「御国を受け継ぐ者」マタイによる福音書11章25-30節

2021年5月30日
担任教師 武石晃正

 先週の礼拝はペンテコステ、イエス様がかねてより約束されていた聖霊を弟子たちへ遣わしてくださった日の記念日でした。この日から弟子たちは「罪の赦しを得させる悔い改め」をあらゆる国の人々に宣べ伝える働きへと遣わされました。この証しは聖霊によってキリストの名による教会へ受け継がれています。
 「旧新約聖書は、神の霊感によりて成り」と日本基督教団信仰告白において告白されるように、聖霊が働かれて神のことばが私たちにもたらされました。

 福音書はイエス・キリストについての単なる言行録ではなく、聖霊によって「キリストを証し、福音の真理を示し」ています。本日はマタイによる福音書より、聖霊の助けをいただきながら「神につき、救いにつきて」神のことばを受け取りたいと願っております。

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1.隠されていた計画(25-27節)
 イエス・キリストがご自身を世にお示しになられた公生涯について、その期間を活動された地域によって2つに分けることができます。前半はお育ちになられたナザレの町を含むガリラヤ地方での宣教活動、後半は救い主メシアとしてエルサレムを目指すユダヤ地方での働きです。
 更に前半のガリラヤ宣教については、弟子を集めながらまずご自身で宣教を始められた時期(4-9章)と、弟子たちを各地へ遣わしながら訓練なさった時期(10-18章)に分けることができます。弟子たちはペンテコステの日に聖霊を受けたことでキリストの証人として全世界へと派遣されましたが、イエス様は前もって弟子たちを任命して繰り返し練習させておられたのです。

 「そのとき」とマタイは読者の注意をひきつけます。どのような時だったのでしょうか。主に選ばれた弟子たちが世に遣わされ、天の国の到来と悔い改めを伝える先々で迫害を受け始めた時期です(10章)。イスラエルの人々は天の国を待ち望んでいましたが、願っていたものと違ったために神様から遣わされた者を拒み、数多くの奇跡が行われても悔い改めることをしませんでした(11:1-24)。
 福音のために迫害を受ける者たちに向けてマタイは「そのとき」と呼びかけています。福音書が書かれた当時、教会は実に迫害と困難に直面していました。イエス様が弟子たちに予告したように、主にある人々が「地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれ・・・総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをする」よう強いられた時代です。そして聖書は福音のために悩み苦しむすべての人に語り掛けているのです。

 天の国とそのみわざについて、イエス様は御父が「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しなりました」と語られました。知恵ある者、賢い者とは誰でしょうか。身分や学識の高さに限ったものではなく、よく言えばこの世の価値観、尺度、常識などに長けた人たちです。別な見方をすれば損得勘定などの世故に長けた人たちと言えるでしょう。
 神の民と呼ばれる人々に向けて聖書は語っています。旧約聖書にも「賢者の知恵は滅び、聡明な者の分別は隠される」(イザヤ29:14)と書かれており、使徒パウロは書簡の中で「神は、この世の知恵を愚かなものにされた」と記しています(Iコリント1:20)。残念ながらイエス様の時代のイスラエルにおいても、福音書が書かれた年代の教会の中にも、世の知恵や賢さによって天の国を値踏みした人たちがたくさんいたことが分かります。そしてこのような人たちは宣教のことばの愚かさにつまずき、彼らの目には御国が隠されてしまったのです。

 「そうです、父よ、これは御心に適うことでした」(26)とイエス様は知恵ある者たちに隠された御国が「幼子のような者」に示されたことを喜ばれました。ここで言われている幼子とは、言われたことを疑わずに受け入れ、聞いた福音を素直に信じる様を指します。世の人たちから「信じる者は騙される」などと揶揄されるような素直な人たちです。
 世の知恵がどれほど優れたものであっても、終わりの日には天地と共に滅びます。世の富をどれだけ豊かに持っていたとしても、天の御国に持っていくことはできません。愚かだと言われてもみことばを信じ、御国の計画を示されることは主の御心に適うことです。「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」(Iコリント1:18)。

2.御国を受け継ぐための保証(エフェソ1:8-14)
 さて、福音書はイエス様についての事実を記録するとともに、教会に対して必要な指示を与えているものです。主から聖霊を受けた弟子たちがその促しによって筆を執り、聖霊の導きにって教会がこれを継承しました。ですからある者には隠され、ある者には示された事柄について、聖霊が大いに関わっています。
 このことについて使徒パウロの書簡から引用しながら思いめぐらせてみます。エフェソの信徒への手紙の中で、神様が知恵ある者たちに隠しておられたものを、パウロは「秘められた計画」と呼んでいます(エフェソ1:9)。これが知らされたことについて「前もってキリストにおいてお決めになった神の御心」であると述べており、天の国が知恵ある者や賢い者には隠されたことを「御心に適うこと」だったと言われたイエス様と相通じています。

 世の知恵ある者たちに隠されていた「秘められた計画」とは、「救いの業が完成され」てキリストにある者たちが「約束されたものの相続者とされ」ることです。イエス様が「幼子のような者」と呼ばれた者たちは、「真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押された」(1:13)のです。この聖霊もまた、ペンテコステの日まで隠されていました。
 秘められていたということですから、恐らくイエス様から直接に聞いていた弟子たちでさえ、幼子のような者と呼ばれていながらも、聖霊が与えられてその教えの真意を悟ったことでしょう。聖霊を受けて確証を得たことを弟子たちは福音書や書簡に記したのです。同じくキリストの救いによって聖霊を与えられている私たちも、聖霊を通して聖書を神のことばとして受けることができます。

 「受け継ぐ」という語は別の箇所では遺言と結び付けて用いられています(ヘブライ9:15以下)。日本語における「家督を継ぐ」「家業を継ぐ」という言葉と同じく、その家の子だけの特権です。いかに努力を積んでも、どれほど優秀であっても、よその家の子には与えられないものです。
 選びの民であるイスラエルはアブラハムの子孫としてその契約と祝福の相続者でありました。子孫ですからその家に生まれた子、本来であれば生まれながらに天の国を受け継ぐ者でした。しかし異邦人や世俗的なものとの区別を意識するあまり、神殿へのささげ物や割礼などの儀式、律法による行いが不可欠であると考えるようになってしまいました。せっかく家の子として生まれたのに、わざわざ家を飛び出して自らを異邦人と同じ身分へと追いやってしまったことになります。

 「この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです」(1:14)。聖霊によって生まれた者は神の子であり、恵みによって天の国を受け継ぐ者です。
 
3.御国を受け継ぐこと(28-30節) 
 あらためて朗読いたしました箇所に戻り、後半部分28節以下に進みます。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(28)とのイエス様の招きの言葉に、どれほど多くの人々が慰められたかはかり知れません。
 ここでイエス様が語りかけておられる相手は「弟子たち」に限られておりませんから、第一にはその場にいた多くのガリラヤの人たちへ向けられた言葉です。彼らは神の民として生まれたのに、人の目を気にしたり神様からよく思われたりしたくて、一生懸命にユダヤの掟を守ろうと努力していました。少しでも違反や落ち度があれば誰かに指摘され、あるいは償うためのささげ物が求められたのでは疲れ果てるばかりです。

 新約聖書の他の箇所、特にパウロの手紙から初期の教会の中にも律法主義的な考え方が根深く残っていたことが分かります。福音書もまた教会に向け、天の国を受け継ごうとして行いや努力に頼っていないか、そのことで疲れた者がいないかと尋ねています。あるべきところから離れてしまっているので「わたしもとに来なさい」とイエス様が呼ばれます。
 「軛を負い・・・学びなさい」と招かれます。軛とは牛や馬に車や農具を引かせるために2頭連ねて首に掛ける馬具です。たとえば体が大きくなった子どもの牛は母親と軛で繋がれて、荷の負いかたや道の歩き方を学びます。鞭で打たれて強いられるのではなく、軛によって子どもが親から生き方を受け継ぐ様子です。安心して歩めるのです。

 子牛が軛によって一人前の牛として学ぶように、聖霊によって生まれた子どもは御子キリストと軛で結ばれることで神の子として歩みます。軛はその家の牛であるしるしです。神の子とされた私たちは聖霊という軛によってキリストにつながれ、御国を受け継ぐ者となりました。

<結び>  
 かつてユダヤの人たちは律法やそれに関わる伝承などの重圧を重荷として負っていました。また「だれでも」と呼ばれているように、イエス様は私たち一人一人が人生の思い煩い、苦しみ、問題などに悩む者であることを知っておられます。
 天の御国の安らぎは力づくで激しく襲って奪い取れるものではありません。子とされた者、幼子のような者と呼ばれる者に恵みとして与えられます。聖霊によって軛のようにイエス様と繋がれた私たちは、御国を自力で得るのではなく、御国を受け継ぐ者なのです。

 せっかく恵みによって救われたのに、独りで重荷を背負いこんでいませんか。最後にもう一度イエス様の招きの言葉を読んで、祈りましょう。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」(28-29)

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