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「生涯のささげ物」マタイによる福音書5章21-37節

2021年6月20日
担任教師 武石晃正

 先日、事務用品などを求めるために入った店先でパッと視界に入ったものがありました。黄色い板状のものに黒で文字や記号が記されていました。大きさはA4版ほどでしょうか、とにかく黄色と黒の色使いのために気を取られた次第です。
 何の標識かと近寄って手に取りましたところ「適切な距離を保ちましょう」と日本語で書かれており、他にも何か国かの言葉が添えられていました。距離を保つどころか、つい近寄ってしまったというわけです。

 感染拡大予防に限らず、距離を保つということは大切なことです。人と人との間柄について「親しき中にも礼儀あり」とのことわざもございます。
 神様の距離はいかがでしょうか。かしこまっていては他人行儀、甘えるときは甘えてよいお父ちゃんでもあります。その御言葉も口うるさい小言のように杓子定規にとらえるか、心得として胸に収めて愛のわざに励むかで、私たちの生涯も大きく開きがありそうです。

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1.負いやすい軛
 朗読しました箇所は山上の説教と知られているイエス様の説教の一部分です。この山上の説教はいくつもの教えを続けて書き記されたものですが、イエス様が立て板に水のように一気にお話されたかどうかは一考する余地が残されています。
 ガリラヤ地方で伝道を始められた初期から、広く教えておられたことを取りまとめたようにも見受けられます。ガリラヤ中を回って(4:23)、一巡してから山に登られ、群衆や弟子たちと呼ばれるイスラエルの人々へ語られた教えです。

 神の民イスラエルに向けて律法や預言者を「廃止するためではなく、完成するため」(17)にご自身が来られたとイエス様は語っておられます。当時のユダヤでは律法や掟の書、つまり旧約聖書の教えに加え、それを守り行うための規則や細則としての伝承がありました。
 命令に命令、規則に規則と積み重ねられた掟のことをユダヤの人々は「重荷」と呼んでいました。厳しい掟を更に厳格にしたのでは固くて痛みを与える軛(くびき)です。しかしイエス様は「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」(11:30)と安らぎを得られるようにしてくださるのです。

 みことばを四角四面に受け止めて頑なに守ろうとするならば、その言葉は天の父による口うるさい小言に響くでしょう。掟の言葉の背後にある父の御心を説かれたイエス様の教えを、マタイは一つのまとまりとして書き記しています。
 もっとも山上の説教の時点ではイエス様はまだ12弟子を取っていませんので、マタイ自身もまた弟子入りする前のことです。マタイが弟子になる前からイエス様は律法についてこのような解釈を示しておられ、使徒たちも当初から基本としていた姿勢であります。

 イエス様ご自身の教えであると同時に、福音書が記された年代の教会が必要としていた教えでもありました。たとえば使徒言行録15章のように、しばしば律法の解釈や救いの定義について確認が必要な場面が起こります。人の都合で曲げることなく、イエス様の「負いやすい軛」によって聖書の掟を担うことができるのです。

2.生涯に関わる戒め
 「あなたがたも聞いているとおり」とイエス様は口を開き、人々が良く知っている律法の戒めを取り上げます。イエス様が律法や預言者をどのように完成させるのかを示すために、いくつかの例を挙げて教えを説かれました。
 もちろん一つ一つの教えは大切なのですが、これらは律法全体に対して枝葉の部分です。木を見て森を見ずということにならないために、一つ一つに耳を傾けながらも、全体をもって神のおこころに気づくことができれば幸いです。

 人々の注意を引き付けるためにイエス様は刺激の強い掟を引き合いに出しており、他にもたくさんの教えを説かれた中からマタイは厳選して取り上げています。朗読した箇所であれば「殺すな」(21)、「姦淫するな」(27)、「妻を離縁する者は、離縁状を渡せ」(31)、「偽りの誓いを立てるな」(33)です。
 これらは私たちが聞いても耳障りがある言葉ですが、日常生活では耳慣れないからこそハッとするものです。テレビやラジオ、新聞などに事件として取り上げられる類のものです。普段の身の回りではまず起こり得ないようなことだからニュースになるわけです。

 同様に当時のガリラヤの人たちも「殺す」「姦淫」「離縁」などとは無縁だったことでしょう。私たちがテレビの報道を見て「あら事件だわ、嫌ね」と怖がりながらもどこか自分とは無関係に感じるような思いです。時に「この人が犯人だ、悪い奴だ」と指をさすこともあるでしょうか。
 大きく見える罪、自分とは無縁であると思われるから他人の行いを責めたり裁いたり指さしたりするものです。「私はイエス様の十字架で救われなければならない罪人だけど、人殺しや不倫ほどの悪いことはしていない」と心のどこかに抱いていることもあります。

 では誰かを悪者であると指をさすとしましょう。世間一般でもしばしば言われることですが、人を指さすとき3本は自分を向いているのです。明白で大きな罪は人差し指で示されていますが、手のひらであなたの罪が隠されていませんかと問われているようです。
 指をさしながらイエス様が話をなさったかは定かではありませんが、腹を立てたり悪口を言ったりしていませんかと尋ねられています。あるいは欲に心が動かされたり都合よくルールを解釈したり、法の上あるいは人と人との間では悪い行いをしていなくとも、神様の目から見れば不正には変わりないのです。

 とはいえ「あいつは人の悪口を言ったから地獄行きだ」「あの人は大口を叩いて誓ったから神様に背いている」と目くじらを立てるのでは本末転倒です。福音のことばを律法主義へと逆もどりさせることになります。ですから、イエス様はこれらの教えを文字通りの意味ではなく、話を大げさに膨らませて人々の心をつかんで話をされたということです。
 もしそうでないならば、異邦人である私たちクリスチャンは律法に関して律法主義者やファリサイ派の人々の義にまさるはありえませんから、「あなたがたは決して天の国に入ることはできない」(20)と門前払いされてしまうのです。そんなことは決してありません。

 キリストを信じる者、神を礼拝する者たち、すなわち教会の人々へマタイはイエス様のお言葉を書き送っています。「だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい」(23,24)、そして「早く和解しなさい」(25)です。
 祭壇への供え物に関する教えを取り上げますと、これは自分を神の前で潔白であると周りの人に示すことを意味します。自分自身では正しいと思っていても誤解や反感を持たれることはありますし、すべての人と仲良くなるということは誰しもが難しいと感じるところでしょう。「そこで思い出したなら」とイエス様は続けられます。気づかなかったなら仕方がないとしても、もし相手の気持ちに気づいたのであればそれを無視したりないがしろにしたりすることのないようにと導かれています。

 たとえルールや理屈の上で違反がないとしても、いかに正しい行いをするとしても、あるいは主張しうる正当な権利だとしても、それらによって神様が愛しておられる他の誰かを損なってしまったら何の得にもならないことです。イエス様は私たちのうちに大なり小なり罪があるのを一切合切ご存じの上で、身代わりとなって十字架にかかられたのです。
 罪の世に生まれアダムの子孫として生を受けた私たち人類は、みな生まれながらの罪人です。神様から見れば存在そのものが罪なのです。キリストの血によって覆われ、義の衣を着せていただいているのできよめられつつあるのです。そしてその完成、すなわち主の再臨と私たち自身の復活に希望を抱いています。

 朗読いたしました箇所の後を見ましても、当然のこととして認められていた復讐や敵への報復さえもイエス様は否まれています。どの程度なら許されるか、どこまでなら認められるかと考えている時点で、程度に関わらず神のみこころにそぐわないことなのです。
 つまるところ、イエス様とその教えを直接に受けた使徒たちの律法に対する解釈の基準は、「あなたがたの天の父の子となるため」に「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者」として生涯を神の前にささげることです。

 神様は子どもたちが誰ひとりとして損なわれることなく、神を愛し、互いに敵味方なく愛し合うことを望んでおられます。
 

<結び>  神さまに生涯をささげること
 かつてイエス様が「あなたがたも聞いているとおり」と言われて、人々がよく知っている掟を用いて説かれました。なじみのある聖書の言葉でも、人を生かすも殺すも読み方ひとつ、受け取り方ひとつにかかります。

 冒頭で適切な距離という言葉を引き合いに出しましたが、近くから遠くまで焦点をきちんと合わせてみことばを読むことができたなら、神様の愛を立体的に、奥行きを感じながら味わうことができるでしょう。
 神様との距離はいかがでしょうか。罪の世に罪人として生まれた私たちは神様との間に文字通り天と地ほどの隔たりがあります。きよめられている途上でもあり、キリストの救いを受けて子どもとされた特権もあります。

 人と人との距離ばかりでなく自分自身の中ある罪との距離というものもありましょう。他人の罪は見えるけれど自分の罪は身近にありすぎて気づきにくいものです。隣人と距離も詰めすぎておせっかいだと反感を持たれるのは困りますが、互いの祈りが届かないほど遠くならないように保ちたいところです。
 
 「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」(ローマ5:8)
 このご愛をいだきつつみことばを読み、聖霊のきよめをいただきながら、イエス様に生涯をささげましょう。 

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