「地の塩、世の光」マタイによる福音書5章13-16節

2021年6月13日
担任教師 武石晃正
 
 子どもの頃、教会学校の先生から「誰でもイエス様を信じれば、神様の子どもとして天国へ入れていただけます」と教わりました。中学高校と進むにつれ、いつも何か抜けだせないような思いがまとわりついていました。学校の友だちとは違う何か特別なものが欲しくて、神様の子どもになるためにイエス様を信じようと決心したのを覚えています。
 信仰をいただいてからは「何もかもが順風満帆、神様の恵みのうちを生かしていただきました」というようようにはうまく進んだわけではありません。自分の弱さ罪深さ、若気の至りによる紆余曲折、自分の意思や力では避けようがなかった困難な場面もありました。

 幸いにも何度か困難を経る中で「お委ねする」ということを学びつつあります。それでも「こんなに悩んだり苦しんだりするぐらいなら、どうして早く天国に行かせて迎えてくださらないのか」「何のために私は生かされているか」とつぶやいた祈りもありました。
 神の民であっても不安や悩みを抱えながら生きていることをイエス様はよく知っておられます。本日の箇所は神の民でありながら煩い悩むイスラエルの人々へ向けてイエス様が語られたお言葉です。

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1.あながたがは
 この箇所でイエス様が示されていることは「あなたがたは地の塩である」と「あなたがたは世の光である」の二つです。二つのたとえをもって一つの真理を示すのはユダヤの習わしのようです。二つの目で一つのものを立体的にとらえることに似ています。「あなたがた」について「地の塩」と「世の光」という両側面から語られています。
 ではまず「あなたがた」とは誰を指しているのかについて考えてみましょう。第一にはもちろんイエス様が直接にお語りになっている相手です。今から約2000年前のパレスチナ、シリアに近いガリラヤと呼ばれる地方に住んでいるイスラエルの人たちです。

 福音書の前後を見ますと山上の説教と呼ばれる一連の教えであることが分かります。「弟子たち」(1)と呼ばれていますが、イエス様がまだ12人の弟子を取る前のことです。イエス様の話をもっと聞こうとして、群衆の中から進み出てきた大勢です。
 当時のイスラエルはローマ帝国の属州であり、神の民でありながら異教徒が治める大国の支配下にありました。神の民であるのにどうしてこのような憂き目に遭うのかと、国中が解放者としての救い主メシヤを待望していた時代です。その中でも北部にあるガリラヤ地方はシリアの影響を大きく受けていました。

 その上、ここにいるのは当時「悪霊に取りつかれている」「けがれている」と見なされていた重い病によって、本人あるいは家族が苦しんでいた人たちです。神の民に生まれながら、異邦人の支配にあえぐばかりか、同心の共同体からも居場所を失わんとした人々です。
 八福とも呼ばれる8つの教えが3節から10節に記されておりますが、「幸いである」などと言うことは到底かなわないような人たちに向かってイエス様は語っておられるのです。言うなれば、神からも人からも見捨てられたような思いをして生きていた人たちです。これらの人々に向けてイエス様は「あなたがたは」と呼びかけらました。

 第二の「あなたがた」は、福音書が書かれた年代の人々です。山上の説教から約40年後の教会において、この御言葉が語られ、書き留められました。キリストの血による新しい契約にあずかり、主が約束されたとおり聖霊が与えられた人たちに向けて語られました。
 彼らもまた神の民とされながらも非常に困難な歩みをしていました。ユダヤ人からはナザレの分派として迫害され、また皇帝を神として崇めないことからローマ帝国からも迫害を受けました。親兄弟そして伴侶を殉教で失い「なぜこんなひどい目に遭いながらも生き延びなければならないのだろうか」と嘆き悲しむ人々が「あなたがた」と呼ばれています。

 第三には、あらゆる時代のあらゆる国における神の民に向けて「あなたがた」と呼びかけられています。聖霊の導きによって書き記された神のことばが、聖霊によって今もなお神のことばとして語り掛けられているのです。
 代代の聖徒と同じく、神の民でありながら様々な困難に直面している人たちを呼び起こします。「心の貧しい人々」「悲しむ人々」に始まり、キリストのために「ののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられる」すべての人々に向けて、「あなたがた」と呼ばれています。

 そして今日ともにみことばを求める私たちにもまた、「あなたがたは」と響いています。。

2.地の塩である
 困難に際して気落ちしやすく弱さを抱えた神の民に向けて、主は何であると語られているでしょうか。まず一つ目は「あなたがたは地の塩である」ということです。
 地とは地面という意味ではなく、神様がおられる天に対して人間である私たちが住んでいる世界を指していることばです。後に触れます「世の光」の世と同じものを指します。

 塩と申しますと、現代の日本における日常生活では調味料として精製された食塩を指すことが多いでしょう。岩塩として売られているものであっても、精製こそしていないものの非常に純度の高い食塩の部分だけより分けられています。
 翻ってイエス様の時代のパレスチナで塩と呼ばれるものは、言うなれば掘り出してこられたばかりの岩塩のようなものだったそうです。調理や食事に際してその塊から「塩気」と呼ばれるもの、つまり私たちが普段「塩」と呼んでいる食塩を削り取って用いるのです。削っていくと終いには「塩気」がなくなって砂や礫の塊となりますから、土や埃のように外に捨てられてしまいます。

 白っぽい岩石あるいは土くれの塊ですから、この「塩」と呼ばれるものは見栄えしません。仮に切り石のように真四角に整えたとしても、脆く崩れやすいのです。大理石のように立派な建物を建てるために用いられることはないでしょう。
 見栄えもせず脆く弱いものでありますが、「塩気」があるのでかけがえのない「塩」なのです。打ちひしがれたイスラエル、迫害にあえぐ教会、そして私たちもまた様々な困難に悩み苦しむ者でありますが、主の目には「地の塩である」と尊ばれています。

 この「塩」は「塩味をつける」ために用いられます。同様の言い回しを使徒パウロが手紙の中で「いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい」(コロサイ4:6)と用いています。聖書において「塩味」とは口に心地よい程度の味付けを言い含むようです。
 注解書などを開きますと、この塩について防腐性があると触れられています。しかし実際に食塩が防腐性を発揮するには、塩漬けと呼ばれるほどの濃さが必要です。詳しい説明は省きますが、一般的な腐敗菌であれば食塩濃度5%以上でその活動が抑えられ、20%前後以上で繁殖を防ぐことができると言われています。

 5%と一口に申しましても、海水が3.5%前後ですからそれよりもはるかに塩辛いのです。20%であれば、濃口醤油の15%に対して更に食塩を加えた塩分です。もしこれらを口にするならば「あぁ、塩味が利いているね」などと悠長な言葉は出てこないでしょう。一番薄い海水でさえ「あー、しょっぱい!」と口から吐き出すほどです。イエス様やパウロであれば「塩味」とは言わずに「塩気そのもののだ」と言うのではないでしょうか。
 一方、人間のからだは体重比で約0.9%の食塩を含み、体液では0.3%程度の食塩水に相当すると言われています。いずれの数字をとっても1%に満たないわずかな量ですが、個人差があってもこの程度の濃さが口に快いとされる「塩味」です。

 塩が物を腐りにくくするということは大いに認めつつも、イエス様やパウロの言葉が「塩味」であることは一考に値します。 

3.世の光である
 次いで、イエス様は「あなたがたは世の光である」と言われました。光という語についても、私たちが知っている光そのものを指すというよりも、光を発する物のほうを意味するようです。話し言葉で「あかり」と呼ばれる類のものと言い換えてよいでしょう。
 「光」あるいは「あかり」というものは、周りを適切に照らすことが大切です。近すぎても遠すぎてもうまくありません。升の下や箱の中に置くことは論外だとしても、いくら高いところだとは言え梁の上においては役に立ちません。

 また、いくら出番を作りたいと思っても、日が沈む前から灯していたのでは文字通り「昼行灯(ひるあんどん)」だと言われてしまいます。暗い所なら役に立つだろう、と昼間なのにわざわざ大きな升の下に置いた人がいたのかも知れません。
 「塩」が調理場に置かれて調理人の手で必要な分だけ用いられるように、「光」「ともし火」も相応しい場所である燭台の上に置かれ、主人が必要とする時だけ灯されるのです。ともし火が家じゅうを明るくしようと勝手に歩き回って、家具でもなんでも片っ端から火を点けたならとんでもないことになります。置かれた場所で輝き続けるからこそ「立派な行い」だと見られるのです。

 イエス様の弟子たちでさえ十字架の直後は「ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」(ヨハネ20:19)とあります。ちょうど升の下に置かれたともし火のようです。ユダヤやローマの迫害に遭った人々もまた同じ思いでした。困難に窮する神の民すべての者に「あなたがたは世の光である」とイエス様は招いておられます。

<結び>  
 塩あるいは光にはそれぞれに働きがあり、主人の目的に相応しい場所に置かれます。塩であればその内にある塩気と呼ばれる食塩を用いて、他のものに塩味をつけます。光であればともしび皿に満たされた油が燃やされて、周りのものを照らします。
 不格好な土くれの塊のようなものです。四角く整えても家を建てるには脆くて役に立たないものです。しかし塩気があるので塩として尊ばれ、味付けをする時まで取っておかれます。ともし火は升の下でも梁の上でもなく、燭台に置かれます。油が充たされているのなら、主人が必要とするときにいつでも火を灯していただけます。

 地の塩また世の光として、信仰を保ち聖霊に満たされて歩み続けましょう。
 「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」(5:16)

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