神の子として生まれかわり、永遠のいのちに生きる者となったのです。
こうしてイエス様の弟子たちは「大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」(52,53)と福音書は結ばれています。
<結び>
キリストの昇天により信仰者は地上を歩むにおいても聖霊によって守られ生かされ、世を去るにおいてもその道と住まう場所が約束されました。「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」(フィリピ1:21)と使徒パウロが記すように、私たちにも救いの希望が明らかにされたのです。
最後にイエス様のお言葉をもう一度読んで終わります。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。」(ルカ24:46-48)
私たちの救いはキリストの十字架と復活、私たちの希望はキリストの昇天にあるのです。
ルカによる福音書の記者であるルカについて、使徒パウロは彼自身の同行者であり(2テモテ4:11)、医者であったことを記しています(コロサイ4:14)。このルカは福音書に続けて使徒言行録を記しました。もちろん他にも書簡や文書を記したことと考えられますが、聖書にはこの2巻が収められています。
福音書と使徒言行録を上下2巻としてみますと、ルカは上巻ではイエス・キリストについて、下巻にはその弟子たちについてそれぞれに分けて記したと言えます。福音書と使徒言行録それぞれに昇天の出来事が記されていますが、表現が違って見えるのはイエス様を中心に置いたか弟子たちの側に視点を寄せたかの違いだと言えましょう。
復活したイエス様は弟子たちと40日間ともに過ごされ、彼らに託してゆく教えを説かれました(使徒1:3)。「モーセの律法と預言者の書と詩編」(44)と3つ並べてありますが、これはユダヤの慣習に倣った当時の聖書の区分です。これら3つをもって旧約「聖書全体」を指します。
十字架の死による罪のあがないと3日目の復活により、救いのみわざをすべて終えられて、イエス様は改めて聖書からご自身についてその全貌を説き明かされました。3年余りをかけて聖書から丁寧に教えた上で、実際に身をもって受難受苦と復活をお見せになり、その後でもう一度おさらいをしたことです。
教えを聞いただけの人や奇跡や十字架を見ただけの人は、誰もそれらが本当に神様から出たものであると悟ることがありませんでした。「そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた」(45,46)と書かれているように、教えを聞き、みわざを見て、みことばによって確かめてはじめて弟子たちは悟ることができました。
聞いて、見て、もう一度聞いて悟るということは、イエス様の直接の弟子たちに限ったことではありません。聖書のある個所には「神は、一度告げられた。二度、私はそれを聞いた」(新改訳、詩篇62:11)と書かれており、神の民すべてに当てはまります。みことばを聞いた私たちが、恵みの業を見せていただき、もう一度みことばによって確信をいただきます。これを何度も何度も繰り返してキリストに近づいていくのです。
「これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである」(44)とのイエス様のお言葉は「ほら、どうだい、ちゃんと聖書に書いてあった通りだろ。教えた通りになったよね」と勝利の喜びを弟子たちと分かち合っているようです。
「あなたがたはこれらのことの証人となる」(48)とありますが、元の言葉を調べると「となる」という動詞はありません。強いて補うなら「君たちはこの勝利をその目で見ていてくれたよね、いっしょに喜んでくれたよね」と、彼らが間違いなく第一目撃者であることを法廷における「証人」として言い表しているようです。
イエス様と一緒に喜びに満たされた弟子たちに、しばらく準備の期間が与えられます。感情的な高まりや興奮の勢いだけに任せて出て行ったなら、気持ちが冷めたり困難に遭ったりした時にただちに立ち止まってしまいます。人の思いから出た働きは5年10年とは続けられても、20年30年と経てば情熱や体力の衰えとともに勢いを失うかもしれません。
罪の赦しを得させる悔い改めがあらゆる国の人々に宣べ伝えられるまで、神の国の働きは続きます。人の意欲によってではなく、高い所からの力に覆われるからです。この後、弟子たちは主の教えのとおりペンテコステの日まで都にとどまり、祈り備えます。
2.キリストの昇天
さていよいよ主は託すべき務めをすべて弟子たちの手に委ねられました。イエス様にとっても弟子たちにとってもあっという間の40日だったことでしょう。ベタニアの辺り(50)と地名が示されていますが、ベタニアはエルサレム郊外にあるオリーブ山の東のふもとにある町です。
この町にはイエス様が特別に親しくされていた家族がおりました(ヨハネ11:1、6)。エルサレムとは歩いて行き来ができるところにありますので、イエス様が都に上られる折にはシモンあるいはラザロと知られる彼の家を定宿としていたと思われます(マタイ21:17)。
母マリアとヨセフと暮らしていた頃からイエス様は過越祭に毎年エルサレムに上られていますので(ルカ2:31)、ラザロたちとは家族ぐるみあるいは親戚のような付き合いだったのでしょう。福音書がオリーブ山ではなくベタニアというゆかりの地名を用いたことから、イエス様が愛する者たちとの別れを惜しまれた様子が偲ばれます。
このように福音書はイエス様の足跡を最後までたどって、第二巻の使徒言行録へと繋ぎます。言行録では都から見た地名「オリーブ畑」を用いることで、エルサレムから始まりあらゆる国々に向かう弟子たちの働きへと読者の視線を導いています。
主は弟子たちを「手を上げて祝福され」ました(50)。そのお言葉は使徒言行録に記されています。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(使徒1:7)。
語順の入れ替えはあるものの、福音書で説かれていた教えと同じ働きが託されています。最後の数日にあたりイエス様は、別れを惜しんでいるとはいえ半ば不安げな様子の弟子たちに向けて「くれぐれも頼むよ、ちゃんと助けは送るから、よろしくやってくれよ」と何度も何度も噛んで含むように励まされたのかも知れません。
いよいよ天に上げられるイエス様を弟子たちは伏し拝んで見送ります(52)。そこへ主の使いが現れて言いました。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」(使徒1:11)。
天に昇られたイエス様は弟子たちを置き去りにしたわけではないのです。彼らはかねてより聞かされていた「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」とのお言葉を思い起こしては、イエス様が天に昇られた目的に胸躍らせました。その様子は「大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」(52,53)とある通りです。
何を彼らは思い出したのでしょう。弟子たちは「これらのことの証人」ですから、彼らを通して私たちも同じ「大喜び」を受けとることができるのです。キリストつまり救い主であるイエス様は昇天されて何をなさったのでしょうか、3つ挙げてみましょう。
まず一つ目は使徒信条において「天に昇り、全能の父なる神の右に坐したまへり」と告白しているとおりです。右の座とは支配者の権威そのものを現します。キリストはすべての支配、権威、勢力、主権の上に置かれ、すべてのものの上にある頭として教会に与えられました(エフェソ1:20-22)。
キリストは天に昇り、すべてを支配する王、またすべてを執り成す大祭司となられました。すべてですから「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(使徒4:12)。
次にイエス様は「わたしの父の家には住む所がたくさんある」と告げた上で、「あなたがたのために場所を用意しに行く」と言われたことを思い起こします(ヨハネ14:2-3)。ご自身を信じて救われた者が御父のもとへ行く道と、そこに住む場所を備えてくださったのです。私たちがこの世を去るときにはイエスご自身が迎えてくださるという希望です。
そして3つ目に、イエス様は御父に願い、弁護者である聖霊を遣わして永遠に私たちと一緒にいるようにしてくださいました(ヨハネ14:16)。弁護者とは助け主とも訳される語で、ただ言葉で守るのではなく力をもって支えてくださる方です。
聖霊についてイエス様は「高い所からの力に覆われる」(49)とも「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」(使徒1:8)とも言われています。外側から守られ、内側からいのちをいただくのです。母親のお腹に守られ、へその緒から命を受ける胎児のようです。また母の腕に包まれながら乳を吸う赤子のようです。救いにあずかる者は聖霊によって神の子として生まれかわり、永遠のいのちに生きる者となったのです。
こうしてイエス様の弟子たちは「大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」(52,53)と福音書は結ばれています。
<結び>
キリストの昇天により信仰者は地上を歩むにおいても聖霊によって守られ生かされ、世を去るにおいてもその道と住まう場所が約束されました。「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」(フィリピ1:21)と使徒パウロが記すように、私たちにも救いの希望が明らかにされたのです。
最後にイエス様のお言葉をもう一度読んで終わります。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。」(ルカ24:46-48)
私たちの救いはキリストの十字架と復活、私たちの希望はキリストの昇天にあるのです。