「聖霊の賜物」使徒言行録2章1-13節

2021年5月23日
担任教師 武石晃正

 ペンテコステおめでとうございます。教会暦では本日(2021年5月23日)は聖霊降臨日、ペンテコステと呼ばれる日です。キリストが「十字架につけられ、死にて葬られ」て死人のうちよりよみがえられた日から7週目に当たります。
 復活した主は、「天に昇り、全能の父なる神の右に坐した」だけでなく、約束どおり弟子たちへ聖霊をお与えになりました。その日から全世界へとキリストの救いが宣べ伝えられ、教会の働きが始まりました。

 本日は「聖なる公同の教会」が創立した記念日を覚え、使徒言行録を開いております。

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1.聖霊が降る(1-4節)
 ルカによる福音書の巻末と使徒言行録の1章には復活したキリストが弟子たちに姿を現し、40日間ともに過ごした後に彼らに見送られながら天に昇られたことが記されています。そこでイエス様は弟子たちを祝福しながらご自身の働きを彼らに託していきました。

  「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」(ルカ24:49)また「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい」(使徒1:4)と主が命じられた通り、弟子たちは都にとどまって祈り備えておりました。
 いよいよ五旬祭の日になりました(1)。イエス様の昇天から10日後のことです。旬とは10日を意味しますので、過越の祭から50日を数えた祝祭です(レビ23:15-16)。また過越の祭はユダヤの暦で第1の月に行われますが、旅人などのために翌月まで期間が設けられました(民数9:10-11)。都は足掛け3か月に渡って祭りでにぎわったことでしょう。

 遠方からの巡礼者の中には、月遅れの過越祭から五旬祭までをエルサレムに滞在した人たちもいたのでしょう。ガリラヤ訛りの人々が10日余りも都に留まっているからといって、それだけで特別に疑われたり捕えられたりすることはありませんでした。
 「突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ」(2)ました。実際に突風のような強風が天から吹き降ろしたならば家屋が倒壊するでしょうから、ここでは書かれているように音が聞こえたということです。すると不思議なことに「炎のような舌が・・・一人一人の上にとどまった」のです(3)。

 激しさと炎という単語から旧約聖書のある場面を思い起こします。エジプトを出たイスラエルがモーセに逆らった時のことです。主は炎の蛇を民に向かって送られました(民数21:6)。モーセは主に命じられ、激しい蛇とも呼ばれるこの蛇を青銅で作りました。旗竿の先に掲げられた青銅の蛇を仰ぐと、蛇にかまれた人は死なずに済んだのです。
 「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:14-15)とイエス様は十字架と昇天について説かれました。「これらのことの証人となる」(ルカ24:48)と命じられた弟子たちは、この日いよいよ聖霊に満たされほかの国々の言葉で話だしました(4)。

 こうして「罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」ための力が、イエス様から弟子たちへと確かに引き継がれたのです。


2.あらゆる国の人々に対する証人(5-13節)
 さてペンテコステあるいは五旬祭と呼ばれるこの日は、もともとは七週の祭や初穂の祭と呼ばれるユダヤの祝祭日でした。そして「男子はすべて、年に三度、すなわち除酵祭、七週祭、仮庵祭に、あなたの神、主の御前、主の選ばれる場所に出ねばならない」(申命16:16)と定められています。

 世界各地へ移住している多くのユダヤの人たちは、生涯に一度でもエルサレムで除酵祭(過越祭)や七週祭(五旬祭)を迎えたいと願っています。イエス様の弟子たちが集まっていたこの年も、多分に漏れず「エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人」(5)がたくさんおりました。
 「住んでいた」とありますが、実際に都や周辺の町に自分の家を持っていた人たちのほか、巡礼で滞在していた人たちも含んでいます。ただ通りすがっただけの参拝客ではなく、移住定住は許されないとしても数日だけでも神の前に住まいたいと願う思いが汲まれます。

 物音に驚いて集まった人たちは「自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて」(6)、あっけにとられては驚き怪しみました。不思議な出来事ではありますが、弟子たちは知らない土地の国ことばを話していたのです。
 驚きようと言ったら「どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか」(8)と、相当なものでしょう。「生まれた故郷の言葉」つまり母国語・母語と呼ばれるものです。国内にいるとあまり意識する機会はありませんが、外国人ばかりの集まりや外国の旅行先では母国語の特別さを実感することがあります。ずっと聞きなれない言葉ばかり飛び交っている場所では、どんな雑踏であっても自分の母国語だけには耳がピンと立つのです。

 「パルティア、メディア、エラム」「また、メソポタミア」はパレスチナより東の地域です。、「ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア」など主に小アジア半島の地名であり、使徒言行録の中でこれから弟子たちが遣わされてゆく場所です。
 「エジプト、キレネに接するリビア地方」という東地中海の南岸部を含めて、具体的にどの地域の言葉であるか明らかにされています。家の中で弟子たち様々な言語で話していましたが、集まった人たちはそれぞれ自分の国ことばをはっきりと聞き分けたのです。

 ところで筆者であるルカは「しかし『あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ』と言って、あざける者もいた」(13)と、反対者がいたことも隠さずに記しています。どんなよいわざであっても、反対者や迫害者が起こるのです。また、これはペンテコステの出来事がキリストの弟子たちとって都合のよい作り話ではないことを示します。
 ここに挙げられている各地へ主の弟子たちが遣わされ、その様子が使徒言行録の中に収められています。序盤では使徒ペトロとヨハネ、中盤からは使徒パウロの歩みを中心に記されています。丹念に読み進めますと、これら使徒たちが遣わされる以前に、既に各地に弟子と呼ばれる人々がいたことが分かります。

 世界の各地からはるばる「主の御前、主の選ばれる場所」に出てきた「信心深いユダヤ人」の中には、ペンテコステの日にそれぞれの母語で語られたキリストの福音を受け入れた者がありました。「エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで」とイエス様から働きを委ねられた弟子たちは、ペンテコステのこの日、いよいよ地の果てへと踏み出しました。

3.聖霊の賜物
 聖霊について、日本基督教団信仰告白において「唯一の神は、父・子・聖霊なる、三位一体の神にていましたまふ」と証しされています。ただ聖書には「天地の造り主、全能の父なる神」や「その独り子」イエス・キリストほどには、聖霊が主体的には記されていません。神様が働かれるとき聖霊すなわち神の霊が働かれているからです。

 イエス様はこの方について「高い所からの力」(ルカ24:49)や「弁護者」(ヨハネ14:16別訳「助け主」)と呼んでおられます。弟子たちがキリストの救いの業の証人となるため、またイエス様が与えられた掟を守るために、天に昇られた神の御子が御父とともに真理の霊を遣わしてくださいました。
 神様は特定の人を選び、ある目的のために特別な力や能力をお与えになることがあります。目的のために選ばれた人にだけ与えられるものを聖書では賜物と呼んでいます。他方で神様が惜しみなく与えておられ、求めるなら誰でも受けることができるものを恵みと呼ばれています。恵みであれば信者未信者に関わらず受けることができます。

 キリストの救いは恵みですから求めるなら誰でも受けることができます。しかし聖霊の賜物は賜物ですから、特定の者すなわちキリストの救いを受けた者に与えられます。また賜物には目的があります。その目的をイエス様は「罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられ」「地の果てに至るまで、わたしの証人となる」と言われています。この目的達成のために様々な賜物、能力が発揮されるのです。
 ただし強壮剤のような働く力を与える一時的に強めるものとは違います。「主は聖霊によりて宿り、処女マリヤより生まれ」ました。この聖霊が与えられたというのです。私たちは罪人に過ぎない者でありながら、なんと神の霊をこの身に受けて神の子として生まれ変わったのです。

 しかも「永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」(ヨハネ14:16)とのお墨付きです。私たちが「キリストを証し、福音の真理を示し」ているうちは勿論、弁護者として助けてくださいます。たとえ弱ったり悩んだり迷ったり苦しんだりすることによって証人として立つことができなくなったとしても、決して離れることなく一緒にいてくださるのです。「今は弱っているけれど、確かに神の子です」と御前に弁護してくださいます。

<結び>  
 初めの弟子たちはエルサレムから全世界へと遣わされる備えとして、各々が遣わされる地域の言葉が与えられました。驚き怪しむ人に向けて、その人の母語で懇ろにキリストにある救いを説いたことでしょう。その後でめいめいが各地へと散って遣わされます。
 今や福音は世界中に宣べ伝えられ、聖書は非常に多くの国語に翻訳されました。エルサレムから見て地の果てや、更にその海の向こうにある国にまで届けられました。

 ガリラヤの人たちは聖霊の賜物として各地の国ことばを授かりました。ところが実際にその土地へと赴けば、言葉は通じたとしてもよそ者として扱われたことでしょう。仮に彼らが中国語や韓国語、日本語などの言葉で話すことができたとしても、私たちはよその国の人と見るでしょう。その土地で生まれ育った者のように生きることは難しいのです。
 あのペンテコステの日のような劇的な出来事がなくても、私たちには聖霊が賜物として与えられています。私たちは使徒たちの誰よりも遠く、誰よりもふさわしく地の果てへと遣わされたキリストの証人なのです。

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